第8話 京の夜
着いた旅館の、客室のふすまを外して食堂にした広間で、夕食を済ませてくつろいでいると、ふいにゾッピがテーブルの上のパンフレットを見て叫んだ。
「あれっ、これ、まちがえてるよ。『鳥丸通り』なのに『からすまどおり』って、ふりがなが振ってある」
皆の食べた食器を片付けに来ていた女中さんがおかしさに手を止めてうつむいたのを見て、河上先生があわてたようにたしなめた。
「ゾッピ君、よく見て。これは『鳥』じゃなくて『烏』って字ですよ」
先生が指さしているパンフレットにゾッピは顔を近づけた。
「からす?」
「そう。烏。ほら、この『鳥』によく似た字の頭の部分。中に『一』が無いでしょう?」
「あっ、本当だ」
「たしかに『鳥』とまちがいやすいけどね…」
「ふーん。でも先生。俺、こんな変な字、今まで見たことないよ」
そう言ったゾッピに、先生は少しいたずらっぽい表情で聞いた。
「本当に?」
ゾッピは片手を挙げて答えた。
「はい、神に誓って」
こいつの言う『神』って、例の『お告げの神様』のことか?
ヤスノリの思いとは無関係に、ゾッピに問いかける河上先生の声がした。
「じゃあ、君はウーロン茶は飲んだことないの?」
「あるさ、それくらい。るびすやで売ってるじゃない。先生が下宿している…」
河上先生は、にっこりすると答えた。
「だったら知ってるはずですよ。これはウーロン茶の『ウー』の字です」
「えっ?」
「あれはね、『烏龍』って書いて、読むときは『烏龍』って読むんです」
先生が言い終わるとすかさず、ワックが言った。
「ゾッピ。あんた、今まで『鳥』だと思ってたでしょ? あの字」
「うるせっ! お前だってそうだろ?」
ゾッピに言われてワックは黙り込んだが、どうやら図星のようだった。
「でもさ、それでもこのパンフレット、まだまちがえてるぜ。だったら、『烏丸通り』のはずだろ? なのに『からすま』って…」
女中さんはまた、おかしさをこらえるような表情になった。
河上先生は再度ゾッピをたしなめるように答える。
「京都ではそう言うんです。『烏丸』って書いて、読む時は『からす
ま』って…」
「ふーん、変なの」
一番変なのはお前だろ
ヤスノリが思っていると先生が言った。
「じゃあ、そろそろ外出して自由行動といきましょうか」
ヤスノリの胸は少し高鳴った。
旅館の玄関で靴を履く時、透明のガラス戸越しに見える未知の空間へこれから入って行くことに、ちょっとした冒険心を覚えたのだった。
外へ出ると宿の近くに地下鉄の駅の入口があった。都会育ちの河上先生は別として、他の者は地下を走る鉄道に乗るだなんて初めてのことで、以前に家族旅行で東京に行ったことのあるヤスノリでさえ、その時は地下鉄には乗らずに地上を走る電車で都内を移動したのだった。
地下へ通じている階段を下りる時、ヤスノリの胸はまた鼓動を打ち始めた。
地下鉄の切符の販売機の上には路線図があった。見るとほんの一駅だったので結局、京都タワーなどがある京都駅へ行くことにした。
切符を買ってプラットホームへ行くのだが、ここは、水床島の対岸のS町の駅の駅員が立っている有人改札とは違って、無人の自動改札だった。
東京で乗った山手線なんかもこんな感じの自動改札だったな。あの時は、もっと人でいっぱいだったけど…。
ヤスノリが思っていると、自動改札を手で差して先生が言った。
「皆、ここに切符を入れて中に入りましょう。じゃあレディファーストで女子から」
好奇心の強いゾッピはレディファーストに少し不満そうだ。どうやら早く中に入って、地下を走る鉄道のプラットホームを見てみたいらしい。
「男子は後で面白いことをしてみせるから、先に女子を通してあげて」
待たされている男子に気を使ってか、先生は穏やかに微笑んでいる。
男子が見守る中、ハナたちは買ったばかりの切符をゆっくりと自動改札の挿入口に入れた。
次の瞬間、閉じていたゲートがさっと開いた。
「うわっ、何これ?」
口々に言う女子たちに、先生は笑いながら答える。
「切符がもう向こうに出てるから、さあ取って」
女子たちは次々に自動改札を通って中に入ってゆく。
「やっぱり都会ねえ」
自動改札を通り抜けたハナは感心と憧れの混じったような声で言った。
