第13話 新しい年を迎えて
一月一日。
年が明けた。水床島には松浜寺という寺があり、毎年大みそかはそこで除夜の鐘をついていたが、早寝のくせに朝は寝坊助のヤスノリは、まだ本物の除夜の鐘を聞いたことが一度も
なかった。
元日の朝は、空気がぴんと張りつめて、ふだんは寝坊助のヤスノリでもおごそかな気持ちになる。友だちに会えないのは寂しかったが、この日だけは、なんだか自分も、周りもすべてが、まるでパキンと音でも立てたかのように新しくなった気がするのだった。
「さあ、お雑煮を食べましょうか」
家族そろって、雑煮の椀の載せられたちゃぶ台を囲んだ。
「さあ、箸をつける前に…」
と言った後、母は改まったように年始のあいさつをした。
「明けまして、おめでとうございます」
母の言葉に、父とヤスノリも、おめでとうございます、と頭を下げるのだった。
正月の朝の食事って、やっぱり独特な雰囲気があるよな…。
毎年、この時にしか食べることができない雑煮。一年ぶりの雑煮に、ヤスノリは餅の端を噛んで引っ張り伸ばしてみた。だんだんと伸びていった餅は十五センチくらいで、ぷつん、と切れた。
母は、行儀の悪い、と苦笑しながら見ている。
父が助け舟を出すように言った。
「昔の餅はな、もっと伸びたぞ。今は機械でつくからすぐ切れてしまうが、俺が子供の頃は、うちでも餅をついていたからなあ。あの頃はまだ親父、つまりお前のおじいさんが元気で、杵でついて、俺は手で捏ねる役だったよ。でも、よく怒られたなあ、もっとしっかり捏ねろ、って…」
へぇ、そうだったんだ…。
父に、まあ、一杯どうぞ、と母は御屠蘇を勧める。
「じゃあ、父さんは餅をついたことはないの?」
御屠蘇で気分が良くなったのか、それともヤスノリが興味を持ったのが嬉しかったのか、父は陽気に言った。
「いや、一度だけあるな。でもまだ子供だったから、杵は重くてそんなに長くはつけな
かったよ。毎年、暮れになったら二升はついていたなあ、あの頃は…。鏡餅の分も入れて」
ヤスノリの家では、今でもかまどを使っていたが、ふだん、一度に米を一升も炊いたことなどなかったので、二升と言われてもどれくらいの量なのかよくわからなかった。。
「お米一升が十合でしょ? じゃあ、二升って二十合? あのおくどさんでそんなに炊いたんだ、餅米を…」
居間と土間を仕切る、くもりガラスの戸で見えなかったが、ヤスノリは、かまどのある方向を驚きながら見て言った。
おくどさん、というのは主に西日本で使われる方言で、かまどのことを意味する。「くど」がかまどの意味で、それに親しみを込めて、「お」と「さん」を付けてそう呼ぶ。
ヤスノリの言葉に両親は顔を見合わせた。
どちらからともなく笑みが漏れる。
「えっ? 何?」
訳が分からずに聞くと、母が答えた。
「あのね、お餅を作る時、餅米は蒸すのよ。炊くんじゃなくて…」
うわっ、初トッチンだ。
トッチンとは、こちらの方言でドジのことだった。
ヤスノリが言葉を失っていると、その場の雰囲気を変えようとして、母が尋ねた。
「どう? 初夢は見られた?」
「いや、でも初夢って今日じゃなくて、明日、二日に見る夢じゃなかったっけ?」
そう言うヤスノリに、そんなことはないさ、と父が答えた。
「まあ、場所にもよるらしいが、正月三が日の間に初めて見た夢、ということでいいんだ」
少し酒が入ったせいか、父は目じりを下げながら言い、母に猪口を差し出して、もう一杯お屠蘇を注いでもらっている。
本当、正月って不思議だよな。こうして朝から酒を飲んでもいいんだから…。
ヤスノリはふと、ミツアキのところはどうなんだろう、と思った。
元旦だけはミツアキの父さん、ミチおばさんにお酒を注いでもらってるのかな?
