序章 第一幕:見捨てられた聖女 第4話 後編
湯に浸かってしばらくした頃、クララがふとマリーの手を取った。
「ねえ、マリー様……その手、どうしたの?」
マリーは驚いて手の甲を見た。そこには、青緑色の淡い模様が浮かび上がっていた。痣のようにも見えるが、輪郭はどこか整っていて、まるで意図された印のようだった。
「え……これ、いつの間に……?」
マリー自身にも覚えはなかった。痛みも痒みもない。ただ、湯気の中でその色だけが静かに主張していた。
クララは目を丸くしながら、指先でそっとなぞった。
「見たことないけど……なんか、綺麗。痣って感じじゃないよね」
その瞬間、カミーユが湯の縁で固まった。瞳が揺れ、唇がわずかに開いたまま、言葉が出てこない。
「カミーユ……?」
マリーが声をかけると、カミーユはゆっくりと頷いた。
「それ……侯爵様から聞いたことがあります。皇国では、神さまの加護を受けた者に、身体の一部に“紋”が現れるのだと。神さまごとに模様と色が違っていて……風神さまの紋は、青緑色だと」
湯殿の空気が、静かに張り詰めた。湯気の向こうで、三人は言葉を失ったまま、マリーの手を見つめていた。
「じゃあ……これって、風神さまの……?」
クララの声は、ささやきのように震えていた。マリーはふと、数時間ほど前の記憶に引き戻された。
焚火の煙が揺らめく中で、クールベアトと別れ際に交わした最後の言葉。
「一人で帰るの?」
その声は、優しさと何かを見透かすような深さを帯びていた。マリーが頷いた瞬間、彼は静かに跪き、マリーの手の甲に唇を寄せた。
そのとき、風が吹いた。夏の始まりの、柔らかなそよ風。髪が揺れ、木々がささやき、空気が一瞬だけ澄み渡ったように感じた。
「……あの時、風が吹いたの。すごく静かで、優しくて……もしかして、あれが“加護”だったのかもしれない。クールベアトが、私に与えたものだったのかも」
クララが湯の中で身を乗り出した。
「でもさ、神さまって人間の目の前に、そんな簡単に姿を現すの?」
その問いに、カミーユは少し考えてから、静かに答えた。
「モン・ルミエールでは、神さまは遠くにいて祈る対象でしかないけれど……ヴェルナーラでは、神さまが一時的に『権能』を人間に授けて、その人間が領土を統治しているらしいです。神様そのものではなく、化身として神の意志を伝える存在。もしかしたら、マリー様の言うクールベアトってお方は、風神の化身だったのかもしれません」
マリーは目を見開いた。
「じゃあ……あの人、ただの騎士団長じゃなかったってこと?」
マリーは湯の中で膝を抱えながら、ぽつりと呟いた。
「……あの人の周りだけ、風の音が違ってた。まるで歌ってるみたいだったの」
クララが眉をひそめる。
「それって、神さまの力だったの?」
マリーは曖昧に頷いた。そうでもしなきゃ、彼の周りだけ風の音が変わった理由なんて説明できない。マリーは湯の表面を見つめた。
「……もしそうなら、私は何のために祈ってたんだろう」
クララが言葉を探すように口を開きかけたが、マリーは微笑んだ。
その笑みは、湯気の向こうにある何かを見つめていた。
4話終了。