「じゃあ次は男子の番。君たち男の子に聞くけど、今、手にしている切符を裏返しにしてこの機械に入れたらどうなると思う?」
皆黙り込んでいたが、ゾッピは文字などが何も書かれていない、塗り潰されたような切符の裏面を表にすると言った。
「いいよ、別にこの、のっぺらぼうのままで出てきたって…。それでもここを通れたことに変わりないし。まあ、やってみればいいだけのことだろ?」
ゾッピは裏返しにした切符を自動改札機に入れると、次の瞬間には、もう向うに出てきた切符を見て、いつもの上ずったような調子はずれの声を出した。
「ええっ、なんで? なんで切符、ちゃんと表になって出てくるの?」
もうすでに改札を通り、ホーム内に入ってしまっている女子が、何事が起きたのか確かめようと、改札機の端から頭を出している切符のそばに集まってくる。
ゾッピがちゃんと表になって出てきた切符を引き抜くようにして取ると、残った男子は、じゃあ、俺も、と数機ある自動改札機に次々と切符を裏返しにして入れ出した。
「うわっ、ほんとだ。裏にして入れたのに、ちゃんと表になって出てくる」
「この機械はね、こういう芸当ができる仕組みになってるんです」
河上先生の言葉に、表になって出てきた切符を手にしたゾッピはしみじみとした声で言った。
「これってまるで猫みたいだな…。ねえ、先生。知ってた? 猫ってね、足を上に向けて背中から落っことしても、宙でくるりと体を半回転させて、ちゃんと足から着地するんだぜ」
そうですね、と先生はうなずく。
「この機械、猫の生まれ変わりなんじゃないの?」
ゾッピの言葉に皆、笑う。
「それを言うなら、機械じゃなくて、切符が、でしょう?」
先生が訂正した。
地下鉄のプラットフォームに設置されているホームドアに、こんなの見たことない、と皆、驚きの声を上げる。
やがて、電車が入って来て、ホームドアと電車のドアが開いた。
足を踏み入れた車両の中は割合と空いていた。
ドアが閉まり、電車が音もなく、ふわりと動き出したのを足元で感じる。
「うわっ、動いた」
ゾッピが叫ぶようにして言う。
鉄道といえば、去年の五年生の時の遠足で、県央のT市郊外のトゥモロー・ドリームランドへの行き帰りに乗った、重苦しい走りのディーゼルエンジンの列車しか知らない島の子供たちにとって、モーターで軽やかに走る電車は驚きだった。
ヤスノリは、以前、家族旅行で東京へ行った時、行き帰りは新幹線ではなく、県央のT市にある港から出ている長距離フェリーだったが、それでも着いた先の東京で電車に乗った。
あの時と同じ軽やかさだ…。
それはちょうど、ふだんガソリン車に乗り慣れている者が、初めて電気自動車に乗り、発進する際の、それまで体感したことのない静かさや滑らかさ、スピードが上がってゆく加速感の素晴らしさに驚くのと同じような、ちょっとした興奮を島の少年たちは覚えたのだった。
気が付くと、さっきからゾッピが近くにいた同じ年くらいの数人の少年たちをにらみつけている。少年たちは塾らしき名前の書かれた青いバッグを全員持っていた。通ってくる生徒に専用のバッグを持たせるくらいだから相当名の通った塾の生徒のようだった。
「どうしたの?」
様子がおかしいことに気づいた河上先生が尋ねた。
「あいつらが笑ったんだ」
少年たちを横目で差しながらゾッピが答える。
「それは君たちが電車に乗ったことがないから笑ったんですよ」
ゾッピを穏やかにたしなめると、河上先生はこちらを笑った少年たちに向かって言った。
「ねえ、君たち、知ってた? 僕たちの住んでいる県は日本でただ一つ、電車が走っていない県なんです」
それを聞くと、有名塾の生徒らしい少年たちはさらに含み笑いを浮かべた。へえ、そんな所から来たの、とでも言わんばかりに…。
「でもこれ、クイズの問題にもなったんですよ。実際にクイズ番組の小学生大会で出題されたこともあります。さあ、僕たちは何県から来たのでしょう?」
