2.
「アリシア王女殿下、お帰りなさいませ」
王城に到着し、母国の空気を思いっきり吸い込みながら馬車から出ると、柔らかな土の色を帯びた髪と瞳をした柔和な表情の青年が、私を出迎えた。
即日留学させられたので別れの挨拶もできず、数年ぶりの再会となったが、彼の笑顔はどの角度から見ても一切の偽りが見えず、自然であった。
「お久しぶりです、フィリップ様」
現在二十四歳のフィリップ様は、それはそれは見事な好青年へと成長されていた。
どこからどう見ても誠実でありながら理知さも兼ね備えていて、昔はそれらが隙がなさ過ぎて逆に怪しいと思えたけど、その隙というものも今の彼は会得したらしい。
フィリップ様は温和な笑みを崩さないまま目を細め、その場に跪くと私の許可を取ってから手を取り、そっと口付ける。
「長旅でお疲れかと思いましたが、私の我儘で一刻も早くアリシア様のお顔を見たいと陛下に願い出て、こちらでの出迎えの許可をいただきました」
「エリーから聞きました。あなたが私の負担を少しでも減らそうと、無理のない日程を組んでくれたことを。おかげでそこまでの疲れはありません。それより、姉のことであなたには申し訳ないことをしました」
立ち上がった彼に謝罪をすると、フィリップ様はいいえと答え首を振る。そして悲しげに目元を陰らせると、
「チェルシー様のお心を繋ぎ止めることのできなかった私にも非はあります。ですが全てはもう終わったことです。この度、私は新たにアリシア様の婚約者となりました。この国の為、精いっぱい王配としての役目を務めさせていただきますので、末永くよろしくお願いいたします」
そして、彼は頭を垂れた。
これだけ見ると、あんなことがあったにも関わらず王家に忠誠を誓う、健気で誠実な忠臣そのものだ。
周囲の人間も、温かい目でこちらを見ているのを感じる。
なんだけど。
ちらりと視線を上げたフィリップ様は、私にしか見えない角度で一瞬動きを止めると、まるで物語の黒幕のごとくにやりと笑った。
しかもどこか切なさと甘さを兼ね備えていて。
気のせい……ではない。
あの黒いオーラも、彼が私を見る目も覚えがある。
過去に散々見てきた彼の姿に、思わず背筋がぞくりとなる。
と同時に、この前のエリーの妙な反応、そして私自身が感じていた疑問の答えを見つけてしまった気がした。
「っ!」
マジか、もしかしてもしかしなくとも、そういうことなのか、と動揺のあまり声にならない悲鳴を上げそうになって、何とか堪える。
けれど私の唇から零れたわずかな空気の振動すらも彼は漏らさず捉え、私をエスコートするため自然に近付いた隙に、耳元で一言囁いた。
「逃がさない」
普段からは想像もつかない色気を纏った低い声に、別の意味でぞくりとなった私は、しかしこの程度でやられるものかと踏ん張ると、優雅に微笑んで彼のエスコートに身を任せる。
そんな私の様子に、フィリップ様は驚いたようにわずかに目を開いたけど、すぐに元に戻り、二人で王座のある大広間ヘと向かう。
久しぶりに会う両親は、誰この人たち……と思えるほどにやつれていた。
「おお、戻ったか」
三十歳くらい顔が老けた父様は、覇気のない声のまま、私をねぎらうこともなく、一年後に私達の結婚式を行い、終わり次第速やかに王位を譲ると言った。
簡潔にそれだけ述べると、疲れているだろうからもう退出してもいいと母様が口にして、特に両親と話したいこともなかった私はお言葉に甘えてその場から退散する。
正直このままフィリップ様と別れたかったけど、生憎このお方はそれを許してはくれなさそうだった。
「お疲れではない、とのことでしたので、少し私と話をしませんか」
しまった、さっき疲れすぎて死にそうだから、とか返事しておけばよかった。断りたいけど有無を言わせない笑顔の圧に、私は頷くしかなかった。