警官であるミツアキの父が朝から酒を飲んでいるところを想像すると、なんだかおかしく
なってきた。
「ちょっと、やだ、何をにやついてるの?」
母がヤスノリを手で叩く真似をして、たしなめるように言う。
正月早々誤解されたくなかったので、今、思っていたことを正直に話すことにした。
「なんだ、そんなこと考えてたの…。ミノルさんはふだんお酒は飲まないわよ。それにまさかのまさかで、事件、なんてことになるといけないから、やっぱりいくら元旦でも今朝は飲んでないんじゃないかしら?」
「この島じゃ、事件なんてないさ。平和な島だからな」
父が母に言った。
水床島では年賀状が配達されるのはいつも夕方近くになってからだった。
四時を過ぎたところで、玄関先の郵便受けが、カタンと小さく鳴った。
やっと来た…。
ヤスノリは走るようにして郵便受けのところへ急いだ。
来てる、来てる。
その場で、落とさないように注意しながら自分へのものと、両親へのものに年賀状をより分けてゆく。ヤスノリ宛のは六通だった。ミチおばさんからと、あとはミツアキも入れて六年のクラスの男子五人からだった。
おばからの年賀状には「謹賀新年」と大きく書かれた横に、「ヤスノリ君、今年の春はいよいよ中学生ね。今まで通り、うちのミツアキたちと仲よくしてあげてね」と添えられていた。
おばからの年賀状を読み終えた時、くしゃみが出そうになった。賀状を読むのに夢中になり、外が少し寒いことを忘れていたのだった。
ヤスノリは暖かい家に戻り、両親へのものを、はい、これ、とまとめて母に渡した。
ありがとう、と穏やかに笑いながら、母は年賀状を受け取った。
三が日も過ぎ、正月気分も抜けた一月四日の夕餉の席で、ラジオを聞きながら食事を取っていたヤスノリたちは、本土のS町で起きた、ある事件を伝えるニュースにぼう然となった。
「昨日、十代から二十代の若者五人が、S町郊外の山の中で大麻を栽培していたとして、警察に逮捕されました…」
「ちょっと、もう、なによ、これ」
箸を持ったまま、呆れた顔で母は言った。
「まったく正月早々なんてことだ」
父の声も少し苛立っている。
海を隔てているとは言え、S町とは手を伸ばせば届くような距離だ。いつ、こちらに飛び火してくるかもしれない…。
水床島では、夜、鍵を掛けない家も多い。そのくらい安心感に満ちた治安のいい島で生まれ育ったから、この連絡船で三十分で行ける対岸の町で起きた事件に、ヤスノリは心がこわばるような思いがするのだった。
この事件は、それまで平和に暮らしていた水床島の住民の心に、少なからず波紋を投げかけた。
冬休みが済んで学校へ行くと、皆は口々に、報じられたS町での事件について語り合っていた。
「信じられないよなあ。都会じゃなくてS町であんなことが起きるだなんて…」
「ほんと、ほんと。四月からは私たち、あの町の中学校へ通うことになるのよ…」
ゾッピの言葉に、少し心配そうにシズがうなずいている。
「でも、犯人はもう捕まったんでしょ?」
ミッコが、話をいい方向へもってゆこうと流れを変えた。
「いちおう捕まったって言ってたけど、ほら、今はまだわかってないけど、そのうち調べてたら、まだ他にも逃げている仲間がいた、なんてことになるかもしれないぜ。いわゆる、逃走中の共犯、ってやつ…」
結構、心配性のタルケが、それでも、なんかちょっとなあ、といった顔で言うのだった。
チャイムが鳴り、やがて教室に河上先生が入ってきた。
カーチーがさっそく口を開いた。
「ねえ、先生。あのS町での事件、どう思います? ほら、S町の裏山で、大麻を栽培してて捕まったのがいた、っていう…」
他の者の視線も先生に注がれる。
「ああ、あれね。あの犯人は、きっと、よそから来た人間だと思いますよ。だって、この辺りの人であんなことする人なんていないでしょう?」
