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第22話 ひとみはアクアマリン

 店の中に入ると、入口の右横にコーヒーマシンとイートインコーナーが、奥にはレジと揚げ物類のケースがあるのに気が付いた。

 コーヒーが百二十円か…。それにハッシュポテト? ハッシュポテトって何だろう?

 ポテトという名前と見た目からジャガイモの料理であることはわかったが、ヤスノリは、いや水床島の島民は、西洋風のジャガイモ料理といえば、ポテトサラダかコロッケくらいしか知らない。

 ハッシュポテトなるものは、ヤスノリにとっては初めての代物だが、悪くなさそうに思えたので、コーヒーと一緒に試してみることにした。

「はい、どうぞ」

 レジを打ち終えた女店員は注文をしたヤスノリに、ハッシュポテトの入った小さな紙袋とコーヒーのカップを渡すと、お砂糖とフレッシュは、そこのかごにあるから、と付け加えた。

 フレッシュって、ミルクのこと?

 女店員の手で示したかごには、明らかにミルクが入っているように見える、白い小さなプラスチックの容器が盛られている。

 コーヒーマシンの使い方がわからなかったので聞くと、女店員は、ヤスノリが手にした

 カップをそっと取り、抽出口の下に置いてマシンの「ホットコーヒー」のボタンを押した。小学校の教室にあった電動鉛筆削り機のような音がして豆が挽かれ、やがて香り立つ熱いコーヒーがカップに注がれた。

 そういえば、職員室で河上先生、ドリップバッグでコーヒーを淹れていたなあ…。

 ヤスノリはカップを取ってイートインコーナーのテーブルに着いた。店員が教えてくれた、砂糖とフレッシュは取らなかった。なぜだか、もう一度ブラックに挑戦してみよう、という気になったからだ。

 前は、インスタントコーヒーでブラックに挑戦してギブアップしたけど、今度のは本格的に淹れたコーヒーだ。どうだろう? 飲めるかな…。

 そう思い、何も入れないコーヒーのカップに口をつけてみた。

 大丈夫だった。何とか飲めそうな気がした。

 インスタントのとは違って味が柔らかだ。それに何だか、頭がすっきりしたような気がする…。

 次に初めてのハッシュポテトをかじってみる。細かく刻んだジャガイモが舌に触れた。

 ほんのりと塩味がする…。

 ヤスノリは本物のコーヒーと初めてのハッシュポテトをゆっくりと味わうことにした。


 入店を知らせるチャイムが鳴ったので女店員はレジに急いだ。ヤスノリが香り立つ、淹れたてのコーヒーを楽しんでいると、レジの方で声がした。

「ハッシュポテトとホットコーヒーを下さい」

 ヤスノリは、はっとなった。

 僕と同じものを頼んでいる…。

「ああ、いらっしゃい。でもこれって、本当はハッシュブラウン、って言うんでしょ? この前の授業でうちの子、先生にそう教えてもらった、って言ってましたよ」

 女店員の声の後に、静かに笑う声がした。

 会計を済ませた声の主が、こちらに近づいてくるのが気配でわかる。やがてコーヒーマシンの前に立ったが、何となく雰囲気で日本人ではないような気がした。見ると、すらりとした、天然のウェーブのかかった金髪の若い女性が立っていた。

 西洋人だ…。

 今まで水床島小学校に来ていたALTのヤマムラ先生は国籍こそアメリカだったが、ハワイ生まれの日系人で、見た目も話す日本語も、日本人そのものだった。ヤマムラ先生の前のALTは、マレーシア出身のザイヌディン先生だったので、こうして西洋人を近くで見るのは修学旅行で東大寺の柱の穴くぐりをしていた女の子を見かけた時以来、二度目だった。

 ヤスノリは西洋人の女性と目が合った。宝石のアクアマリンのような澄み切った水色のひとみだった。

 海の色だ、水床島の…。

 西洋人の女性はヤスノリを見ると、恥ずかしそうに微笑んだが、コーヒーが出来上がるとカップを持って店を出、前に停めてあった水色の軽自動車に乗り込んだ。車を停めたまま運転席でコーヒーとハッシュポテトを味わっている。

 ヤスノリがイートインの席の大きな窓ガラス越しに、ちらちらと眺めていると、さっきの女店員がごみ箱と小さな鍵を手にやってきた。どうやらここの店主のようだった。

 小さな鍵でコーヒーマシンの扉を開け、中に備え付けられた棒状のブラシで、挽かれたコーヒーの粉が出てくる穴を掃除し始める。開けた扉の内側のボタンを押すと、反物のように連なった白いペーパーフィルターが送られる。女店員は手でペーパーをちぎると、コーヒーのかすと一緒にまとめて溜められていたケースを外し、ごみ箱に軽く当てて中身を捨てた。

 あの機械の中って、こんなふうになってるんだ…。

 珍しそうにヤスノリが見ていると、自分の母親と同じ年くらいの女店主がまた話しかけてきた。

「あなた、今度こっちの中学に入るの? 水床島から来たの?」

 この辺りでは見かけない顔なのだろうし、なんとなく雰囲気で新中一生とわかったらしい。

「ええ」

「そう。それはおめでとう。うちの子は今度二年生よ。さっき外国の人がいたけど、あの人はS中学の英語の先生でね。うちの子、習ってるのよ。シンディ ロス先生と言ってね、去年、大学を卒業して、すぐここに来たんですって。生徒にとっても人気があるそうよ」

