序章 第一幕:見捨てられた聖女 第6話 前編
翌日の朝、空は雲一つなく澄み渡り、柔らかな日の光が静かに神殿を照らしていた。しかし、その光の柔らかい輝きとは裏腹に神殿の空気はどんよりと重く、沈黙に満ちていた。昨日の騒動について、まだ誰とも口に出していない。だが、廊下を歩く足音一つ一つにも緊張が滲んでいた。
マリーは自室の窓辺に座っていた。朝の祈祷は不要だと神官に告げられた。それは命令でもなく、配慮のような響きだった。しかし、彼女には遠ざけられたという感覚が胸に残った。祈りの代わりに与えられた静寂は思いのほか長く、そして重かった。彼女は手の甲に浮かぶ紋を見つめながら何度も問いかけていた。
ーー私はここにいてもいいだろうか。
クールベアトと別れた時の記憶がよみがえる。焚火の煙、静かな問いかけ、そして手の甲への口づけ。あの瞬間、風がふっと吹いた。いつの間にか、刻まれていたのだ。神殿に戻ったマリーの手に刻まれたその紋を見た神官たちは、言葉を失った。祈りの場は凍りつき、空気は張り詰めた。神殿に仕える者にとって、異教の神の加護は穢れであり、背信であり、災厄そのものだった。それは神の秩序を乱す風であり、聖域に吹き込んではならない風だった。
昼前、扉の向こうから控えめなノックの音が響いた。
「神官長がお呼びです」
侍女の声は淡々としていたが、その目はマリーを見ようとしなかった。逸らされた視線に、彼女はすでに何かを察していた。
神官長の部屋は神殿の奥にある静かな回廊の先にあった。そこへ向かう途中、すれ違った神官も侍女も、誰一人として彼女に挨拶をしなかった。むしろ、背中に刺さるような視線とひそひそとした声が耳に残った。
「やっぱり、あの紋が……」
「異教の加護なんて、穢れ以外の何物でもないわ」
「聖女なんて呼ばれてたけど、結局は神に選ばれなかった人間よ」
「昔から、あの子は何か違ってた。笑ってても、どこか冷たい目をしてた」
「神殿に置いておくなんて危険よ。災いを呼ぶわ」
その言葉は、刃のようにマリーの心を切り裂いた。彼らの声は、事実ではなく憶測であり、恐れであり、偏見だった。けれど、その声の数が多ければ多いほど、真実のように響いてしまう。
彼女は足を止めることなく、ただ静かに歩き続けた。けれど、胸の奥では何かがじわじわと崩れていた。
神官長の部屋に入ると、空気はさらに冷たく張り詰めていた。窓は閉ざされ、光は差し込まず、まるで裁きの場のようだった。神官長は机の前に立ち、見下ろして言った。
「聖女 マリー・スビルー・あなたは神の意思に背いた。」
その声は怒りでも悲しみでもなく、ただただ決定事項を伝えるための淡々とした冷たい響きだった。
「神殿はあなたをこれ以上受け入れることはできない。本日をもって、あなたを国外へ追放する。一か月以内にこの国を出ていきなさい」
その言葉が空気を切り裂いた瞬間、マリーの世界は音を失った。心臓の鼓動さえ、遠くに感じた。マリーは何も言えなかった。ただ、胸の奥で何かが壊れた音がした。それは信仰でも希望でもなくーー自分自身の存在そのものだった。
神官長はそれ以上何も言わず、視線を逸らした。