河上先生が、よその学校の先生だと改めて気づいたらしく、少年たちは急にうつむきかげんになった。見ると困惑したような表情が浮かんでいる。彼らはふだん、話で聞く模試などを受けているのだろう。もしかしたら成績優秀者なのかもしれない。だが、こういうタイプにありがちなことだが、たとえ些細なことであっても、その事実を知らなかったということが、不覚を取られた、と思えるのだろう。彼らの表情に口惜しさの色が浮かぶのがありありと見て取れた。
そういえば僕も、ゾッピが「海月」や「滸」の字を知っていたことに少しくやしい思いをしたっけ…。
前に自分が味わったような口惜しさを目の前の少年たちが同じように味わっているのか、と思うと、ヤスノリはなんだか気が晴れてゆくようだった。
目的の京都駅まではちょうど一駅だったので、そうしているうちに、やがて電車は速度を落として停まり、ドアが開いた。
「じゃあ、皆、降りましょうか」
河上先生がきっぱりと言った。
地下鉄の駅の階段を上り、地上の広場に出ると、京都市バスのバスターミナルだった。右のビルを見ると「京都タワー」と書かれた文字が目に飛び込んで来る。見上げると巨大なロウソクのように京都タワーが夕方の淡い空に白く浮かび上がっている。
間近なので見上げていると首が痛くなりそうだった。
「さて、これから自由行動です。今がちょうど五時半を少し過ぎたところなので、七時までにここに戻ってきてください。じゃあ、男子は男子、女子は女子に分かれましょうか。僕は女子をエスコートします。男子は自分たちだけでも平気ですよね」
もちろん、と叫ぶようにしてヤスノリたちは答えた。
そうそう、このメモ、と言って河上先生は小さな紙きれを見せた。
「これには僕たちが泊っている宿の名前と電話番号が書いてあります。もし迷子になってしまったら、近くにいる人に交番を教えてもらって、そこのおまわりさんにこのメモを見せるんですよ。そうすればもう安心だから…。誰にしようかな…。そうだな、じゃあミツアキ君。男子代表として君に渡しておきます」
この言葉はさっそく道化者ゾッピに捕まってしまった。
「やっぱりな。よっ、駐在の息子、がんばれよ」
うるせ、と少し照れたようにミツアキは言うと、先生からメモを受け取った。
皆、なんだかおかしそうに笑っている。だが悪意などみじんもない笑いだった。
駐在の息子が、よそのおまわりさんに道を尋ねることがあるかもしれない、か…。まあ、それもありかな。なんせ犯人が全国に指名手配された時なんかは各県の警察が協力しあうんだからな…。
ヤスノリが思っていると先生は続けた。
「まあ、そんなことはないとは思いますが、そのメモは一応、念のため、ということで…」
「大丈夫ですよ」
ミツアキは自信をのぞかせた。
ミツアキの返事に、じゃあ、頼んだよ、と言うと、河上先生は女子を引率して近未来的なJRの京都駅の駅ビルの方へ歩いて行った。
残ったヤスノリたち男子は京都タワーに上ってみることにした。
タワーのあるビルの中に入り、一番奥のエレベーターで十一階まで上る。一階からのエレベーターはここまでだった。
次に展望台行きのエレベーターに乗り換える。目の前でドアが閉まると、さっき、一階から上ってきたエレベーターに乗った時もそうだったが、頭から床に押し付けられそうな感覚を覚えるのだった。
こういうのを何て言ったんだっけ…。ああ、慣性の法則だ。いつか理科の時間に先生が余興で話してた…。
ヤスノリは(もちろんミツアキたち他の者も)こんなに高くまで上るエレベーターに乗るのは初めてのことだった。
ヤスノリや他の少年たち(ゾッピでさえ)も、何となく落ち着かない雰囲気だ。
やがてエレベーターは減速し始め、今度も頭から押し付けられそうな感覚を覚えた。
ドアが開き、外に出る。
展望台からは京都市街が三百六十度見渡せた。
「おっ、この望遠鏡、ただ、だってよ」
目ざといゾッピは無料望遠鏡をさっそく見つけた。
展望台には何台もの望遠鏡があったが、ちょうど目の前の二台の望遠鏡が空いていた。
ゾッピとミツアキがさっそく覗き込む。ゾッピの後にタルケとクマが、ミツアキの後にヤスノリとダスマが並ぶ。
「おっ、あそこのカップル、歩きながらキスしてるぜ」
ゾッピが望遠鏡に顔を当てたまま、おかしそうな声で展望台の巨大な窓ガラス越しのはるか下の方を指差す。
「えっ、どこどこ」
