2.
だが後日、嬉しい誤算が起こる。
チェルシーと二人だけで会うはずのお茶会に再びアリシアが現れたのだ。このことにフィリップの頬は思わず緩みそうになった。
今回も、姉の尻ぬぐいのためだろう。
そう思ったが、アリシアがフォローする前に、席に着く間もなく開口一番やらかしてくれた。
「この私がクソつまらなくて観賞用にもならないお前如きの為に来てあげたわよ。それじゃあ面会も済ませたことだから、私はもう行くわ」
言いたいことだけ言って去る、まるで嵐のようだった。
さすがのアリシアもこれには為す術がなかったようで、慌ててフィリップに向き直る。
「姉が大変失礼な振る舞いを致しました。姉に代わり謝罪させていただきます」
「アリシア殿下が謝る必要はありません。チェルシー殿下の件は、私もよく理解しております。これから徐々に仲を深めていけるようこちらも努力致しますのでお気になさらないでください」
けれどこの状況は彼にとって好都合だった。
申し訳なさそうに眉尻を下げ謝罪するアリシアに、フィリップはある提案を持ちかける。
「それより、もしアリシア殿下さえよろしければ、少しお付き合いいただけませんか? 一人でお茶を頂くのは寂しいですので」
「勿論です。私で良ければ、是非」
そうして、チェルシーが無礼な発言をして婚約者のフィリップが一人になってしまったので仕方なく妹であるアリシアが代わりに相手をする、という自然な流れで彼女と二人になることに成功したフィリップは、しばらく彼女と雑談をした後、メイドが二人分のお茶のお代わりを淹れ、会話が漏れ聞こえない距離まで下がったのを確認したところで、気になっていた前回の発言について切り込んだ。
「ところでこの前私を見た時に、笑顔が嘘臭い、と発言されておりましたが」
びくりと、分かりやすく彼女の身体が跳ねた。
「やっぱり聞こえていたんですね。失礼な発言をしたことをお許しください」
そう言ってアリシアが頭を下げようとするのを、フィリップは止める。
「いえ、怒っているわけではないのです。ただあのようなことを言われたことがありませんでしたので、その理由を知りたいと思いまして」
正確には、言われたことはないが、フィリップが噂とは違う、と気付いた人間が一人いるが。
するとアリシアは、きょとんとした表情で首を傾げる。
「理由と言われましても……。むしろどうしてみんな気付かないのか、そっちの方が不思議です。確かに柔らかい笑顔とか、声のトーンとか、顔の表情とか、一つ一つ見たら噂通りの誠実で人当たりの良い人間なんですけど、全部を繋ぎ合わせたあなたはあまりにも隙がなさすぎて、それが逆に違和感を覚えてしまって」
「隙が無い、ですか」
「ええ。それが作り物めいているなと」
完璧なフィリップを演じようとしていたのが、逆に彼女には不自然に映ったらしい。
「あと、あれですね。うちのリリアンヌ姉様に少し似ているなって思いまして」
アリシアが挙げた名前を聞き、なるほどと合点がいく。
フィリップが演じていると勘付いた人物こそが、そのリリアンヌだったのだ。
「リリアンヌ姉様が、ローズデン様にはばれていると以前言っていたのでご存知かと思いますが、本当の姉様って頭はいいですけどアホ可愛いところがあるのに、完璧な王女でいなきゃってそれが出ないようにいつも上手に演じていて。まあ、姉様は能力が高いから、本当にそれができちゃうんですけどね。それと同じ匂いを感じ取ったといいますか」
リリアンヌとは、十六から貴族たちが義務として通う王立学園でも、そして通わなくても問題はないが、箔を付けるために現在通っているカレッジでも同級生である。
彼女が清く正しい王女であろうと振る舞っているのは初めて会った時から気付いていた。
勿論、彼女が王女の仮面を被っているのは、フィリップのように、どす黒く渦巻く欲望に塗れた獣のような本性を隠す為ではないこともだ。
なにせ一番上の姉がアレだ。同じだと思われない為にも、演じざるを得なかっただろう。
