序章:深海の夢、あるいは目覚め
ズブズブと、意識が浮上する。
まるで深海の底から水面に押し上げられる泡のように。
しかし、その泡は弾けることなく、
ふわりと、何かに着地した。
目を開けると、そこは信じられないほど豪華な部屋だった。
シャンデリアが煌めき、壁には見たこともない深海の生物の絵画。
「は…?」
掠れた声が、自分のものだと認識するのに時間がかかった。
だって、私は死んだはずなのだから。
私の名前はミカ。
どこにでもいる、ごく普通の小学校教師だった。
たぶん。
そう、たぶん、普通の人間だった。
少なくとも、死ぬまでは。
私の最期の記憶は、濁流に飲まれるバスの中だ。
遠足の帰り、突然の豪雨。
幼い生徒たちの絶叫。
その声に、私は手を伸ばした。
それから、深い闇。
そう、確かに、あれは死だった。
なのに、私はここにいる。
指先を動かすと、白い肌が透き通るように見える。
まるで深海の光を透過するクラゲみたいだ。
髪は、潮に濡れたようにしっとりと、
深い藍色に染まっている。
なぜか、目尻には金色の鱗のような模様が浮かんでいた。
…あれ?こんな顔だったっけ?
「ふむ、ようやくお目覚めかしら、迷子の魂よ。」
突如、響いた声に心臓が跳ね上がった。
声の主は、部屋の隅にある大きなソファに、
これ見よがしにふんぞり返っていた。
彼女は、クリスティーネ=フォルテッシモ=ヴェノム。
通称、クリス。
深紅のドレスを纏い、髪は漆黒の螺旋を描いている。
その瞳は、深海の暗闇を閉じ込めたような、
しかし、その奥底には、
僅かな光が揺らめいているように見えた。
「ようこそ、深海マンション『アビス・レジデンス』へ。」
彼女は嘲るように口元を歪めた。
「私はここの管理人にして、かつて海底を支配したクラーケンの娘。
貴様のような、孤独に耐えかねた死者の魂を、
集めて住まわせているわ。」
その言葉には、一切の感情が感じられなかった。
まるで、古びた書物を朗読しているかのよう。
「孤独に耐えられない、ですって?」
私は思わず聞き返した。
私こそ、孤独とは無縁の人間だったのに。
だって、私には、守るべき生徒たちがいた。
たとえ、それが叶わぬ夢になったとしても。
その時、壁の絵画が突然、動き出した。
絵の中から、半透明のイカがニョロリと現れる。
「あらあら、新しいお嬢様ですか?
クリスティーネ様も相変わらずお口が悪いですわねぇ。」
彼は、優雅な仕草で私たちに近づいてきた。
元教師の幽霊イカ、イカ先生。
彼の体は半透明で、ところどころインクのような染みが浮かんでいる。
どこか懐かしさを感じる、穏やかな眼差しをしていた。
「あら、イカ先生。余計なお世話ですわ。」
クリスは一瞥もせず、イカ先生を冷たく突き放す。
その態度に、私の心臓の奥がチクリと痛んだ。
彼女の目は、何も映していないようで、
しかし、何かを深く隠しているような、
そんな矛盾した輝きを放っていた。
この奇妙な共同生活が、
一体どんな結末を迎えるのか。
私とクリス、そして深海の住人たちの物語が、
今、静かに、しかし確実に、動き出す。
まだ何も知らない私は、
この深海が、私の失われた"心の一片"を呼び覚ます場所だとは、
夢にも思っていなかったのだ。