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最終話 これも風景の一部

 家に着いて二階に上がる時、ヤスノリは書斎にいた父に呼び止められはしないかと冷や冷やした。本棚の地図や方位磁石がなくなっていることには、案外、気が付かないかもしれない。けれど、父が、お昼の後にでも、例の思い出のこもったコルク抜きを眺めたいと思って、台所の水屋だんすの引き出しを開けていたらおしまいだった。そこにロウソク立ては無いからだ。

 だが四人は何事もなく二階に上がることが出来た。

 全員がヤスノリの部屋に入り、リュックを下ろして、ほっとした時、一階から声がした。

 一瞬、ぎくり、となったが、よく聞くと、母の、夕食を知らせる声だった。

「ヤスノリ、それからミツアキ君たち。上にいるの? もう御飯よ」


 少年たちが食堂も兼ねた居間へ下りて行くと、大きなちゃぶ台にステーキを載せた皿が六枚置かれていた。

「さあ、今夜は和牛ヒレステーキよ。七輪で網焼きにしたチャコールステーキ。味付けは『水床島の塩』とコショウだけだけど、炭火の遠赤外線で焼き上げた一級品よ。もし、味が物足りなかったら、わさび醤油や、すだちポン酢も用意しておいたから…」

 四人の少年は、あっけに取られている。

「どうしたの、これ? …ほんとうにステーキにしてくれたの?」

「ええ、今朝、そう言ったでしょ?」

 ヤスノリの胸に、うれしいというか、はぐらかされたといか、二つの気持ちの対流が起きてきた。

 節約家の母にしては想定外の大盤振る舞いだ。

 いくらミツアキたちを招いたからって…。

 ヤスノリは、いいの? こんな無理をして、と母に目で告げる。

「いいじゃないの、たまには」

 母はヤスノリを軽く叩く真似をしながら言った。言いたいことは、ちゃんとわかってるわよ、とでも言いたそうにして。

「皆、ナイフとフォークは無いから、お箸でかぶりつくのよ。大丈夫よ。お肉は柔らかいから」

 お箸でかぶりついて食べられるくらい柔らかな牛肉って、やっぱり和牛肉…。

 そう思いながらちゃぶ台に載った、六枚の皿の、網の焼き目のついた肉のかたまりを見る。

 ステーキにしては小さめだ…。

 そうだった。その小ささが本当に極上のヒレステーキであることを物語っていた。

 和牛のヒレステーキって…。

 ヤスノリは向かいに座っているミツアキと目が合った。ミツアキも驚いている。

 ちゃぶ台を囲むように車座になった皆がそろったところで、いただきます、を言った。

「ところでお前たち、今日はいろいろと大変だったんじゃないのか?」

 父はヤスノリとミツアキ三兄弟を見ると、更に言葉を続けた。

「母さん、あれを持ってきてくれ」

 母は台所の方へ行き、やがて盆を手に戻って来た。庭の千草を鼻歌で歌っている。機嫌のいい時に自然に出てくるメロディーだ。

 母はちゃぶ台の上に盆を置いた。盆の上には、ふだん使われることもなく大切にしまわれている舶来の、びいどろのグラスが半ダースと、開けられることはないと思われていた、おばから贈られたシャンベルタンの瓶と、父の思い出のこもった銀の魚型のコルク抜きが載っていた。

 父は盆のコルク抜きを手にすると、無言のまま、暫く眺めていた。

 魚って、制限のない水の中を自由に泳いでいるから、自分で勝手に決めてしまった制限、つまり限界をも超えて行くんだよな。

 洞窟の中で言った自分の言葉がよみがえってくる。

 やがて父は口を開いた。

「昔、俺が少年だった頃、村には八月の最初の満月の晩に遠泳をする慣わしがあってな、俺は最年少で夜の海を泳いで渡ったんだ」

 その話なら以前、おばから聞かされていたが、本人の口から直接聞くのはこれが初めてだった。

 父に次いで母が言った。

「さあ、もうこれくらいにして、そろそろワインを開けましょうか。大丈夫よ、少しくらいなら。何と言っても酒は百薬の長なんだから。ヒロシ君やマサル君は口を湿らす程度にね」

 母の言葉に、父もうなずく。

「これは土間の、洞穴のような地下蔵に眠っていた俺の宝物のワインだ。開かないと思われていたはずのものを開けてみようとする。人生、時にはそんな冒険も必要だ。今日、お前たちは行者の岩屋で何か宝物を見つけたか?」

 水屋だんすの引き出しに、明日にでも返すはずのロウソク立てと一緒にしまわれていたコルク抜きをこちらに見せると、洞窟の果ての浜で見つけた置き手紙と同じ言葉を口ずさむように父は言った。