始めはリリアンヌも フィリップの何かに気付いた様子はなく普通に接していたが、徐々に異変に気が付いたのか、探るような視線を感じるようになったのみならず、周囲に誰もいない時を見計らって何かにつけて絡んでくるようになった。
それに対して彼も彼女に合わせ柔軟に対応していたのだが、フィリップを暴こうとしてくる彼女の相手をするのが段々億劫になったので、そこでほんの少しだけ本来の自分を見せると、恐怖で怯え、最近はあまり近付いてこなくなった。
彼女に要らぬことを吹聴される可能性も一瞬考えたが、その程度でフィリップの評価は揺らがないと確信していたし、長姉とは違い愚かではないリリアンヌが、あえて波風を立てることはないだろうとも推測され、それは現実となった。
まして、チェルシーの女王就任が揺るがないのであれば、彼女の暴挙を止められるのもフィリップしかいないと彼女も思っているだろう。
「まあそういう理由であなたの違和感に気付いたんですけど、思ってることがうっかり口から出てしまった、というところです」
「なるほど、分かりました」
「でもあなたはリリアンヌ姉様と違って、もっとこう、とんでもない本性を隠していそうな感じですけど……って、これも失言でしたね」
そう言って、またやっちゃった、という顔をするアリシアに、もし彼女にリリアンヌに見せたように本当の自分を見せたら、一体どんな反応が返ってくるのだろうかと興味が湧く。
リリアンヌのように、怯えて逃げ出すだろうか。それとも別の反応をするだろうか。
どちらにしろ、今のように何事もなくまっすぐ自分を見てくれることはなくなるかもしれない。
そうなった時のことを想像すると、なぜか彼女に素の自分を否定されるのはとても嫌だと感じ、心臓がずくりと痛む。
そもそもここでフィリップがその仮面を脱ぎ捨て、王女二人に悪印象を持たれるような行為に出るのはなんのメリットもないどころか、むしろ悪手になる。
だからここで彼が取るべきはアリシアの言葉を否定することだと、頭ではそう分かっているはずなのに、それでも何かを期待したくて、気付けば彼は全く別の行動に出ていた。
「失言ではありませんよ。アリシア殿下の仰る通り、この下には世間で言われているものとは全く別の私がいます。本当の私は誠実でも何でもなく、欲しいと思ったものがあれば、表向きは善人の皮を被り、裏では他人を蹴落としてでも手に入れようとする、残忍で自分勝手な性格です。それこそアリシア殿下が尻拭いをさせられている、チェルシー殿下と同じように」
そう言ってフィリップはリリアンヌの時とは違い、纏っていた作り物の己を完全に取り外し、誰の前でも見せたことのない彼本来の姿になって、笑って見せた。
すると彼女ははっと息を呑み、そしてすぐに右に視線を逸らす。
あからさまなその反応に、フィリップの心の中にジワリと黒い染みが広がる。
どこかで受け入れてもらえるんじゃないかと思っていた自分がいて、それが否定された。
勝手に期待しておいて、それが外れたからと心が沈む身勝手な己の愚かさに自嘲する。
こんなことをするなんて、らしくない。
フィリップは気持ちを切り替えるように頭を振り、冗談だったと、そう言ってこの話を終えるつもりだった。
このまま彼女に不信感を与えたままはまずい。
だが、アリシアの行動は彼が考えていたものとは全く違った意味があった。
彼を否定する為に目線を外したはずの彼女は、その後なぜか左へ視線を動かす。ついで後ろ、そして前へ向き直り、慌てたように声を上げた。
「駄目ですよローズデン様! こんなに簡単に私に見せたら。しかも周りにメイドとかいるんですよ! せっかく今までずっとそんな自分を隠してあなたの思い描くフィリップ・ローズデン像を作ってきたのに、そんな魔王も顔負けのビンビンオーラの顔を彼らに見られたらおしまいじゃないですか!」
「は……?」
彼女の言葉に、フィリップは思わず相手が王女殿下であることを忘れ、素でそんな声が漏れる。
しかしそんな彼を咎めることもせず、アリシアは尚も続ける。
