1.
リンデル王国に戻って、間もなく一年が経とうとしていた。
それはつまり、もう間もなく私がフィルと結婚式を挙げ、この国の女王になることを意味する。
一番上の姉がアレだったので、私も子供の頃から彼女を支えるためにがっつりと帝王学を学ばされていたし、リンデルを離れていた期間の国内の情勢には疎かったけど、そちらもフィルの助力もあり、帰国してからしっかりと学んだ。
現陛下と王妃殿下である私の両親は、あらかた仕事内容を私に引き継がせたのち、早々に王城内の奥に引き籠っている。一番の愛し子を、仕方がない状況下だったとはいえ修道院送りにしてしまった傷が癒えないのだろう。
個人的な感想を述べれば、いない方がやりやすいので別に構わない。
戴冠式が終われば、その後は王家の所有する田舎の方にある屋敷に移動してそこで余生を過ごすみたいだ。チェルシー姉様の修道院もその近くにあるし。
そんな訳で、既に国の長としての執務をこなしつつ、同日に行う予定の結婚式と戴冠式の準備も予定通り進めている。
そして私と、元姉の婚約者でありまもなく私の王配となるフィルの関係はというと、概ね良好である。
帰国したその日、私はフィルに一つお願いをした。
私のことを想っているのと同じくらい、私が彼のことを愛せるようになるまでは手は出さないでほしい。たとえ一年後、私の気持ちなど関係なくそういった行為をしなければならないにしても、と。
私のこんな戯言など、彼は聞く必要はなかった。
次期女王としての立場が回ってきたのだって、フィル自身がそれを望み、時間をかけて綿密に計画を練ってそれが成功した結果である。彼の掌の上で転がされリンデルへ戻ってきた私は、フィルにどう扱われても正直文句を言える立場じゃない。
それでも彼はその条件を呑んだ。
必ず自分と同じところまで堕とすと。
そんな彼とは、忙しい合間を縫って交流を重ねたことで、彼が私に持つ想いの深さに近付いてはきている。
が、それでもまだ彼が持っているのと同等のものではない。
そして結婚式まで残り二週間を切った頃。
フィルは一つの朗報を携えてやってきた。
◯◯◯◯
「五日後、式典に招待しているダマル帝国から、一足先にリリアンヌだけが先にリンデルに入国することになった。ここに到着するのはその翌日になるだろうな。それに合わせて、お前が少しでもリリアンヌとゆっくり話せる時間を取れるよう、今アリーの方の予定も調整している」
公務や会議といった公の場で大体毎日顔を合わせているけど、それとは別にフィルは、今でも毎日欠かさず決まった時間に手土産を携えて私の元へとやってくる。
今日も執務室を訪れたフィルからもらったお茶請けに舌鼓を打っていたのだが、その最中、隣に座る彼の口から飛び出した言葉に、思わず手にしたサブレをぽとりと落とす。
けれど下に落ちる前に素早くフィルの手にキャッチされ、そのまま彼は、ぽかんと小さく口を開ける私の中にそれを放り込んだ。
もぐもぐと口を動かし、バターの風味がジワリと口内に広がるのを感じながら、私は先ほどのフィルの台詞を脳内で反芻し、喜ぶと同時に驚きを禁じ得なかった。
今回の式典では、諸外国からの来賓も多くある。
ダマル帝国からの出席者はリリアンヌ姉様とその夫である皇子のアドラー様だと知っていたが、到着は早くとも二日ほど前になりそうだと連絡を受けていた。
姉様とは定期的に文通はしているものの、直接顔を見ながら話したいことも聞きたいこともたくさんある。なにせ会うのは大方三年ぶりなのだ。
けれど私の方も式典の準備やその他諸々でおそらく忙しいだろうし、姉様とゆっくり話す時間は取れないかもしれないと半ば諦めていた。
なのにその時間が取れるかもしれないなんて。
嬉しくて思わず口元が緩みつつ、最大の疑問をフィルに投げかける。
「だけどよくあのお方がそれを許しましたね」
大陸一の大国であるダマル帝国の皇子に見初められ、すぐにそちらへ嫁いでしまった二番目の姉のリリアンヌ姉様。
頭も良くて努力家で、その上可愛くて愛嬌もある自慢の姉様のことが、私は大好きだっ
た。
それは私だけではなく帝国皇子も同様で、姉様のことをそれはそれは溺愛しており、片時も傍を離れず、どんな異性でも近付くだけで空気感が冷たいものに変わり、少しでも色目を使おうものなら敵意をむき出しにして殺気を飛ばしてくる────どころか実際に半殺しの目に遭う輩もいるとかいないとか。
そんなアドラー様が、まさか姉様だけを先にこちらへ寄越してくれるなんて思いもよらなかった。
するとフィルはニヤリと笑い、種明かしをしてくれた。
「俺が手紙で交渉したんだよ。あの皇子とは個人的な繋がりを持っているしな。半ば攫うような形でダマル帝国に連れて行かれたせいで、リリアンヌはこの国の友人たちにも、なによりお前とも別れの挨拶すらまともにさせてもらえなかった。だが今回の機会に、ゆっくり皆に会える時間を作ってやったら、その懐の深さにリリアンヌの愛情ももっと深まるんじゃないかって内容で攻めて、その気にさせた」
リリアンヌ姉様をアドラー様とくっつけるため、時間をかけて彼と友人になったフィルだが、今でもその関係は健在らしい。
が、友人とはいえ、相手が相手だ。
「他人の懐に入っていく手管はさすがはフィルですね。まさか手紙だけであのアドラー様を説得できるなんて」
しかしその言葉をフィルは鼻で笑い飛ばす。
