第4話 少年の日の父
「はい、明日からは、もう夏休みですね。それで、夏休み中に、もしも何かがあった時、お知らせを伝えてゆく電話連絡ネットワークというものを作ったのでプリントしました」
一学期の終業式が終わり、帰りの会の時に、河上先生は手にした紙を見せながら言った。
クラス中のちょっとした関心が先生の手のプリントに注がれる。
「緊急の連絡が必要な時、僕がまず、男子代表でミツアキ君の家と、女子代表でハナちゃんの家に電話で連絡します。それで連絡を受けたミツアキ君とハナちゃんは、これから配る紙に書かれている相手に電話をして、お知らせを伝えてください。ミツアキ君は次のヤスノリ君のうちへ電話をし、電話を受けたヤスノリ君は次のダスマ君に、というふうにこのクラスの全員にリレー形式でお知らせを伝えてゆきます。「まさかの時」には、男子は男子。女子は女子で、リレーでお知らせを伝えていってください。これから配るこの紙はなくさずに、必ず家の電話口のところに電話帳などと一緒に大切に保管しておいてくださいね」
やがて前から順番に手渡されたプリントがヤスノリの所に回って来た。見ると、
ミツアキ君―ヤスノリ君―ダスマ君―クマ君―タルケ君―ゾッピ君
ハナちゃんーミッコちゃんーカーチーちゃんーシズちゃんーワックちゃん
とクラスメートの名前がニックネームも交えて書かれ、その名前又はニックネームの横には、それぞれの家の電話番号が書かれていた。この水床島では、このように個人の名前と電話番号を共有しても個人情報の保護は? などという声が挙がることも無い。住民皆が親戚みたいな感じで暮らしているこの島ならではのことだ。
「はい、全員に渡りましたか? 行き渡ったら、まず自分の家の電話番号が正しいかどうか確かめてください。もし、間違っていたら教えてくださいね」
先生の言葉にクラス中が、自分の家の電話番号のチェックに集中し、しんとなっている。
やがて静けさは破れ、あたりは少しざわつき始めた。
「はい、静かに。全員、番号は合っていましたね?」
クラス中がうなずく。
「じゃあ、帰りの会はこれでおしまいです。それでは皆さん、楽しい夏休みを」
「河上先生ね、この夏は、東京の実家には帰らないんですって。ゑびすやさんが言ってたわ」
家に帰って夕食の時、差し出したヤスノリの茶わんにごはんをよそいながら母は言った。
「久しぶりだから帰ってご両親を安心させてあげたらいいのにね」
東京か…。
茶わんを受け取りながら、ヤスノリは、去年の春、家族で訪れた渋谷にあった宝石店を思い出した。
ショーウィンドーに飾られた、見たこともないような宝石類。母はまるで足が磁石にでも
なってしまったかのようにぴたりとその場に貼りついてしまった。次の瞬間、ヤスノリの足も磁石になった。
「アクアマリン」、と書かれた淡く透き通った水色の宝石。
海の色だ、水床島の…。
次の瞬間、母の言葉でヤスノリは回想から覚めた。
「ああ、そういえば来月の終わりに宿泊訓練があるってね。学校に泊るんでしょ?」
そうだった。十月に修学旅行があり、初めての外泊となるから、そのための予行演習として宿泊訓練をする、って言ってたっけ…。
「修学旅行、楽しみね。ところで、ごはんが済んだら、ミチおばさんのところへナスとキュウリ、持ってってくれる? 朝にもいどいたの…」
先日、今年で月夜の遠泳、二十五周年ね、と言って、ミチおばさんから父に赤ワインのシャンベルタンが届いた。
物を大切にするヤスノリの父はシャンベルタンのガラスのボトルを新聞紙で何重にして包み、広い土間にある、ふたを開けて階段で下りて行く、洞窟のような地下蔵に眠らせた。地下二メートルくらいに掘られたこの蔵は年間を通して気温が十六、七度くらいで、物を保存するにはうってつけだった。
「ささやかだけど、あのワインのお礼よ」
