1.
「初めまして、フィリップ・ローズデンと申します」
いつものように、誠実で人当たりも良く、誰からも好かれていると噂される通りのフィリップ・ローズデンの仮面を被り、彼は笑顔で挨拶をする。
これまで初見で見破られたことのなかった偽りの笑顔はしかし、目の前に立つ一人の少女によっていとも簡単に見抜かれる。
「笑顔が嘘臭い……」
風に乗って聞こえてきた微かな声を辿ると、そこにいた少女は慌てたように手で口を押さえ、けれど小動物の様な丸い瞳はまっすぐに彼に向いている。
たった一言。
それでも彼の心を崩すのは十分で、気付けば彼は驚いたようにわずかに目を見開き、フィリップとしての笑顔を浮かべることさえできず、食い入るようにただ少女を見つめていた──。
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「思えばあれが全ての始まりだったんですよね」
アリシアがリンデル王国へ戻って、二週間が経った。
彼女は次期女王として忙しくしているが、それでも、入籍までに新しく婚約者となった王女殿下との仲を深めたい、というフィリップからの要望が通り、毎日彼女とお茶を飲むのが日課になりつつあった。
今日も今日とて、フィリップは王都で見つけた、アリシアが好みそうな見た目と味の土産を携えて彼女の下へ足を運ぶ。
いつもとは少し趣向を変えようと、王城の中庭にテーブルと椅子をセッティングして……という形ではなく、木陰のある大きな樹の下に敷物を敷き、そこにフィリップの持参したお菓子や軽食を並べるスタイルにしてもらった。
美味しそうに一口サイズのカヌレをほおばるアリシアの横顔を眺め、その愛らしさにこのままこの場に押し倒してしまいたいという欲望が体の中で渦を巻き吞み込まれそうになるが、彼女との約束がある。
理性でそれを何とか押し止め、表面上はそれを出さないよう努めていると、彼女の口からぽろりとそんな言葉がこぼれ、フィリップはすぐにその声を拾い反応する。
「なんの話だ?」
「あれ、聞こえていました? 独り言のつもりだったんですけど」
「でっかい独り言だな。……で、何の始まりなんだ?」
すると彼女は手にしていた菓子を置くと、辺り一面に咲くラベンダーの花に視線を向けた。
「いえ、あなたと初めて会ったのが、ちょうどこのくらいの時期だったなと思いまして」
そうだ、確かにアリシアと会ったあの日は、鮮やかな紫色のこの花が咲き乱れていた。
たまたまその場にいただけの第三王女。
それまで全く興味を持っていなかったアリシアという存在を強烈に印象付けられたあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
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ローズデン家の次男として生まれたフィリップは、幼い頃より優秀だった。それでいていつも笑顔を絶やさず、物腰柔らかで誠実な人柄だと評価され、兄がいたためフィリップがローズデン家を継ぐことはないが、それでも優秀で公爵家の血を引く彼を迎え入れたいという話は後を絶たなかった。
そんな彼に、この度婚約者が決まった。
リンデル王国の第一王女チェルシー。
彼女は次期女王である。
たとえその彼女に全く女王としての資質が備わっておらずとも、それを分かったうえで現国王陛下と王妃殿下が溺愛してやまないその娘を女王に就けたいと我を通し、しかし国としてはそれで成り立たなくなっても困るので、王配として最も適している人物を王家が求めた結果、フィリップにお願いしたいとあちらから泣きついてきたのだ。
王家からのこの提案は願ったり叶ったりだった。
ローズデン家優位に話が進められるし、下手に優秀な第二王女リリアンヌが女王となるより、愚かなチェルシーの方がよほど操りやすい。
「数日後、あちらとの顔合わせの後、正式にお前とチェルシー殿下との婚約が結ばれるだろう。さすがのお前もあの王女の扱いには手を焼くだろうが、しっかりと務めを果たせ」
公爵家当主である父、ルーデンにそう言われ、フィリップは、当然ですと答え、頷き返す。
彼は極めて強欲だ。
しかし手に入れるため、感情のまま強引な振る舞いをするのは、周囲からの反感を買って敵を作りやすい。
だから彼はこれまでずっと仮面を被って生きてきた。家族の前ですら、実直でローズデン家に忠実な子供を演じている。
優秀でありながらそれを鼻にかけず、性格も好ましい人物になりすましていると、色々と利点が多い。
他人の懐に入ることが容易くなるし、相手を思うままに操りやすい。それに自ずと味方となる人が集まる。
そうすると、たとえ時間がかかっても欲しい物は確実に手に入った。