「お前にだけは言われたくないな、この天然人たらしが。おかげで式典に呼ぶ諸外国の来賓の数がこれまでに類を見ないほど多いんだが。……あと、俺の方はあれだ。向こうもリリアンヌを強引に連れ帰った引け目は感じていたみたいだからな。俺はそこを突いただけに過ぎない。本当は皇子も同じタイミングでこっちに来たかったらしいが、向こうでの執務の都合上、泣く泣く断念したらしい」
そう言うと、フィルは少しだけばつが悪そうに頬を掻き、目線を逸らす。
「……俺だって、これでもお前に多少は罪悪感もあったんだよ。お前がリリアンヌを慕っていることは知っていたが、皇子の性急な性格も知った上で、結果的に二人を引き離すよう画策したのは他ならぬ俺だからな。罪滅ぼしになるかは分からないが、アリーが喜ぶのならと説得したまでだ」
「フィル……」
彼は私にも言えないようなことをたくさんしてきただろう。
いつも柔和な笑顔をたたえ、控えめな性格だが誰からも好かれる善良な人間の皮を被ったフィルは、これまで裏で一体何人もの人間を操り、時には葬ってきたのか。けれど彼はいつも自身の理念に基づき動しており、そこには後悔も罪悪感もないはずだ。
それなのに彼は、私に対してだけはそういった、おおよそこれまでのフィルに似つかわしくない感覚が湧くらしい。
いや、それだけじゃない。
皆の前で見せる作られたフィリップ・ローズデンではなく、二人きりでいる時、いつも私の前でだけは今のように一切取り繕わず、彼自身を全て露にしている。
そういうところが最近、私は堪らなく愛おしく思える。
ふと今湧き出た気持ちを形にしたくなった私は、立ち上がるとフィルの正面に立ち、ソファに座る彼に腕を伸ばすと、そのまま自分の方へ抱き寄せる。そして胸の辺りにきた彼の柔らかな髪をそっと撫でた。
「フィルって私の前では案外可愛らしいですよね。そういうところ、好きですよ」
けれどこちらの腰に腕を回しつつ顔を上げたフィルの表情は、嬉しそうでありながらどこか物足りないと言わんばかりの表情だ。
「もしかして可愛いって言われるのは、嫌でしたか?」
「それは別にいい。アリーにそう言われるも昔より好かれてるってのも悪い気はしない。が、俺が欲しい言葉はそっちじゃねえ。……分かるだろう?」
そう言って奥の方で強い劣情の灯る彼の瞳を見つめ返しながら、左耳に装着された私の瞳の色のピアスをなぞり、彼と同等の愛情を私が彼に抱くことは、果たして本当にできるのだろうかと考える。
そもそもフィルの抱える想いは、私のことを尊重しつつ、本音を言えば存在全てを喰らい尽くしたいと思うほどに強い独占欲を孕んだ狂暴なものだ。
触れれば溶けてしまいそうな熱を含み、そのうえ、全く光の届かない海の底のような暗さと、どろりと粘度の高い闇を纏っている。うっかりすると息すらままならない状態で、そのまま深淵へと引きずり込まれてしまう気がするほどに、どこまでも深くて重い。
対して今私がフィルに感じているこの感情は、前よりは深みにずぶずぶと入り込んでいる自覚はあるとはいえ、そこまでの黒さも重さもない。
だから私が言える言葉は、ずっと変わらない。
「フィルのことは好きですが、まだあなたと同じところまで堕ちてはいないですよ」
当然その答えは分かっていたようで、さほどショックを受けた様子はない。
それどころか、どこか楽し気に口角を上げている。
「そうなんだよなぁ。この一年、あらゆる手を尽くしてきたが、正直お前は相当に手強い」
「なら諦めますか? 日もあまり残っていませんし」
軽く冗談っぽく尋ねると、フィルは「まさか」とこぼすと更に楽しそうに笑った。
「悪いが俺はこれまで、何かを達成できなかったことは一度もない。だからお前との約束も必ず果たす。それに、既に種は蒔いている。せいぜい首を洗ってその日を待っとけ」
そう答えるのと同時に、
「失礼します。アリシア王女殿下、よろしいでしょうか」
という声と共にノック音が部屋に響く。
するとフィルはするりと私の腕から抜け、私の髪を一房取って軽く口付けを落とすと、
「またなアリー」
濃茶のピアスのはまる右の耳元に色気をたっぷりと含ませた声でそう言い残し、皆の知るフィリップ・ローズデンの仮面を被りそのまま部屋を出て行った。
後姿を見送った私は、フィルの発言について考える。
種は既に蒔いている、そう言っていた。
それはつまり、彼が私を陥落させるための何らかの策を既に講じているということだ。
彼がしたことといえば、リリアンヌ姉様の早期のリンデル入りの後押しをしたのと、私が姉様と過ごせるように、現在進行形で各方面に根回ししてくれていること。
それがたとえ罪悪感からくるものであろうがフィルの気遣いは嬉しいし、私を喜ばせようと手を回してくれているんだと、そんな彼に対しての好意はますます大きくはなる。
が、どれだけ大きくなろうとも、フィルが私に抱いている気持ちの方が強すぎて、追いつけるか分からない。
一体彼は何を考えているのか。
もしくは私の知らないところで全く別のことを企んでいるのか。
「あの、いかがいたしましたか?」
「なんでもないわ」
気にはなるが考えても仕方のないことだし、その内分かるのだろう。
少し楽しみになって思わず笑みが浮かんだ私だったが、すぐに顔を引き締めると、今日の残りの執務に取り掛かった。
けれど私は忘れていたのかもしれない。
彼はあのフィリップ・ローズデンなのだ。欲しいもののためなら、どんな手でも使う。
それがたとえ、私の敬愛する姉であっても、目的のためなら躊躇うことなく駒として使うことを。