「それに、ローズデン様がチェルシー姉様と一緒っていうのは、まったく違います。ええ、断固否定します。姉の顔、ちゃんと見たことありますか? あの人、妹の私が婚約者であるあなたの前で言うのもなんですけど、もっと悪辣で凶暴で極悪人みたいな顔ですからね! 魔王なんて生ぬるい……そう、もう悪の化身っていうか、悪そのものっていうか、とにかく全然違うんです!」
胸の前で力拳を握って精いっぱい力説するアリシアの瞳には、恐怖の感情はまるでない。
むしろこれまでと変わらず、まっすぐと彼を見つめている。
「怖くはないんですか、私のこと」
思わず出た言葉に、一瞬彼女は俯き、考え込む素振りを見せる。そしてばっと顔を上げると、大真面目な顔で口を開く。
「まあ、敵に回すと怖いかもしれないですね。だけど私にとってはむしろ、チェルシー姉様が次はどんな我儘を言ってくるんだろうって、そっちの方が怖いです。あの人、国は私物化してもいいとか思っていそうなので。それにさっきも言いましたけど、あなたは姉様とは違います」
「なぜ言い切れるんですか。私がこれまでしてきたことを聞いたら、きっとそんなことは言えなくなりますよ」
この手は既に汚れていて、駒として操った人間も、踏み潰した人間も両手の指では足りない数いる。誠実とは正反対の行いもたくさんしてきた。
けれどアリシアは、あっけらかんとした様子で明るく笑い飛ばす。
「だってあなた、この国のこと大切に思ってくれていますよね? この前の顔合わせの時のあなたを見ていたら分かります。リンデルの未来について話すあなたの目はとてもキラキラしていて、ローズデン様が王配としてこの国を導いてくれるなら、チェルシー姉様がどれだけ暴君でも大丈夫だって思えましたし。そんなあなたがこれまで色々してきたんだとしたら、それはきっとこの国のために、ですよね」
アリシアの言葉は、まさしく真実だった。
フィリップがこの国が欲しい理由は、生まれ育ったこのリンデル王国を大切に思っているからだ。
リンデルは周囲を海に囲まれた半島で、自然は豊かで気候も穏やか、四季の区別もはっきりある、非常に住みやすく恵まれた国だ。
だが大陸の中では小国の部類に入り、他の国々からの脅威にさらされる危険性を常に秘めている。
だからこそ、彼はこの国を守るための力を欲した。
革命を起こして王家を乗っ取ることも可能だったが、関係のない民が傷付いたり、国が荒れるような事態は避けたかった。
なのではじめはローズデン家の当主の座を狙った。
特に現当主のルーデンは、常に自身の利益を追求し、国のことなど二の次だ。
兄はそういう人間ではないが、気が弱いのでルーデンの言いなりになるだろう。
しかし、フィリップが王配となれば、彼より下に来るローズデン家などどうとでもなる。
既にルーデンを今の地位から追いやる為の材料は持っているし、彼がいなくなった後、フィリップが、新しく当主となる兄を操るのはたやすいことだ。
そしてフィリップは公爵家当主の座を奪うことを止め、今の地位に就けるよう力を尽くした。
そんな自分を、目の前の少女は見抜いて、そして認めてくれている。
それが素直に嬉しいと感じ、何も言えずその場で固まるフィリップを知ってか知らずか、もう一度周囲を確認して、彼の顔がちょうど皆に見えない位置にあったのだと認識すると、ほっとした様子で手を伸ばして目当ての菓子を取ったアリシアは、それを口に入れる間際、明日の天気でも話しているかのような軽い口ぶりで、
「ちなみに私、作り込まれたあなたよりも、今みたいに野心満々で滾っていて感情むき出しのあなたの方が、人間味があって好きかもしれません」
そう言って微笑んだ。
その瞬間、彼の中に過去に何度か感じたことのある渇望の片鱗が顔を覗かせる。
ローズデン家を、この国を欲した時と同じ感情だ。
いや、それよりももっと強烈で、少しでも気を緩めれば全ての意識をそちらへ持っていかれ、その場で彼女に手を伸ばして自身の中に取り込んでしまいたくなるような、そんな暴力的な渇きだ。
しかし、獣のような本能に呑まれそうになる自身を、フィリップは必死になって否定する。
違う、これは真実の自分を認めてくれた彼女に対して、関心を持っただけだと。
