第27話 水床島の秘密
洞窟の外は、海と空がただ広がるばかりだった。
雲一つ無い空は、どこまでも淡く、風が静かに吹き抜けていた。
海からの風は、四人の少年たちの頬を撫で、髪を軽く掻き上げる。
ああ、この開放感。僕がこの世に生まれ、お母さんのおなかから出てきた時も、こんな感じだったのかな。それまでいた洞窟のようなおなかから出て、こんな開放感を味わったのかな。
ヤスノリは胸いっぱいに岩屋の外の空気を吸い込んでみる。
この頭上にある、原生林の生い茂る高台とは違って、視界をさえぎるものは何も無く、岬の先端にあたる目の前の海は、よく見ると珊瑚の群生が沖に向かって形成されているのだった。
「わあっ、珊瑚だ。何てことだ。この島には珊瑚があったんだ…」
「ここにこれがあるのを知っているのは、俺たちだけかな?」
「父さんは知っているかもしれない。あのオルゴールをさっきの場所に置いた時に、ここまで出て来たかもしれないから。それから、岩屋の入口に小屋が建てられる前に、行者の魂に会いに来た人たちなんかも、もしかしたら…」
浅瀬の珊瑚は、まるで水の中の巨大な友禅流しの反物のように見え、はるか沖へと続いていた。
これと同じような構図を見たことがある…。ああ、あの時の写真だ…。
ヤスノリは、河上先生が初めて赴任して来た時に見せてくれた、ネガをわざと反転させ、明暗逆さまになって写っている一枚の写真を思い出した。
「先生、そのネガの反転って、何か意味があるんですか?」
その時、河上先生に尋ねたハナの声がよみがえってくる。
ヤスノリは、ふと、遊び心で、目の前に広がる珊瑚の光景を白黒写真で撮影したとして、そのネガを頭の中で反転させてみることにした。
するとそれは、昨夜、自分の部屋から見た、夜の海に映る月の光の帯と見事に重なった。
「このようにネガを反転させるのは、何かを伝えたい時なんかに使うテクニックなんです」
思い出した先生の言葉は、ヤスノリにあることを教えた。
「あれっ! そうだ! ほら、いつも僕らが唱えてるあの呪文のことだけどさ、あの『お月さん…』って、実はあれ、ここに珊瑚があるという暗号だったんじゃないのかな。ほら、覚えてるか、ミツアキ。先生がネガをわざと反転させた写真を持って来て、見せたことがあっただろう? あれと同じさ。この風景を白黒写真で撮ったとして、頭の中で明暗反転させてみろよ。珊瑚がまるで夜の海に映る月みたいに見えるだろう? だから、あの呪文の『お月さん』って、珊瑚のことなんだよ、きっと。だとしたら、『お月さん いっつも桜色』、って、桜色、つまり桃色珊瑚がこの海に眠っている、ってことを、伝えようとしてるんじゃないのかな」
目の前の海を指さしていたヤスノリは、言葉を切ってミツアキを見た。
「ちょっと待てよ。この呪文を最初に考えたやつがいた時代って、まだ写真なんて無かっただろ?」
もっと落ち着いて考えて見ろよ、と言いたげにミツアキは言ったが、それでもヤスノリには確信めいたものがあった。
「ああ、多分無かっただろうな。でも、先生は図工の時間に、レオナルド・ダ・ヴィンチは左右反転させた鏡文字を書いていた、と言ってただろう? 鏡文字って、結構、子供にはよくあることだ、って…。ダ・ヴィンチは文字だけじゃなくて、図なんかも鏡文字で描いていた、とも言っていた。だったらさ、この海を、例えば墨絵かなんかで描いて、左右対称じゃなくて、明暗反転にしたら暗号にできる、と考えたやつが、昔、この島にいたとしてもおかしくないんじゃないのかな? お前が、もしも、その時の村の長老だったら、ここにある珊瑚のことは荒らされてほしくないから、何か暗号にでもして、後の世にそれとなく伝えよう、って思うだろう?」