それまでの私たちの関係は、姉の婚約者とその妹、というものだったので、必ず近くに人の目があった。
しかし今は婚約者。
二人きりで部屋に閉じこもっても、非難されるどころか、フィリップ様以上の逸材がいないからなんとしても彼を繋ぎ止めろと言わんばかりに、積極的に部屋に押し込められた。
お茶とお菓子の用意をテーブルにセットし、エリーがこっそり同情の視線を私に飛ばしながら、数人のメイドを引き連れて部屋を出る。
その途端、目の前の青年の空気が豹変する。
まるで穏やかな空気を纏う春から、吹雪で荒れ狂う冬のように。けれどその奥には、氷すらも一瞬で溶かすほどの強烈な炎が燃えている。
危険だと体中の細胞が悲鳴を上げているが、いったい『これ』からどう逃れろというのか。
フィリップ様はもはや狂喜を隠そうともせず、満面の笑みで私の元へ大股でやってくると、ソファに座る私をその場で押し倒す。
「ようやく、ようやくだ。あの女と添い遂げる気はなかったとはいえ、婚約者として公の場で隣に立つのがどんだけ苦痛だったか」
これのどこが人畜無害の誠実で温和な青年だ。前に会っていた時よりも、彼の黒さは加速している。
獲物を目にした猛禽類の様にぎらついた瞳も、愉悦で歪む笑みも、これほど凄みは帯びていなかった。
このままでは喰らい尽くされてしまいそうだ。
物理的にも乙女的にも。
同じ部屋にはベッドもあるし、そういうことも予測しているんだろう。最終的には結婚するんだし遅かれ早かれそうなるにしても、それは今じゃない。
いや、厳密には今は嫌だ。
喰われる方に覚悟ができていない。
その時リリアンヌ姉様の言葉が頭を駆け巡る。
「自分にはこの男を飼い慣らせない」
だけど姉様はその後、こうも言っていた。
アリシア、あなたなら手なずけられるわ、と。
その時は意味が分からなかったけど、今なら分かる。
「どこまでがあなたの仕業なんですか」
今にも噛みつかんばかりに近付けられた唇を手で防ぐと、まっすぐに彼を見据える。
「何が?」
「チェルシー姉様のことは私も分かりました。でもリリアンヌ姉様の婚約者がいなくなったり、帝国皇子との結婚の件は? あ、でもそうしないとあなたはリリアンヌ姉様と結婚することになってしまうから、やっぱりそっちにもあなたが一枚嚙んでないとおかしいですね」
その言葉に、彼はくくっ、と小さく笑うと、体を起こす。
とりあえず、一瞬だろうけど危機は回避された。
フィリップ様は私の身体もついでに引いて起こすと、まだ温かさの残る紅茶を手に取り、優雅に足を組みながら飲む。
「悪かったな。少し、いや、大分だな。歯止めがきかなかった。第一お前が別れの挨拶もなく留学したのが悪い。あの頃は絶望のあまり国を滅ぼしてやろうかと思った」
思いとどまってくれてよかった。本気を出せば国家転覆可能、と知ってはいたけど、実際にされるとやっぱり嫌ではある。
「あれは私の意志じゃないって、あなたなら分かりますよね?」
「だから破壊衝動を堪えたんだろうが」
私も同じく喉を潤しながら、ついでに小菓子に手を伸ばす。
もごもごと懐かしの故郷の味に舌鼓を打っていると、まだまだ真っ黒だけど少しだけオーラを和らげたフィリップ様が、ふっと息を吐いて私の唇の端についたクッキーの欠片を指で拭い、自身の口の中に入れる。
「でかくなっても、相変わらずこういうとこは変わらねぇな。リスみたいですっげぇ可愛い」
「それで、まだ私の質問に答えてもらっていないんですけど」
淫靡な空気を纏わせつつあるフィリップ様に気付いて、私は即座に話を切り替える。
油断も隙もあったもんじゃない。
妙な緊張感に肌がひりつくけど、そんなのはおくびにも出さないよう気を付けながら冷静な口調で問えば、フィリップ様は肩をすくめて軽く両手をあげた。