今の彼が欲しいのは、この国の支配権だ。
幼い頃、密かに兄を排除して現当主を早々に引退させて、ローズデン家の支配者になる計画を立てていたのだが、悪い噂の絶えないチェルシーが、王家の意向で女王に内定している、と耳にしてからその矛先を変えた。
貴族の最高位に昇り詰め、更に高みを目指したいという欲があるルーデンならば、フィリップが何かせずとも、必ずその王配がフィリップになるよう立ち回るだろう。
それならば彼がすべきことは、とにかく彼以上の人物はいないと皆に知らしめることだった。
結果誰もがフィリップを褒め称え、彼のライバルとなる人物は消えていた。
そして目論見通り、王家から婚約の打診があったのだ。
公爵家の馬車に揺られ、案内された顔合わせの場にいたのは、見た目だけは誰もがため息を漏らすほどの王女だった。
太陽の光を閉じ込めたような黄金の髪は光に当たってキラキラ輝き、今咲き誇るラベンダーよりも濃い、目にも鮮やかな紫色の瞳は、どんな宝石よりも美しい。
フィリップより一つ上の学年だった彼女を王立学園時代に何度か目にしたことがあるが、その頃よりも美しさに磨きがかかっている。
社交界の美姫と謳われた現王妃殿下によく似たかんばせで、確かにこの両陛下が溺愛するというのも、この見た目なら納得がいく。
しかし、フィリップにとっては人間の顔の良し悪しなどさほど関係がないことだった。
自分にとって使えるか使えないか、それだけだ。
しかし、そんな彼女の横にちょこんと、見慣れない少女がいた。
チェルシーよりも、髪と瞳の色がうんと薄く、チェルシーや両陛下と似たような顔のパーツを持ってはいるが、受ける印象ははっきり言って地味だ。
おそらくはまだ会ったことのなかった第三王女のアリシアだと推測された。
彼女に関しては、姉二人とは違い、どんな人物か分かる情報は少ない。
ただ、彼女は王女でありながらいつも自然体で、特に本人に目を見張るものがあるわけでないにもかかわらず、気付けばすぐに場に馴染んで人に囲まれていると。
フィリップのような偽物ではなく、天性のひとたらし的な才を持っているのだろう。
だが、彼女はこの顔合わせに関係はないはずだ。
なぜここにいるのかと考えながら、通常通りのフィリップを装い、彼は名前を告げた。
派手な外見を好むと聞いていた通り、チェルシーはあからさまに嫌な顔を向けてきたが、それは想定内だったので構わない。
しかし隣のアリシアの発言に、フィリップは驚きを隠せず思わず表情を取り繕うことも忘れて凝視してしまった。
対するアリシアは失言が本人に聞こえてしまったと、少々青褪めていたが、薄紫の瞳だけは彼から逸らさずにしっかりと見返す。
己の中を見透かすような瞳に、フィリップは釘付けになった。
彼女が漏らした一言と、それを見つめるアリシアの姿は、フィリップの心を掻き立てるのには十分だった。
しかしすぐに己の本分を思い出す。
彼はアリシアに会いに来たわけじゃない。
今日の目的はチェルシーとの顔合わせだ。できればこの一日で彼女との婚約の話をまとめてしまいたい。
そして始まった顔合わせを兼ねたお茶会は、とても酷いものだった。
勿論、チェルシーの対応がである。
しかし彼女が何かこちらに失礼な言動をしようとする度に、アリシアが話題を変えて場を和ませようとし、何とか無事に終わった。
とはいっても、王家としてもフィリップを手放すつもりはないだろうし、この場でどうチェルシーが振る舞おうとも最終的に彼が婚約者になることは決定しているようなものだった。
しかしアリシアを連れてきたのはこのためかと納得する。
傍目で見ていて拙い部分もあったが、そこがまた非常に好ましく見えた。あのルーデンですら、アリシアに向ける視線に柔らかさが混じっていた。
彼女の中で先ほどの発言は聞かれていないと思うことにしたのか、途中フィリップと目が合っても顔色を変えることはしなかった。
けれど彼の自覚していない笑顔の歪さにはやはり気付いているようで、アリシアと目が合う度に内面が暴かれているような気になり、フィリップの胸がざわついた。
彼女を不快に思っているのだろうか。
いや、違う。
違和感を覚えているはずなのに、探るような目でもなく、恐怖を感じ視線を逸らすでもなく、ガラス玉のように透き通った綺麗な瞳でまっすぐ見つめる彼女に、演じていない方の自分が惹きつけられているのを感じる。
動かす駒としてではなく、彼女のことをもっと知りたいと、純粋な興味が湧いた。
しかし顔合わせが終わってしまえば、彼女と会う機会などそうそうない。
面会を希望すれば、未来の義理の兄妹として応じてくれるかもしれないが、婚約者を差し置いてそれは難しい話だった。
会えないという事実に、王城を後にしたフィリップの胸のひりつきはなかなか消えることはなかった。