序章 第一幕:見捨てられた聖女 第5話 後編
神殿の奥にある古文書室が重厚な石壁に囲まれ、蝋燭の灯りがゆらゆらと揺らぎ、壁に映る影は不気味に伸び縮みしている。神官たちは慌ただしく巻物を広げて、棚から次々と古い文献を取り出し、机の上に積み上げていく。その手つきは焦りに満ちていた。
「異教の加護だと……?」
「聖女の資格を見直すべきでは……?」
低く、ざらついた声が部屋中に響く。誰もマリーに直接問いかけることはなかったが、まるで、異物を見る目で彼女を見つめていた。
彼女は部屋の中央に立たされ、視線の嵐に晒されていた。その手の甲には青緑色の紋が浮かんでいる。心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響き、呼吸が浅くなる。
その時、扉の向こうからひとりの神官が静かに歩み寄ってきた。こつこつと静かで、他の誰とも違う足音が響いた。
アンリ・アンヴェールーー神殿の中ではやや浮いた存在。
口は悪いが、仕事は丁寧で、誰よりも神話の記述に詳しい人物。烏の羽のような黒髪を無造作に束ね、長い前髪の奥から覗く瞳は、赤紫に染まっていた。彼が現れた瞬間、部屋の空気がわずかに軋む。神官たちの視線が一斉に彼に注がれる。まるで、沈黙の中に何かがぼとりと落ちたようだった。
「ちょっとどいて。巻物、見せろ」
彼の声は低く、乾いていた。だが、その一言に込められた彼の威圧感にビビったのか、神官たちはおずおずと道を開き、彼はそこを迷いなく進む。彼は近くの机に巻物を異様なほど丁寧に広げる。巻物に書かれていたのは、黒のインクで記された翼を広げた鳥の意匠。羽根の一枚一枚が風の流れを思わせる曲線で構成され、中心には渦が刻まれていた。
「これ、ヴェルナーラの風神の加護の紋だな。新年の祝典のときに来てた使節が同じの着けてた。ちょっと話したら、そういうもんだって言ってたよ」
彼はマリーの手を取り、巻物に書かれた紋と見比べた。青緑の光を帯びた紋は、巻物に書かれたそれと寸分違わぬ形で輝いていた。
「完全一致」
彼が淡々と呟く。その言葉は部屋の空気を一変させた。神官たちの中でざわめきが広がる。誰かが息をのみ、誰かが舌打ちをした。
「異教の加護を受けた聖女など神殿の恥だ」
その言葉に、アンリは鼻で笑った。その笑いは軽蔑でも怒りでもなく、呆れに近かった。
「は?あんたらが聖女様をぞんざいに扱うから、異教の神にまで心配されて加護が降りたんだろ。自業自得じゃねぇか。恥なのは加護を与えられた聖女様じゃなくて、加護を与えざるを得なかった状況にさせた神殿の方だ」
神官長は顔を引きつらせ、唇を震わせながら言葉を絞り出した。
「アンリ……貴様、何を言ってる!」
「事実を言っただけだ。耳が痛いなら聞かなきゃいい。」
マリーはそのやりとりを見ながら、ふと記憶を手繰った。
――祈祷の言葉を間違えて叱られた日、誰も声をかけてくれなかった中で、
アンリだけが「まあ、最初は誰でもヘマする」と言って祈祷書を投げてよこした。
――冬の朝の祈祷の後、指先がかじかんでいたとき、
「手、死んでんじゃん。お湯、持ってきたから使え」と言って、湯の入った器を無言で置いていった。
――祭礼の準備で遅くまで残っていた夜、
「誰も見てねえと思うなよ」と言って、灯りを一つだけ残して去っていった。
ーー飲まず食わずで長時間の祈祷をした後、
「お腹すいたろ?」とパンとコップ一杯の牛乳を差し出した。
ぶっきらぼうで、口は悪い。でも、マリーは知っていた。彼は、ずっと見ていてくれた。誰も気づかないところで、誰も声をかけない瞬間に、彼だけが、そっと手を差し伸べてくれた。