「お前の言う通り、まずチェルシー元王女の方は、俺がそうなるように持っていった。都合よく外見が良くて頭が空っぽな男を見繕ってあの女の前にあてがったら、想像通りに喰いついた。後は勝手に自滅していったぞ。まあ、調べたらリーフの家も色々真っ黒だったし? ついでに家ごと消えてもらったがな」
なぜそんなことを、とは聞かなかった。私はその理由に見当がついているから。
なので黙って続きを促す。
「で、リリアンヌに関しても、元婚約者が消えた原因も俺が作った。けどそれに関しちゃ感謝してほしいくらいだ。リリアンヌも、能力もないくせに態度だけはやたらデカいあの男のことを嫌ってたしな。その後の帝国皇子とのきっかけも俺だ。皇子の側近に近付いて、そっからあの皇子と友人関係を築き、婚約破棄されると分かっていた例のパーティーの招待状を渡した。あの男の好みは聞いてたし、特徴もリリアンヌと合致してたからいけると踏んでた。後は二人を引き合わせりゃ、自ずとああいう結果になるよな。ただ」
ここで言葉を区切ったフィリップ様は、何かを思い出すかのようにどこか遠くに視線を向けると、乾いた笑いを浮かべる。
「まさかリリアンヌが本気で帝国の皇子と恋に落ちるとは思ってなかった。それでもあいつはこの国のため、最後まで残ると訴えてたがな。だが、当然こちらに拒否権はない。最後までお前のことを心配しながら嫁いでいったよ」
なるほど。
道理でと合点がいく。
リリアンヌ姉様からの幸せだと書かれた結婚報告の手紙の一番最後にあった、あなたを贄にしてしまった形になってごめんなさい、という言葉。
勿論私が王位を継ぐことに対することもあったんだろうけど、それ以外の意味合いの方が強いのだろう。
昔から表面上は普通だけど実際は険悪な仲だったリリアンヌ姉様とフィリップ様。同じ年で学校でもライバルで、周りに誰もいない時は互いに呼び捨てにしながらよく罵り合っていたらしい。
それでも能力も十分で王配としてこれ以上にない適任者だと理解した上で、フィリップ様みたいな男と結婚するのは御免だとリリアンヌ姉様は常々口にしていた。
勿論、王命として結ばれるなら従うけど、私以上に向こうが拒否するだろうって言ってたっけ。
理由は教えてもらえなかったけど、遠回しに私が原因的なことは言われた。
実際に二人は婚約者になりそうだったけど、そうはならなかった。
私に国とフィリップ様を押し付ける形で自分だけ嫁ぐことになってしまったことを、姉様は謝罪したかったのだろう。
けど、それは別にリリアンヌ姉様が謝ることじゃないと思っている。
きっかけはフィリップ様だとしても、帝国からの圧力で否応なしに嫁がされるのなら、そりゃあ相思相愛の相手のほうがいいに決まってる。
「で、話はもういいか」
「まだです」
再度こちらに体重をかけようとするフィリップ様の鼻先に掌をかざす。
「んだよ、質問には答えただろうが」
私の手なんて彼にかかれば簡単に跳ね返せるはずだけど、フィリップ様はそれをしなかった。不満げに眉間に皺は寄せているが。
「まだ聞きたいことがあります」
「それ、今俺の邪魔をするよりも大事なことか?」
「ええ。私にとってはとても大切なことです」
そう答えると、苦々し気に唇を噛みながら私から離れる。
苛立ちを隠すかのように、普段は滅多に口にしないと言っていた菓子の包みを乱暴に外すと、ぽいと口に入れながら、瞬き一つせずじっと私を見つめる。
その姿に、私はやっぱり表で完璧に演じているフィリップ・ローズデンという青年より、今のむき出しの感情を隠しもせず露にするただのフィリップ様の方が見慣れてるし好ましく思えた。
我ながら趣味が悪いのかなと自虐に満ちた笑いを内心浮かべながら、一番気になっていることをはっきりと口にした。