 そりゃ、ロウソク立てがなくなっていたら、僕たちが洞窟探検に出かけたことに気づくよな。でも驚いた。これって今日の遠乗りを祝ってくれているのか…。だけど、父さんの言う宝物って、いったい、何なんだ? あの洞窟の浜にあった、父さんが昔、作ったオルゴールのこと? まあ、それでもいいけど、僕の一番の宝物はやっぱり、あの海で見つけた珊瑚、いや、未来への希望だな。まだおぼろげで消えてしまいそうだけど…。あそこで流した灯籠は今、どのあたりを進んでいるんだろう…。

 ヤスノリの頭に流し灯籠が思い浮かんだ。月が映し出す金色の帯からぽつんと離れ、微かに灯りながら灯篭は夜の海を行く。

 洞窟のあの置き手紙を読んでしまったことは伏せておくつもりだったけど、もう、父さんは気付いてしまっている。

 ヤスノリは、正面に座っているミツアキに、今となってはもういいや、と目くばせをして、両親に言った。

「どうしてわかったの? 僕たちが岬の岩屋へ行ったこと」

「お昼に帰って来て、父さんが水屋の引き出しを開けて、コルク抜きを手にしようとしたら、ロウソク立てがなくなってることに気が付いたのよ。私はちょうど居間に入ろうとしていて、ちゃぶ台を見たらこんなものが置いてあったわ」

 いつの間にか母は今朝、ヤスノリが残した手紙(というよりは走り書き)を手にしていて、突き出すようにしてこちらに見せた。

 下手な字だ…。

 ヤスノリが改めてそう思うと、母は言葉を続けた。

「これを父さんに見せたら、『あいつらは岩屋へ行ったんだ。ロウソク立てが必要なのは洞窟探検くらいのものだからな。俺も昔、あいつらくらいの時分には同じことをしたものさ。だから帰ってきたら結果はどうであれ、その勇気を讃えてやろうじゃないか』、なんて言うの」

 そうか。読んでから気が付いたんだな、僕らがいなくなっていることに…。

 ヤスノリは、昼のチャイムを岬の山道で聞いた時に思った疑問の答えを今、見つけた。

「『よし、今夜はお祝いだ。お祝いしよう。どうせステーキを焼くんだから、あの赤ワインを開けよう』なんて言うの。私、もう、なんだかおかしくなってきて…。でも夕飯の準備の前に、ロウソク立ての他に何かなくなってないか、確かめてみたら、二つあったリュックが両方ともなくなっていたわ。父さんの『岩屋へ行ったんだ』って言葉を裏づけるみたいにね。それから念のために書斎を探してみたら、まあ、あんたたち、地図と方位磁石まで持ち出していたのね」

 母はヤスノリたちを見る。

「『ロウソク立てがなくなってるんだったら、どうせ仏壇のロウソクも数が減ってるんだろう』、って父さんと二人で笑ったのよ。父さんたらね、ツギノさんたちもあの世からあんたたちの洞窟探検を応援してくれているさ、なんて言うの。仏壇のロウソクやマッチだって、喜んで貸してくれるはずだ、なんてね」

 ヤスノリはまとわりついてくる、くすぐったい気分を何とか紛らわしたかったが、今日、行者の岩屋で何か宝物を見つけたか、という、さっきの父の言葉を思い出し、直接の返答にはなっていなかったが、なんとか父に答えた。

「そんな冒険を成し遂げたら、その達成感を刻印しておくことも必要なのかな?」

 刻印、という言葉に、月夜の遠泳に挑み、岩屋に手紙を残した、かつての少年は満足そうにうなずいた。       

「さて、開くことはないと思われていたシャンベルタンを開けるとするか。これからのお前たちの未来に祝福が刻印されるようにな」 

 銀の魚の形をしたコルク抜きを誇らしげにこちらに見せると、父は少年の日の自分に帰って行った。

 父さんの言う「魚」って、自分の限界を超えた理想の姿のことなんだ。あの遠泳の晩、二つの限界を超えて、父さんは「魚」になったんだ。子供だからまだ無理だろう、と言われていた遠泳と、胸に秘めてなかなか言えなかった、好きだった子への告白という二つの壁を越えて…。

 ヤスノリには、少年の日の父が夜の海を泳いでゆく姿が見えるようだった。

 父が言った「開ける」という言葉は、ヤスノリに洞窟の中で見つけたオルゴールを思い出させた。あの時、オルゴールはふたを開けても鳴らなかったが、今、ヤスノリの頭の中で「庭の千草」のメロディが鳴った気がした。                

                                (了)



 これで水床島の少年たちの話はおしまいです。

 この作品は筆者の少年時代の思い出をもとに書きました。その時、一緒に過ごしてくれた友人たちにこの作品を贈ります。

 最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。この作品が一服の清涼剤となってくれれば、幸甚こうじんいたりです。

                         茂村 拓時


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