ちょうど今頃が旬の、朝採れのナスとキュウリが入った竹かごを手に取ると、母の言葉を聞いて、ヤスノリは島の駐在所のすぐ隣のミツアキたちの家へ向かった。
玄関を開けて呼ぶと、奥からミチおばさんが出て来た。
「ちょうど今さっき、散歩する、って言って、三人とも出て行ったわ。浜の方へ行く、とか
言ってたけど、後を追いかけてみる?」
「いや、いいです。それより、これ。うちの畑で今朝、穫れたやつ。母さんが
持ってけ、って」
ヤスノリは腕に少し疲れを感じながら竹かごを差し出した。
「まあ、ありがとう。ヤスノリ君、取り敢えず上がりなさいよ。あの子たちも、そのうちに帰って来るから」
おばの言葉にヤスノリは上がらせてもらうことにした。
奥の居間の畳の間に通されて、ちゃぶ台に着くと、おばは話し始めた。
「あなたのおばあさんのツギノさんが亡くなったのは、ちょうど私たちが子供の頃だったわ。胃ガンだったの…。母親を亡くした悲しみを紛らわせるためなのか、あなたのお父さん、あの頃、まだ行われていた八月の満月の晩の遠泳に挑んだのよ」
その話ならこれまでに何度も聞かされたが、やはりミチおばさんにとっては何度語ることになっても伝えておきたい大切な思い出らしかった。
「子供にはまだ無理、と言われていた遠泳によ。ほんと見事だったわ。結果こそ、びりに近い形でゴールしたけどね…。そしてその後、あなたのお父さんは前から好きだったトシコさん、つまりあなたのお母さんに告白したの。それで、今のあなたたち家族がある、ってわけね」
何度聞いてもヤスノリはこの場面で背中がむずがゆくなるのだった。
「ああ、この前は、父に赤ワインをありがとうございました」
しまった。礼を先に言わなきゃいけなかった…。
ヤスノリは心の中で思いながら言った。
「いいわよ…」
「あれから父さん、T市まで行ってコルク抜きと舶来のワイングラスを買って来たんです」
その買って来たコルク抜きというのは、柄の部分が銀色の魚の形をしたもので、ヤスノリの家の水屋の引き出しに大切にしまわれていたが、父はちょくちょく取り出しては、思い出に浸るように手に取っては眺めるようになっていた。ヤスノリは最近、家庭訪問の時もそうだったが、父のその行為が、いつまでも過去ばかり振り返っているみたいで、苦々しかった。
おばは言葉を続ける。
「手先が器用だったあなたのお父さんは小六、そう、ちょうど、今のあなたと同じ年の頃、一学期の図工の時間でオルゴールを作ったの。あの、八月の月夜の遠泳の前のことよ。それでそのオルゴールというのは木の板を組み立てたもので、ふたの板に彫刻刀で、自分の好きな図案を彫り込んで、全体にニスを塗ったんだけど、小さなオルゴールの機械とふたを、ねじや蝶番で本体に取り付けるのは、子供じゃ難しいから、というので、先生たちが何人かで手分けして付けてくれたんですって。それで、あなたのお父さん、完成したオルゴールを私に見せたの。ふたには月夜の行者岬を望む風景が彫刻されていたわね。海に映る月の光が彫刻刀で細かく彫ってあったわ。あれは、これから挑む遠泳を思ってのことだったのかもしれないわね…」
ヤスノリはその父が作ったというオルゴールを見たことがなかったが、おばの話に無言でうなずいていた。
「オルゴールの曲は『庭の千草』だったのよ。実はね、このオルゴールの曲を選ぶ時、何曲かの候補の中から生徒の希望で選ぶ予定だったんだけど、先生が希望を聞いても誰も意見を言わなくて、曲が決まらなかったみたいだったの。」
へえ、と思いながら、ヤスノリは話の続きを聞いた。
「それであなたのお父さんが、曲の候補の中に、自分の母親、つまりあなたのお祖母さんのツギノさんが好きだった『庭の千草』があったので、それを希望したら、他に意見もなかったのでその曲に決まってしまったみたいなのよ」
原曲がアイルランド民謡の「夏の名残のバラ」であるその曲は、ヤスノリの母も好きで、土間で調理をする時や、縁側で縫物をする時など、機嫌がよければ口ずさむ、なじみのある曲だった。