確かにそうだった。S町も水床島と同じように南国の田舎によくある、住民同士がまるで親戚同士のように妙に近い距離感をもって暮らしていたが、何もかも丸見えな人間関係が、若者の不良行為そのものを未然に防いでいるのだった。
「正月早々いやなニュースでしたね。僕は久々に東京の実家に帰ってて、昨日こちらに戻って、大家さんからその話を聞かされたんだけど、本当に驚きました」
「先生、先生はやっぱり都会…つまり東京の方がいい? 帰ってみてどうだった?」
ハナがすかさずに聞く。
河上先生は、ふむ、と少し考えてから答えた。
「そうですね、東京には、まあ、これはどこに対しても言えることですが、いい面と悪い面があると思います。いい面はなんといっても便利なところ。最終の電車なんて、夜中の一時近くまで動いてますからね」
ええっ、という驚きの声が沸き上がる。
そんな遅くまで電車があるんだ。夜の一時だなんて、僕なんかぐっすり眠ってる
けどな…。
確かに、以前東京には行ったことがあるが、その時もヤスノリは、夜中の一時には宿で睡眠中だった。
「でも、もちろんよくない面もあります。たとえば身近に自然が感じられないところかな。久しぶりに東京に帰って夜空を見上げたら、星が見えないんですよ、雨や曇りじゃないのに」
都会ってやっぱりそうなんだ…。
ヤスノリが去年の修学旅行で行った京都の夜空を思い出していると、先生の声がした。
「じゃあ、授業を始めましょうか」
暗い事件ばかりではなかった。二月に入ると、島の漁協に水床島の海水を原料にして、昔ながらの天日干しで作る、地元特産の天然塩の製造直売所がオープンした。天然塩は「水床島の塩 アクアマリンの海から」という商品名で、水床島の他に、県内各地のスーパーや土産物売り場で販売されることになったが、これは明るいニュースで、母はさっそく話題の「水床島の塩」を買って来た。
「ヤスノリ、ちょっと下りて来て。まず手をきれいに洗ってから、こっちへ来て」
二階の部屋にいたヤスノリは言われるままに母のいる台所へ行く。
「手は洗って、きちんと拭いた?」
「ああ」
もう一度確かめるように聞いた母に、少しぶっきらぼうな調子でヤスノリは言った。
「目をつぶって手を出して」
なんだよ、もう…。
差し出した手の上に、何かがふわりと載った。やがて手のひらが、すっきりとした感じになり、体の中に溜まっていた、淀んだ感じのものが、みるみる手のほうに引き寄せられて、気持ちまで軽くなったみたいに感じられる。
なんだか体の中が洗われてゆくみたいだ。胸なんかまるで炭酸水を飲んだみたいにスカッとする…。
「えっ、何これ」
おどろいてヤスノリは目を開けた。
「知ってるでしょ? ほら、今度売り出された、この島の、あの透き通るような海の水で作った塩よ。さあ、なめてみて」
ヤスノリはてのひらの塩に、ゆっくりと舌の先をつき出してみた。
突き刺さすような塩辛さではなく、柔らかい、ふわっとした、まろやかな味だった。
「どう。これが本物の塩の味よ」
そう言いながら、母もヤスノリの手のひらに盛られた塩をほんの少し指でつまんで口に入れる。
「持ち塩、って言ってね、昔の人は、天然の塩を半紙に包んで、お守り代わりに持ち歩いていたの。塩は邪気、つまり悪い気を遠ざける、とされていたからね。ほら、今、手のひらに塩を載せたけど、なんか心や体がすっきりした感じがしない?」
ヤスノリは自分の思いを言い当てられたことに驚いてうなずく。
「魔法をかけてあげたのよ。あんた、このところ、なんだか、憂鬱そうだったから…。どう、これで少しはすっきりした?」
ヤスノリは、うん、と晴れ上がったような顔で答えた。
母さん、気がついてたのか…。
ヤスノリの心には、まだ、ハナに変顔を見られてしまったことが引っ掛かっていたのだった。
「よかった。じゃあ、これからも具合が悪くなったら自分で持ち塩を作りなさいよ。これはいつまでも持っているんじゃなくて、何か守ってもらえたな、と思えたら、古くなった塩は、土に撒いたり、海や川に撒いたりして、もとの自然に帰してあげるの」




