第21話 「テキストを買いに」 岬へ行く前にS町を探険
三月二十一日。
当たり前の話だが、卒業式は、それまでの三学期の終業式よりも早いので、今度の春休みは例年よりも長い。中学校の入学式までは、けっこう日があるので、この長めの春休みを過ごすには、三月末の行者岬への遠乗りだけでは時間を持て余してしまう。
「ねえ、母さん。明日、ミツアキと船でS町まで行って、四月から始まる『ラジオ英語中一』のテキスト、買って来てもいい?」
ヤスノリは台所で洗い物をしていた母に聞いた。
島の食料雑貨店「ゑびすや」は、本や雑誌の取り扱いはしていなかったので、今まで小学生向けの「ラジオ英語小学生」のテキストは、母に頼んで本土のS町の書店で買って来てもらっていたが、この四月からは同じS町の中学校に船で通うことになるヤスノリは、もうテキストくらいは自分で買うことにしたのだった。
「ええ、いいわよ。まあ、ついでだから今度行く中学校も下見してきなさいよ」
今まで自分に頼んでいたヤスノリが、急に自分でテキストを買いに行く、と言ったので、母は少し驚いたような顔をしていたが、どこか嬉しそうだった。
「ああ、そうする」
ヤスノリは二階の自分の部屋への階段を上がって行った。
三月二十二日の朝七時。
去年の修学旅行の日の朝もそうだったが、今朝早く、ヤスノリは今までのように母に起こしてもらわずに、自分で目が覚めた。朝一番の船にミツアキと二人だけで乗る、というスリリングさが、朝はもたつき気味のヤスノリの背中を押してくれていたのだった。
言ってみれば、これもS町への冒険旅行だが、今回は母がくれた「持ち塩」のお守りは、ヤスノリのポケットには入っていなかった。確かにS町は初めてだが、それでも来月から通う中学校を下見して、水床島まで戻ってくる自信はあったからだ。
そうだった。四月からは毎朝船に乗り、S町の中学校に通う。たとえ片田舎の少年であっても「教育の義務」とやらで、朝早くから船で学校に通わなければならなくなるのなら、「勤労の義務」とやらで、毎朝早くから電車やバスに揺られて会社に向かう都会のサラリーマンとなんら変わりがない。
僕ももうすぐ、朝一番の船で通うようになるんだ。今までは、ぎりぎりまで寝ていられていたが、その自由とももうお別れか…。
家を出るとき、玄関の戸を閉めながらヤスノリは思った。
ヤスノリは家から船着き場までの途中にある、ミツアキの家の駐在所に寄った。
奥から出て来たミツアキと二人で船着き場まで歩いて行く。去年の、修学旅行に出かけた時と同じように、朝が早いせいか、しばらくは無言で歩いた。
船着き場で切符を買うと、二人の少年はさっそく船に乗り込んだ。
役場のチャイムが鳴るのが聞こえ、船は定刻通り桟橋を離れた。去年の修学旅行の朝もこの船に乗った。あの時は雨だったが、今朝は少し雲がかかっているだけでよく晴れている。
ヤスノリとミツアキは修学旅行の時と同じように階上の航海甲板にいた。船は旋回しながら進路を北に取り始める。港の水深はわりあいと深く、海底にある石の一つ一つまでくっきりと見通せるこの島の海の水の透明度に改めて驚く。
そうするうちに、やがて船は外洋へと出た。太平洋に幅の広い航跡を白く残しながら、二人の少年を乗せた船は進んでゆく。右舷側には朝の太陽が昇る。
まるでポンと割った卵の黄身みたいだ。それも産み立ての、地鶏卵のとびきり上等のやつの…。
船のへさきには、朝の空をバックにして本土の山々がうっすらと見え、S町の港の防波堤も微かに見える。海風は変わることなく吹いている。
突然、ミツアキが右舷側の海を指差した。見ると、去年の修学旅行の時は見られなかった野生のイルカが五、六頭、船と競うように泳いでいる。イルカはこの辺りの海では、たまに見かけることがあると聞いていた。
もっと、もっと、と言わんばかりにイルカたちは泳ぎ続ける。
いつの間にか晴れていた空にアルミニウムのような色の雲が太陽をおおい、そのすき間からいくすじもの光が海へ伸びている。
この風景、なんか見たことがある。
ヤスノリは、なつかしさを覚えた。
そうだ、いつか教室の窓から、これと同じように雲の間から漏れた日の光が校庭で遊ぶハナに降り注ぐのに見とれていたんだっけ…。
見ると、光が下りた先の海面は、そこだけが白銀の円になって輝いている。円の中は海のさざめきで、まるで桜の花びらの模様が刻印された、大きく輝く硬貨のように見える。
やっぱり、ハナのことを思い出してしまう…。
船が本土に近づくにつれ、ヤスノリは気温がわずかずつだが下がってゆくように感じられた。今まで船のへさきにうっすらと見えていた本土の山々も、いっそう大きくはっきりと見え出した。
海の色も水床島のようなかげり一つないアクアマリンブルーではなく、汚れてはいないが、透明感のない海の色になっていた。
そういえば去年の修学旅行の時も、こんな海を見たはずだったんだよな…。
ヤスノリがそう思っていると、入港案内の放送が聞こえてきた。右舷側の海を見ると先ほどのイルカたちはもういなかった。
中学校からは船で通うようになるから必要だろう、と最近、父がくれた、去年の修学旅行でも使った腕時計をはめ、リュックを背負って来ていたが、見ると、あと少しで八時だった。