「それ、何ていう曲?」
初めてその曲を聴いた時、きれいなメロディに、思わずヤスノリは縁側で縫物をしながら口ずさんでいた母に尋ねた。
「『庭の千草』よ。私もあんたのお父さんと一緒で、小学校の六年生の時にこの曲のオルゴールを作ったの」
「ふーん。で、そのオルゴールは今、どこ?」
「ああ、あれね。小学校の思い出に持っていたんだけど、二十年くらい経ったら、もう鳴らなくなってしまったので捨てたと思うわよ。父さんもあの時一緒に作ったはずだけど、やっぱりそれもどこかにいってしまったみたいね。」
かつて父と水床島小学校の同級生だった母は言った。
回想から覚めると、おばは言葉を続けた。
「でも不思議なことにそのオルゴールは、いつの間にか見えなくなってしまったの」
母の思い出と一致する言葉が続く。
「それからだいぶん後になってから気が付いたんだけど、アルバムに貼ってあったツギノさんの写真で、一番小さいものも見えなくなっていたわ。たぶん遺影を撮るときに使われて、そのままどこかへ行ってしまったのかもしれないわね…」
ちょうどいい機会だから、写真でしか知らない祖母がどんな人だったのか、よく知ろうとヤスノリは尋ねてみた。
「ツギノおばあちゃん、ってどんな人だったの?」
「ええ、それはきれい好きで、几帳面な人だったわよ。爪はいつもきちんと切ってて、料理も裁縫も得意だったわ。昔、この島がずっとにぎわっていた頃、毎年、秋になると、りんごの皮剥き競争というのがあってね、制限時間内にどれだけ、長く、りんごの皮がつながったままで剥けるか、という競争だったんだけど、あなたのおばあさん、その競争で二番になったのよ」
へえ、そりゃすごいや。たとえそんな競争でも二番になっただなんて…。
「で、一番は村長さんの奥さんだったの」
「ふーん」
ヤスノリは聞いた。
「ところで、今、うちの学校って、生徒が本当にいないんだけど、その頃はやっぱり多かった?」
「ええ、そりゃ、多かったわよ。私もあなたのお父さんもあの学校の卒業生だけど、校舎は新しく建てかえられてからまだそんなに経っていなかったから、それはきれいだったわ。私たちの時で各学年に二クラスずつあって、一クラスに四十名以上はいたのよ」
「そんなにいたの?」
「ええ」
「じゃあ、学校に『赤シャグマ』が出る、なんて、冗談でも言わなかったよね」
ミチおばさんは苦笑しながら答えた。
「当り前じゃない。もう、いやだわ。あなたたち、今、そんなこと流行らせてるの?」
ええ、もちろん、ただの冗談ということでね、と付け加えた。
「もう今では十名前後の一クラスだけになってしまったんだけど、それでもまだ各学年一クラスずつはあるから…」
ヤスノリの言葉に、おばは、無言でうなずく。
「でも、昔とくらべて使われていない教室が多くて…。学校の一番上の階、三階は、今では全く使われていなくて、それで皆、三階には『赤シャグマ』が住んでる、なんて言い出して…」
おばは、また苦笑した。
「まあ、この島は今でも文明とは無縁だからね。遊ぶ所なんてないでしょ。だからそんな冗談を言ってふざけていたいのよね、きっと皆…。そんなおふざけが、娯楽の代わりなのよね」
ええ、多分、とヤスノリはうなずいた。
居間の柱時計が一度鳴った。
はっとして見ると、針は六時半を指している。時計の鳴った音の余韻が消えると、振り子の時を刻む音が妙に耳に鮮やかだった。
「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」
「あら、もう行くの? もう少ししたらミツアキたち、帰ってくるわよ」
「いや、いいんです。母さんが心配するといけないから」
「そう、わかったわ、じゃあ、お母さんに、お野菜ありがとう、って伝えておいてね」
「ええ」
外に出ると、あたりはそろそろ暗くなり始めている、七月の夕ぐれだった。