ヤスノリの最後の「何か暗号にでもして」という言葉に、ミツアキは一瞬、反応した。まるで隠しておいた何かに気づかれてしまった、というふうに。
ああ、やっぱりな。やっぱり、こいつとハナは卒業メッセージに自分たちの思いを残していたんだ。そんなふうにして…。
ヤスノリは改めて思いながらも、頭の中を整理しながら言葉を続けた。
「まあ、桃色珊瑚は、ここみたいな浅瀬じゃなくて、ずっと沖の、深い海底に生息する、って聞いている。この浅瀬にふつうの珊瑚があるってことは、この先の深い海の底には桜色の『お月さん』が眠っているんだよ、きっと…。岬の先端の海へは、舟も網も入れるのが禁じられて来たのも納得だよ。『はばかりない』って、そういう意味だったんだ…。大人の秘め事に首を突っ込むな、って意味なんかじゃなくって、いつも桜色に輝いている珊瑚があるけど採るな、って意味だったんだよ」
ヤスノリの言葉に、ミツアキは暫く考えていたが、やがて言った。
「でもさ、俺たちの学校には、ゾッピとか、あるいは他の学年の奴なんかも入れると、漁師の家のやつらが何人かいたけど、あいつら、ここに珊瑚があるとかって、話したことなんかなかったぜ。いくら岬の先っぽでの漁が禁止されてても、代々、先祖からどうしてだめなのか、その理由くらい伝え聞いてるはずだろう?」
たしかにそうかもしれない、とヤスノリは思った。
「お月さん」が「珊瑚」のことだ、というのは単なる僕の思い込みにすぎないのかもしれない。けど、これほどあの意味不明な「呪文」を明快に物語るものは他にない…。
ヤスノリはねばった。
「多分、この暗号を唄にして残した村の長老か誰かは、皆には珊瑚があるってことは言わなかったんだろうよ。岬の先っぽ周辺の海は、行者の頭に当たるから、舟で近づくな。たたりがあるぞ、とかなんとか、こけおどしなことを言ってさ…。まだ民衆が科学的な知識など持ち合わせていなかった時代だから、そんな言葉でも十分効果があったんだろうな。だってさ、明治や大正時代どころか、昭和の中頃まで、狐や狸が人を化かす、って本当に信じられてた、って、いつか先生が言ってただろ? あれはたしか、国語の時間に、宮沢賢治の「雪渡り」が話題に上った時だったよな…。話を元に戻すけど、ここに珊瑚があることに気づいた連中も口外しなかったんだろうな。自分の子や孫にも…。島の結束は固い。岬が荒らされてしまうより、ここにも、そしてこの先の沖の海底にも、珊瑚があるということが忘れ去られてしまう方を望んだんだよ、きっと…」
ふだん何気なく使っていたあの呪文には、こんな意味があったのか…。
そう思うとヤスノリの胸に、まるで炭酸水の弾ける泡のような爽快感が湧き上がって来るのだった。
目の前の、珊瑚の海の先の水平線は、巨大な円弧を描いていた。洞窟の中の浜から見た時には、切り取られた線分で、文字通り水平だったのに。
これも地球が創り出した風景の一部なんだ…。
そう思いながらヤスノリは、はるか宇宙へと続いているはずの虚空を見上げた。
どこまでも、どこまでも淡い空だった。
さっきから、ヤスノリのはだしの足の裏で、波が引くたびに砂も動いている。
そうだった。足の裏がくすぐったいのも忘れて、無言のまま、四人の少年たちは波間に揺らぐ炎をいつまでも見ていた。
目の前の海を、流し灯籠は着実に進んでいる。
「行け、行くんだ」
皆、口々に叫んでいたが、驚いたことに一番大きな声を出していたのは、ふだんは無口なマサルだった。
ひざの下でまた波が寄せては返す。
気が付けば、ヤスノリは目の前の海に向かって、マサルに負けないくらいの大声で叫んでいだ。
「行ってくれ、ずっと向こうまで」
そう叫んだ時、遠くでチャイムが鳴った。役場の三時を告げるチャイムだった。




