序章 第一幕:見捨てられた聖女 第5話 前編
湯殿の中では、マリーの手に現れた青緑色の紋と、クールベアトとの記憶が静かに語られていた。湯気に包まれた空間は、まるで神話の一節のように、穏やかな時間が流れていた。石造りの床に湯が滴り、微かな音を立てて蒸気が立ち上る。壁に灯された燭台の炎が揺れ、光と影がマリーたちの肌を柔らかく照らしていた。その紋は、まるで水面に浮かぶ月のように、淡く、揺らぎながら輝いていた。マリーの指先が震えるたび、光もまた微かに脈打ち、彼女の胸の奥に眠っていた記憶をそっと呼び起こしていく。クールベアトの声、風のような笑い、祈りの言葉――それらが湯気の中に溶けて、静かに彼女の周囲を漂っていた。
カミーユとクララは、マリーの手に浮かぶ紋を見つめながら、言葉を失っていた。それはただの模様ではなかった。空気が変わった。湯殿の温度が、ほんの少しだけ下がったように感じられた。風が、湯殿の中に吹き込んだような錯覚。湯気の中に、誰かの気配が混じっているような、そんな感覚。
だが、湯殿は声が響きやすい。石造りの壁に反射した声は扉の隙間から漏れて、外の回廊まで届いていた。
「風神の化身……?」
「加護が現れた……?」
湯殿の外では神官たちが顔を見合わせて、ざわめき始めていた。若い神官はそのまま立ち尽くし、年配の神官は眉をひそめていた。そのざわめきは、まるで冷たい水が静かな泉に落ちるように、湯殿の空気を一気に緊張へと変えていった。
マリーはその気配に気づき、思わず紋を隠すように手を胸元へと引き寄せた。カミーユとクララも顔を見合わせ、何かが起きたことを直感する。3人は急いで服を着て、濡れた髪をぬぐう間もなく、湯殿を出た。その瞬間、神官の一人がマリーの腕を強く掴んだ。
「お待ちくださいませ!」
カミーユが声を上げて、クララが必死にその手を剝がそうとしたが、神官の握る力は異様なほど強く、マリーの腕は引きはがせなかった。その手は、祈りを捧げる者のものとは思えないほど冷たく、硬かった。まるで、彼女の存在そのものを否定するかのように。
「離して!彼女は何もしてない!」
カミーユの声は震えていた。怒りと不安が混じり合い、湯殿の静けさを切り裂いた。だが、神官は一言も発せず、ただただ、マリーの腕を引っ張ってどこかに連れて行った。
マリーは何も言えず、ただ湯殿の蒸気が残る空気の中で静かに連れていかれた。カミーユとクララは連れていかれるマリーに必死に呼びかけていた。
「マリー様!」
「待って!」
振り返りたい、手を伸ばして彼女たちの元に戻りたい。けれど、神官が掴む腕を振りほどくことはできなかった。腕をつかまれた痛みよりも心の奥に広がる不安と覚悟が彼女の中に広がった。マリーの背にカミーユとクララの呼びかけが届いてたが、マリーは振り返ることができなかった。