「ずいぶんと日本語がうまいんですね」

「ええ。なんか子供のころから日本のアニメを見て育って、それで日本語を覚えたみたいだし、向こうの大学でも勉強したんですって」

「えっ? 日本のアニメって、外国…、つまり、その、あの人の国でも放送されてるんですか?」

 驚いているヤスノリに女店主は続けた。

「そうなんですって。それで、同じ大学に日本人の留学生の女の子がいて、友だちになってお互いに言葉の教え合いっこをした、って言ってたわ。なんでも、その子には英語を教える代わりに日本語を教えてもらってた、って…。シンディ先生が初めてうちのお店に来た時のこと、今でも覚えてるけど、あそこの揚げ物のケースのトレイの前に商品名が書いてあったでしょ? いろいろと」

「ええ」

「それで、その時、コロッケを指さして、『おいしいコロッケ、ください』、って言ったの。あたし、おかしくて…。いえ、悪い意味で言ってるんじゃないのよ。なんか、こう、ほんわかした気持ちになれる、っていうか…」

 席を立って、女店主が言ったケースの前まで行ってみると、並べられたトレイの一つに、「おいしい! 男爵コロッケ」、と書かれていた。

 家が農家なので、ヤスノリはすぐにそれが男爵芋の「男爵」の字だ、とわかった。

 でも、もし、うちが農家じゃなかったら、果たして読めたかな? この字…。

 ふと、そうした思いがヤスノリの心をかすめた。

 女店主は話を続ける。

「ほら、漢字って難しいじゃない。私たちでも字がわからない時ってあるしね。ほんと大したものよ、あのシンディ先生。ひらがなやカタカナはもちろん、簡単な漢字なら、ちゃんと読めてしまうの。すごいわよね」

 二人とも笑顔がこぼれた。

「それで、電話の時なんか、ほら、電話って相手の顔が見えないじゃない。声だけでしょ? だからよく日本人にまちがえられるんですって」

 それはすごい…。

 ヤスノリは尋ねた。

「どこの国の人なんですか?」

「カナダよ。プリンスエドワード島って知ってる?」

「ああ、たしか『赤毛のアン』の…」

「そう。そのアンの物語の舞台から、車で五時間くらい行ったところにあるハリファックス、っていう町なんですって。なんでもそこは、イギリス人がカナダに入植した時に初めて造った町だそうよ。丘の上には要塞があって、今でもお昼には空砲を鳴らすんですって」

「そうなんですか」

 なんだ、水床島と同じじゃないか。ただ、こっちは空砲じゃなくて役場のチャイムだけど…。

 ヤスノリは、微笑んだ。

 女店員も微笑むと、ごみ箱をレジカウンターの奥にしまった。

 ヤスノリはまた、コーヒーの置いてあるテーブル席に戻った。

 そういえば、さっき買った「ラジオ英語中一」のテキストの最初のページに、カナダが紹介されていたけど、ハリファックスは載っていなかった。

 そんなに歴史のある町なのに、どうして紹介されていないんだろう…。やがて英語を教えてもらうようになった時、その町の写真でも載っていたら、テキストを見せながら、ほら、先生のふるさと、ここでしょ、って、聞けるのに…。    

 ヤスノリはリュックに入れた、買ったばかりのテキストに、ハリファックスの町が紹介されていなかったのがうらめしかった。

 でも待てよ。そういえばなんか名物料理が載っていたな。鮭を杉の木に載せて焼いた…。たしか、あの料理には名前がない、と書かれていたっけ…。そんなカナダを代表する料理なのに名前がない、だなんて惜しい…。そうだ、今度、英語を教えてもらうようになったら聞いてみるか。先生ならその料理になんて名前を付けますか、って。日本語は上手そうだから、こっちが英語が下手でも大丈夫だろう。もし通じなくてもテキストの写真を見せれば、きっとなつかしがって、いろいろと教えてくれるにちがいない…。

 女店員はカウンター越しに話し掛けてくる。

「それでね、この前の大寒の時なんか、ほら、いつになく寒かったでしょ」

 言われてみれば、確かに南の海にある水床島でも、この前の大寒は、何となく肌寒かった。

「で、あの時、シンディ先生、ショートヘアにして見えてね、『あら、髪切ったの』、って言ったら、『ええ、でも寒いです』、なんて言うから、もう、おかしくて…。『カナダの方がもっと寒いでしょう?』、って二人で笑ったの。ああ、そうそう、この前なんか、わざわざお国からお兄さんが訪ねて来ていたわ。たしか、ジャスティンさん、って言ってたわね。けっこうイケメンだったわよ。そう、背がすらりと高くて、なんか映画にでも出てきそうな感じの…」

 ふと外を見るとシンディ先生の水色の車はもうなかった。


 水床島への連絡船乗り場はヤスノリがいたコンビニからは割合と近かった。店のイートインで時間をつぶした後、ゆっくりと、今となっては現実のものとなってしまった、「もしもの場合に落ち合う約束の船着き場」へ歩いて行く。待合室に近づいて行くと、ガラスのドア越しに、同じ歳のいとこが椅子に腰かけているのが見えた。

 いた、ミツアキだ。

 ミツアキはヤスノリと目が合うと、ばつが悪そうに笑った。

 近づいて行くとヤスノリは言った。

「校門まで戻ってくる道さ、細いから、わからなかっただろ?」

 ミツアキは、何も言わずにうなずく。

 聞くと、先に船着き場に来ていたミツアキは、この時間まで海を見ながら適当に時間をつぶしていたらしかった。


 午後二時。時間通りに帰りの船が出た。今朝、S町に着いた時から水床島とは何かが違う、と感じていたが、ヤスノリは、やがてあることに気が付いた。

 そうか、こちらでは時を告げるチャイムが鳴らないんだ…。


 こうして二人のいとこは水床島へ帰っていった。



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