時計をくれたのはうれしかったが、父に対する違和感は否めなかった。例の父のくせは相変わらず治っていない。魚の形をしたコルク抜きを手にして眺めている、あのくせだ。
これって思春期なのかな…。僕はもう反抗期に入ってしまったのかもしれない…。
ヤスノリは思うのだった。
S町の地形は、北に山、南に海、と実に明快だった。南にある船着き場から坂道の大通りが北側の山へと続き、その坂の行き止まりがS中学校の校門だった。坂道の途中の交差点には、東西に伸びる商店街があり、角を東に曲がったすぐのところに本屋を見つけたので、ミツアキと二人で「ラジオ英語中一」の四月号を立ち読みをすることにした。テキストの表紙をめくると「世界の国から」と題して、カナダが写真入りで紹介されていた。
雄大なロッキー山脈や大陸横断鉄道にオーロラ。赤い制服を着て、馬でパトロールする騎馬警官の写真のほかに、特に名前はないが、鮭を杉の木の板にのせてオーブンで焼いたカナダの名物料理が紹介されており、よく読むと、焼きあがった時に杉の香りが鮭の身について風味がある、と書かれていた。
カナダ風の焼鮭か。なんか、うまそうだな…。
ヤスノリは、それまで西洋では肉食中心と思っていたので、この名前のないカナダの焼鮭料理に親しみを覚えるのだった。
立ち読みをしていた本屋でテキストを買うと、ヤスノリたちは交差点を北に折れてS中学校へと続く坂道を上ってみることにした。
S中学校は生徒数が多いのか、同じ三階建てでも水床島小学校より校舎は長かった。
学年に何クラスぐらいあるんだろう?
各学年が十名前後の一クラスだけという水床島の小学校を卒業したばかりのヤスノリは思った。
S中学校の周りは、ぐるりと一周できそうだった。
ヤスノリとミツアキは、校門の前からそれぞれ反対方向に歩いて学校を一周してみることにした。途中で出会ってもそのまま歩き続け、また校門で落ち合う、というプランだった。
もしも学校の周りを一周できずに、道がまったく別の方向へと通じ、お互いに相手を見失ってしまったら、その時は、この町の南にある船着き場に戻る、と決めておいた。S中学校は、港が見渡せる高台に建っていたので、船着き場までは坂道を下りて行きさえすれば、たやすくたどり着けるはずだったからだ。
水床島への帰りは、ここS町の港を二時に出る船に乗るつもりだったので、今からだと時間は十分すぎるくらいにあった。
S中学校の校門をヤスノリは反時計回り、ミツアキは時計回りに歩き出した。こうして歩いて行くと、昔、算数でやった旅人算、例えば、「一周が七百メートルの池の周りを、A君は分速二十メートルで、B君は分速十五メートルで、それぞれ逆方向に歩き出しました。二人が出会うのは何分後でしょう」、といった問題のように、途中で必ず出会うはずだった。
ヤスノリは校門からどんどん歩き、自転車がやっと一台通れるくらいの細い道に入った。細道は、やがて車がゆったりと対向できる幅の広い道路に合流した。
もしミツアキが先に来ていたら、脇の、この細い道が中学校の校門への道だと気づかずに、この広い道路をそのまま真っ直ぐに行ってしまうだろうな…。
果たしてヤスノリの懸念は当たってしまった。ヤスノリはその先どこまでも歩き続けたが、歩いても歩いてもミツアキには出会わなかった。しかたなくそのまま歩き続けて、また元の校門に戻って来たが、そこにもミツアキはいなかった。
あーあ。まあ、しょうがないか。こんなこともあるさ…。でも、こういう時、単純な地形のこの町は便利だな。緊急の時に落ち合う場所の船着き場に行くのに苦労なんかしないから。万一、道がわからなくなったとしても、港へは坂を下るようにすれば、たやすく行けるだろうし、それでもわからなかったら、その時は誰かに聞けばいい…。
誰かに聞けばいい、と思った時、ヤスノリはまた、あの修学旅行の夜の自由行動を思い出した。
警官の息子がこのS町のどこかで交番を見つけて、そこのおまわりに港への道を尋ねて…。いやいや、そんなことにはならないさ…。
人生は算数の旅人算のようには、きちんとした答えが出ない、ということを学んだヤスノリは、あわてて頭に浮かんだ心配事を振り切り、さっきテキストを買った本屋のある商店街をぶらついてみることにした。
帰りの船までにはまだ十分すぎるくらいに時間が余っている。こうして街の中を自由に歩くなんて、あの修学旅行の夜の自由行動以来だ…。
しばらく歩いて行くと、話に聞いたコンビニがあった。二十四時間営業という、水床島には無いような店で、入口の前に立つと、ドアが勝手に開いたので驚いた。ヤスノリは今まで自動ドアを見たのは数えるほどで、それらはどれも県央のT市のビルや、去年の修学旅行で行った京都のビルの入口にあったものだが、このように小さな店の入口が自動ドアというのは初めて見た。水床島でただ一軒の店「ゑびすや」の入口は手で横に開ける、昔ながらの引き戸だった。
ヤスノリは少しためらうようにしてコンビニの中に入ると、今度はセンサーが反応して、チャイムが鳴った。勝手に鳴ったチャイムの音にまた驚いていると、いらっしゃいませ、と女の店員の声がした。