まだ望遠鏡を覗いていなかったヤスノリたちもガラス越しに下をのぞこうとする。
「なーんちゃってね、ウ・ソ」
「おい」
ヤスノリたちは声をそろえて言った。
少年たちは望遠鏡で眺めていたが、全員一通り眺め終わると、何気なく西の方を見てみた。京都の街並みが夕焼けに黒々と浮き彫りにされている。しばらく夕焼けを眺めていると、今度は誰からともなく、ゆっくりと巨大な円形をした展望台を少年たちは一周し始めた。
もとの望遠鏡のある場所に戻って来た時、ヤスノリは腕時計を見た。六時四十分だった。
そろそろ下りよう、と皆を促す。
エレベーターを乗り継いで、一階に着き、ビルから出ると、約束の集合場所に河上先生とハナたち女子がいた。
ミツアキは先生の所へ走り寄り、もらったあのメモを、これ、いらなかったですよ、と誇らしげに返すのだった。
「じゃあ、宿まで歩いて帰りましょうか」
先生はメモを受け取ると言った。
皆、無言で帰りの道を歩き出す。
辺りはもう、すっかり暮れていた。
こんなふうに夜、外に出たのは四年生の時の、北極星を見つけましょう。北斗七星を探してみましょう、という理科の、「夜空の観察」の宿題以来だった。
あの時もそうだったが、こうして夜、外に出るという経験はめったにない。何か神秘的な感じと開放感で、胸のすく思いがする。
ヤスノリは空を見上げてみたが、夜の京都の空には星がなかった。曇っていたからではない。お昼に金閣寺を見た時には、ちゃんと晴れていた。街の明かりで星が見えないのだ。
ここへ来る時、地下鉄の中で僕らを笑ったあいつら。あいつらは知ってるんだろうか、本当の夜空を。プラネタリウムなんていらない…。
水床島の夜空を思い浮かべていると、先生と一緒に先頭を歩いていたシズが口笛を吹きだした。今朝、バスの中でも歌った水床島小学校の校歌だ。
ヤスノリも声に出さずに心の中で歌ってみる。
潮の恵み 今受けて
伸び行くわれら ここにあり
シズは口笛をやめてふり返ると胸をはって見せた。
ヤスノリは何だか足が軽くなったような気がした。
シズはまた口笛で校歌の続きを吹き始める。
水床島小学校のメンバー全員は、こうして夜の烏丸通りを旅館まで帰って行った。
宿に戻って入浴を済ますと、もう九時半の就寝時間だった。
「明日も早いから、もう寝ましょうね」
河上先生の言葉に男子は男子、女子は女子に割り当てられた大部屋へ行く。
入口の戸を開けると、旅館に着いたときに乱雑に置いたリュックは、きれいに壁ぎわに片付けられており、六人分の布団が敷かれていた。
「おい、枕投げしようぜ」
ゾッピが、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。
そうだな、と皆それぞれがうなずいて、ヤスノリとミツアキとダスマ、ゾッピとダルケとクマの二組に分かれた。
はばかりない はばかりない
お月さん いっつも桜色
行者様をしのんでか
いつもの「呪文」を唱え終わると、枕が飛び交い始めた。枕は蕎麦殻のものではなく、スポンジのものだった。小学生の修学旅行には枕投げは付き物、ということを旅館側も心得ていたのだろう。
これなら思いっきり投げても平気だな…。
ヤスノリたちはしばらくスポンジの枕を投げ合っていたが、やがてゾッピがこんなことを言い出した。
「作戦会議」
この一言で枕投げは一時休戦となった。
「このままじゃあ、つまんないからさ、電気消してやろうぜ」
闇の中での枕投げか、スリルありそうだ…。
ゾッピは部屋の明かりを消した。
闇の中で、再び枕は飛び始める。だが不思議なことにヤスノリの方には少しも飛んでこなかった。目がだんだんと暗さに慣れてくると、枕は全部ゾッピに向かって集中して飛んでいた。
これって、ふだん自分だけ目立とうとしているあいつへのお仕置きなのか?
やがて闇の中でゾッピの情けない声がした。つぶやくような感じで、何と言ったのかは聞き取れなかったが、その声に皆、枕を投げるのを止めた。
相手がギブアップしたり、後悔したりしていたら、もうそれ以上は攻撃しない。これが、陰湿さなどまるで無い、さっぱりとしたところが取り柄の、南の島の少年たちのルールだった。
「もう寝ようぜ」
ダスマがぽつりと言った。