この国を手に入れるために結んだチェルシーとの婚約を蹴ってまで彼女に手を伸ばすつもりはない。
天秤にかければ、フィリップにとってどちらが大事かは分かり切ったことだった。
よって彼は、生じた感情を封じ込めた。
封じ込められたはずだったのだ。
しかし、その後も定期的に行われるチェルシーとのお茶会は、始めにチェルシーが暴言を吐いて立ち去り、場を繋ぐためにアリシアが残ってフィリップの相手をするのが定番となっていった。
彼女と過ごす時間は、これまでフィリップが感じたことがないほど楽しく、アリシアといると、無意識のうちにぼろぼろと仮面が崩れていく。
そのうち不敬を承知で、これまでの喋り方を止め、敬称を外し、それでも彼女がそれを咎めることはなく、自分の前でだけなら好きにすればいいと許可をする。
取り繕わない自分でいられるのは物心ついてからは生まれて初めてで、消そうとしていたはずのアリシアの存在が、彼の中を侵食していく。
彼女が欲しい────気付けば本能がそう叫んでいた。
笑っている顔が見たい。
声が聞きたい。
触れたい。
抱き締めたい。
その唇を塞いで体中に自分のものだという印を刻みつけたい。
その気持ちが徐々にフィリップから漏れだしていく。
言葉には決して出さなかったが、おそらくアリシアも気付いていただろう。
日を追うごとに強くなる甘く切ない表情にも、彼女の存在全てを絡め取ろうとするほどに熱を込めた視線にも。
けれど彼女は気付かないふりをした。
それでいて、いつも通りに接するのだ。
「こんなの初めて食べました! フィリップ様、このお菓子って何なんですか? というかどこの国の物ですか?」
何度か時間を共にするうちにアリシアが甘いものを好むと気付いたフィリップは、彼女が好みそうなお菓子を探して手土産に持っていくようになった。
今日も彼が選んだものを、目を輝かせながら食べている。
「海の向こうの国から入ってきた菓子だ。あんこってのに砂糖を入れて固めたもんだと」
「なるほど。不思議な味ですけど、甘くて美味しいですね。結構好きな味です。……あ、フィリップ様も一口食べます?」
「だから甘いのは好きじゃないんだって」
そう言いながらも、満面の笑みでアリシアから差し出されれば、彼にそれを拒否する選択肢はなく、皿に切り分けられたそれを受け取り、一口かじる。
とたんに胸焼けしそうな砂糖の甘みに襲われて、思いっきり眉間に皺が寄る。
「なんだこれ、甘っ……」
「この甘さが美味しいのに」
そう言いながら残りをどんどんお腹の中に収めていく。
「美味しかった、ごちそうさまです」
そう言って幸福そうな表情でほっと息を吐くが、口元にはその残骸がついていた。
こんなところも可愛いと思えるなんていかれていると心の中で自嘲気味に呟いて、思わず彼女に手を伸ばしかけたが、すんでのところで気付き、やめる。
触れるのはだめだ。
それは今の彼には許されない。
「口、ついてるぞ」
そう教えてやれば、慌てたようにハンカチを取り出して口元を拭う。
その時のフィリップは、きっと劣情の炎を瞳に宿してアリシアを見ていたことだろう。
けれど彼女はそんなフィリップを見ても、動揺した顔一つ見せない。
自分だけがこんな想いを抱えていることにどうしようもない苦しさを抱く。
同じように熱に浮かれてくれればいいのにと考えるが、それをされたところでフィリップは、今の立場を捨てて彼女と一緒にいる選択肢を選ばない。
それでも喉から手が出るほどに彼女が欲しいと矛盾した思いを抱える。
それに、彼女が本当の意味で彼に心を許していないことも感じていた。
フィリップがこんなにも己を見せているのに、アリシアの本当の顔は見えず、悔しくも思う。
自分も彼女の裏側を暴きたいというのに。
けれど決して、一線は超えなかった。
もはやこの国とアリシアとどちらが欲しいかの天秤は拮抗しつつあったが、今の関係は、チェルシーと結婚するまでの限定的なものだ。
そうなればこの胸の疼きも消えるだろう。
けれどそれまでは、今のぬるま湯のような関係を続けたいと願ったフィリップだが、それは唐突に終わりを告げる。




