序章 第一幕:見捨てられた聖女 第1話 前編
焼きたてのライ麦パンの香りが、ふわりと風に乗って鼻先をくすぐった。それは、祝杯の合図だった。誰かが勝利し、誰かが笑い、誰かが神に感謝を捧げている――そんな匂いだった。
聖女マリー・スビルーは、ふらふらと歩いていた。 その香りに誘われるように、足を引きずりながら。 靴はすでに形を失い、足を守っていたの革は裂け、泥にまみれていた。聖女の象徴である白衣も、ほつれが目立ち、袖は乾いた泥で染まっている。唇はひび割れ、喉は乾いていた。
「民が親しみを持ちやすいように、質素な姿でいてほしい」
そう言われて、彼女はこの衣を与えられた。けれど、それは“質素”ではなく、“放置”だった。聖女であるはずの彼女に、護衛も侍女もいない。祈りの場から戻る道を、ひとり、歩いていた。
ほんの十数時間前、モン・ルミエール王国はヴェルナーラ皇国への――通算47度目となる――侵攻を開始した。
異教の穢れを浄化する。それが王国の信仰であり、戦いの大義であった。
祈りと剣を携えた軍勢は、王国と皇国の国境地帯 フリューゲルの地を踏みしめた。 聖歌が響き、祈りが空に捧げられる中、マリーは戦地の祈祷所で膝をつき、祈り続けていた。
祈りは命を救うはずだった。そう、彼女は信じていた。
王国の高位神官たちは言った。
「聖女が祈れば、神が応える」
その言葉を盾に、マリーに飲まず食わずの祈祷を命じた。
護衛は予算の無駄としてつけられず、侍女の多くは庶民出身の彼女を蔑み、世話を焼こうともしなかった。聖女という称号は、もはや信仰の象徴ではなく、王国の飾りにすぎなかった。
それでも、彼女は祈った。 祈ることしか、知らなかったから。祈ることでしか、自分の存在を証せなかったから。
しかし、現実はそう甘くはなく、皇国最強の天籟騎士団はわずか157名のみで王国の数千近い軍勢をあっさりと撃破してしまった。
風が唸り、空気が震え、地面の草が逆巻いた。祈りの声は風の咆哮にかき消され、聖旗は裂けて地に伏した。
王国の兵たちは神の加護を信じて剣を振るった。だが、異教の神は容赦なくそれに応えた。
マリーは祈祷所の奥で膝をついたまま祈り続けていた。耳に届くのは聖歌ではなく、逃げ惑う兵の叫び。
「神はなぜ沈黙しているのか」
と誰かが叫んだ。彼女はその叫びに答えを返すことができなかった。
祈りは届いているはず、そう信じていた。けれど、神は何にも語らなかった。
ただ、風だけが吹いていた。
拙い文章ですが、読んでくださりありがとうございます。