第23話 つれづれなるままに…
日曜日と言えば、ヤスノリはミツアキ、ヒロシ、マサルと一緒に過ごすのが常だった。この仲良し四人組は、午前中、たいていは農家である、古いが大きいヤスノリの家に集まって遊んだ。
島の小学校を卒業し、新しく本土の中学校の入学を控えた春休み。これは、それまで過ごしてきた夏休みや、冬休みにも言えることだが、毎日が休みだと、やがて曜日の感覚が無くなってくる。二階の部屋でカレンダーを眺めながら、来月からはもう四月か、とミツアキが言った。
例の遠乗り決行の今月末は、ミツアキ三兄弟を、うちで泊めてくれるように両親に頼んでみたら、すんなりとオーケーを出してくれ、ミツアキの両親も同じくオーケーで、あっさりとうまく事は運んでしまった。
これで、修学旅行の時もそうだったが、何か、わくわくすることが終わった日の夜の空虚感に悩まされずに済む。
下の方で玄関の戸が開き、ヤスノリ、とミツアキの呼ぶ声がした。
おう、来たか、と答えながら、二階の部屋にいたヤスノリは階段を下りてゆく。
「上がれよ」
二人の弟と立っているミツアキの白い歯を見ると、ヤスノリは、ミツアキたちが乗って来た自転車を広い土間に入れるように促した。
二階に上がり、戸を開けて中に入ると、ヤスノリの部屋の窓からは床見湾の向こうに行者岬が見える。
役場の十時を告げるチャイムが鳴った。
「あのラジオの時間だ。聞くか?」
立ったままヤスノリが聞くと、
「まあ、他にすることもないしな」
ミツアキはうなずきながら、二人の弟に、な、それでいいだろ、と言う。
ミツアキの二人の弟、ヒロシとマサルも、うん、まあね、と答え、ミツアキ三兄弟は先に畳の上で車座になった。
ヤスノリは机の上の、父からもらった昭和時代に作られた、ポータブルのトランジスターラジオを取ると、畳の上に置き、スイッチを入れてミツアキたちと囲んだ。
「さあ、『全国子供質問室』、始まりましたよ。この番組は、ふだんは日曜日だけなんですが、今は春休み中ということで、来月の四月五日まで、特別に月曜から金曜までの平日に放送されます。皆さん、どしどし日頃感じている疑問を質問にして電話を掛けて来てくださいね」
司会の女の人がオープニングの言葉を言う。
「今日のテーマは理科に関することです。質問の用意ができたお友達からお電話ください。皆、くれぐれも番号の掛け間違いのないようにしてくださいね」
司会の人は、番組の電話番号と今日質問に答えてくれる先生を紹介した。
やがてラジオからは質問者の声が流れて来た。
「…もしもし…」
ヤスノリは、はっとなった。聞き覚えのある声だった。
ゾッピだ…。
思わずミツアキの方を見る。
ミツアキは、しっ、と人差し指を口に当て、ラジオに集中するように促す。
「はい、もしもし、こんにちは」
「こんにちは…」
「さあ、今日、最初のお友達ですね。では、お名前と来月四月からの新しい学年を教えてください」
「はい、か…河上将彦です」
ラジオから、少し戸惑ったような声がした瞬間、ヤスノリとミツアキは、もう一度顔を見合わせていた。
「ゾッピの奴、先生の名を語っている…」
思わず口に出た言葉に、ミツアキがささやくように言う。
「たまたま、あいつによく似た声の別人かもしれないぜ」
「でも名前まで先生と…」
と言いかけたヤスノリを、黙ってろ、とミツアキは制した。
そうするうちにもラジオ番組は進行してゆく。
「はい、将彦君は今度何年生ですか?」
「…今度、中一です」
「そう、じゃあ、今月小学校を卒業したばかりなんですね」
「はい」
「じゃあ、将彦君、今日の質問を聞かせてください」
「あのう、地球儀を見てて思ったんですけど、南極は地球の一番下なのに、そこへ行けば上下逆さまになったように感じないのはどうしてですか」
「そう、じゃあ、その質問を今日の担当の木下先生に答えてもらいましょう」
司会の女の人は、ゾッピと思われる人物の質問を担当の先生に振った。
今度は大人の男の人の声がする。
「将彦君、こんにちは。担当の木下正実です」
返事が無かった。ラジオの少年は、まるで自分が呼ばれていることに気が付かないみたいだった…。
「ああ、将彦君。お電話、つながってますか?」
すぐに司会の女の人のフォローの声がする。
「…あっ、はい。こんにちは…」
質問の主は、やっと、「将彦君」というのが、自分への呼びかけだと察したように思われた。
「将彦君は、とてもいい質問をしましたね。確かに君の言う通り、南極って地球の一番下なのに、そこへ行っても、上下逆さになったようには感じることはありません。どうして君はこのことを知ったの? テレビなんかの、南極の風景を見てそう思ったの?」
そう聞かれると、一瞬、ラジオの向こうの、ゾッピと思われる人物の声が止まってしまったように思えた。
ああ、あいつんちも、テレビ無かったんだ…。
ヤスノリが思っていると、無言のままでいる電話をかけてきた質問者が同意したものと思って、説明が続けられる。
「ところで君の質問に答える前に、ちょっと下準備として、目の話をしたいと思います。いいですか?」
「はい」
目の話なんて、いったい何の関係があるんだろう…。
ヤスノリが思う間もなく、こんな声が聞こえた。
「将彦君は、この前まで小学生だったんだよね」
「はい」
「じゃあ、理科の話になるんだけど、物に反射した光が小さな穴を通る時、小さな穴の後ろに白い画用紙なんかを持ってゆくと、その物体が上下逆さまになって映る、って現象を知ってたかな?」
「…はい」
「そう。将彦君はどんな時、それを見たの?」
「うーん、朝、うちの雨戸を開ける時、父…」
と言いかけて、
「父が(とラジオの声の主は言い直した)木の雨戸の小さな穴の所で、僕に、白い紙を持って来ない、と言ったので、紙を持って行ったら、その紙に外の景色を映し出して見せてくれたことがありました」
「俺」じゃなくて、「僕」ねえ…。
ヤスノリが思っていると、ラジオで解説を受け持っていた先生は、耳慣れない方言に戸惑ったらしく、こう聞いた、
「ああ、ひょっとして、今、言った、『持って来ない』っていうのは、『持って来なさい』っていう意味ですか?」
「はい、うちの島では、そう言います」
もう間違いない。あいつだ…。
ヤスノリは思った。
今、ラジオに出ているのは、河上先生と同姓同名で、ゾッピに声がそっくりの他の誰かではないことが、これではっきりした。
あいつがラジオに出てる…。
「そう。その時、君のお父さんが映し出してくれた景色は、どんな風になっていたか、覚えてる?」
「上下逆さまになってました」
「それだよ、それ。実はね、これは僕たち人間の目にも当てはまる現象なんだ。人間の目はカメラのレンズと同じしくみになってるんだよ。ところで、今、将彦君の目に前には何があるかな?」
「…電話とラジオ…」
ゾッピは、もっともらしいことを言った。
「そう、電話とラジオが今、そちらにいる君の前にあるんだよね」
「はい」
「でも、実はこの電話もラジオも君の目、つまり、人の目の奥には網膜といって、目に入ってきた光を受け取って脳に伝える、カメラで言うとフィルムに当たる膜があるんだけどね、この網膜に映っている、君の目の前の風景は、みんな上下逆さまになって映っているの。ちょうどお父さんが見せてくれた、雨戸の節穴からの光が、逆さまにして映し出したおうちの外の景色のようにね」
「…はい」
「でも、君の眼の網膜には、目の前の物は全部逆さまになって映っているはずなのに、実際にはそうは見えないでしょ?」
「はい」
「それはね、君の目の奥の網膜に上下逆さまに映った景色を、脳がちゃんと修正し直して、見せてくれているからなんだ」
「そうなんですか…」
「そうなんだよ。人間はね、物を見る時は、実は脳で見ているんだ」
「目じゃないんですか?」
ゾッピの少し驚いた声がラジオから漏れる。
「そう。目というものは、あくまで物の姿をとらえる道具にすぎないんだよ。実はね、人間は脳で物を見ているんだ。それでね、待たせたね。ここから君のさっきの質問に入っていくけど、南極みたいな、ちょうど地球の真下にあたるような所へ行っても、本当は、まるで逆立ちしたみたいに、頭が下で足が上になっているはずなのに、ちっともそうは感じないし、南氷洋、つまり南極の周りの海の水だって地球儀で見ればわかるけど、真下にあるはずの宇宙空間に落ちてゆくはずなのに、実際はそんなことないよね。それはどうしてだと思う?」
「…重力のせいですか?」
「そう。それだよ。もう気が付いたかもしれないけど、南極に行っても逆立ちしてしまっているはずなのに、そう感じないのは、さっきの人間の目のしくみでも言ったことと同じように、これも人間の脳が、地球上どこにいても、重力で引っ張られる方向を、いつも下に感じるように修正しているからなんだ」
「そうだったんだ…」
ラジオから漏れたゾッピが言った言葉と同じことを、ヤスノリも心の中で思っていた。
「そうなんだよ。人間の脳って、ほんと、すごいでしょう? じゃあ、これでわかってくれたかな?」
「はい」
「そう。それはよかった。でもこんな質問をくれるくらいだから、将彦君はきっと落ち着きのある、考え深い性分なんだろうね」
「いえいえ、そんな…」
わざとらしいゾッピの返答に、ヤスノリとミツアキは自然に目が合った。
今の聞いたか?
ミツアキの目は、はっきりとそう語っていた。
ヤスノリは、ああ、と拳を握りしめた。
「将彦君、別に遠慮しなくてもいいよ…。じゃあ、今日はこれで。いい質問をしてくれてありがとうね」
「ありがとうございました」
「はい、じゃあ、さようなら」
「さようなら」
ゾッピの言葉が終わらぬうちに、ヤスノリは手を伸ばしてラジオのスイッチを切っていた。
あいつに「小学校卒業の思い出づくり」で完全に出し抜かれてしまった…。
ヤスノリの視点はしばらく行方を見失ってしまっていたが、やがてミツアキと目が合った。
おい、どうする、これ?
ミツアキの目は、今度はそう語っていたが、やがてぽつりとこう言った。
「なあ、ヤスノリ。去年、確か、夏休みに入る前に、非常時の電話連絡ネットワークを先生が
プリントして配ったよな?」
「ああ」
「あれ、今でも、あるか?」
「あるよ。下の電話口のところにしまってある」
ミツアキはヒロシとマサルも促して、下りて行こうぜ、と言った。




