第11話 ふつうの日々へ
修学旅行が終わった後の授業というのは、やはりつまらなく感じてしまうものだ。河上先生はそのあたりのことをわかってか、ある日の一時間目の理科の時間にこんな話をした。
「洞窟などの真っ暗な中で、時計を持たずに過ぎ去ってゆく時間を計ろうとしたら、どうすればいいと思いますか?」
「脈を使います」
カーチーが言った。
「その通り。ほかに何かありますか?」
先生が聞くと教室は静まってしまった。ヤスノリも考えに行きづまり、隣の席のミツアキを見た。ミツアキは、ほおづえをついたままこちらを見たが、その顔ははっきりと語っていた。
俺にもわからないよ。
やがてハナがそれまで頭の中に浮かんでいた考えを整理したかのように手を挙げて立ち上がると答えた。
「まず、よく耳を澄ませて、規則的に響く音、たとえば、滴り落ちる水の音などがないかを調べます。次にその音と音の間隔がおよそ何秒くらいなのかを見当をつけて、水の音の数を掛ければ、過ぎ去った時間がわかります」
「みごとです」
先生の言葉とヤスノリの思いは重なった。
「皆さんは海を見ると、なぜか、なつかしくてあたたかな気持ちになったことはありませんか。私たちの体は目に見えない原子でできています。原子は粒であると同時に波の性質も帯びていることがわかっています。すなわち私たちの体や私たちの生命には「波動」が宿っているのです」
そこまで言うと河上先生はクラスを見渡した。皆、真剣に聞いている。
「この地球で一番最初の生命は海から生まれて来ました。そして進化を遂げて行き、陸に上がるようになりました。ですから、海を見てあたたかな気持ちになるのも、私達の脳に眠る進化の歴史を無意識のうちに辿っているからなのかもしれません。私達ヒトは、生まれる時には、まず母親のおなか、つまり生命を育む子宮と呼ばれるものの中で、羊水という液体に守られながら大きくなってゆきますが、実はこの羊水と言うのは、ほとんど海の水と同じ成分なのです。このことも、私たちを含め、生命が海から生まれてきたことと、何か関係があるのかもしれませんね」
へぇ、という驚きの声がクラスに漏れる。
「話は変わりますが、ビッグバンという言葉を皆さんも知っていると思います」
「ああ、大爆発でしょ? 宇宙が始まった時の…」
ハナが答える。先生はうなずきながら続けた。
「そうです。私たちの地球は、このビッグバンの後に散らばって行った、宇宙の塵が創り出しました。そして、そこで生まれた私たちヒトの祖先も、また、宇宙の塵から生まれてきたのです」
「えっ? 何? 何? じゃあ、俺って宇宙で出来てんの?」
自分の鼻を指さしてゾッピが、声の音程を跳ね上げる。
沸き起こる笑いの中、先生は静かにうなずく。
「さっきも話しましたが、生き物なんかも含めて、物を作り上げている、目に見えない小さな粒のことを原子といいます。ビッグバン直後にできた最初の原子は途絶えることなく受けつがれて、皆さん一人一人の体の中に今でも宿っているのです。皆さん一人一人がこの広大な宇宙とつながっています。ですから皆さんの中には既に小さな宇宙が存在しているのです」
「ウソぉ」
クラスに漏れる声に先生は続けた。
「本当です。この地上のすべての生命は、宇宙からの贈り物と言ってもかまわないのです」
クラス全員が、どうしてそのことに今まで気づかなかったんだろう、という驚きの雰囲気に包まれた。
チャイムが鳴って休み時間となった。
河上先生は、じゃあ、ここまで、と言って職員室へ引き上げていった。もう皆、すっかり、「起立」、「礼」無しの授業には慣れっこになっている。
ヤスノリは、ハナがトイレに行くのを目でやると、さっきの高尚な授業の反動からか、隣の席のミツアキとふざけ合い出した。そうするうちに、つい夢中になり、ミツアキに変顔、それも普段はしないような、とびきりの変顔をして見せた。
ミツアキはおかしさに笑い出した。ヤスノリ自身もおかしくなったが、こちらに向けられている視線にふと気づいた。
ハナだった。トイレに行くはず、と思われたが、予想に反して、なぜか、もう戻って来ていたのだった。ハナは、社会科の教科書に載っていた能の面にように表情の無い顔になり、目をそらすと席に着いた。
ヤスノリの頭の中で、火が消えた。
水床島は亜熱帯性気候に近いため、十二月に入っても温暖だったので、運動会は毎年十二月の第三日曜に行われていた。
運動会の前の、十一月から十二月上旬にかけては秋植えの男爵芋の収穫時期だった。最近、水床島農協が栽培に使う種芋に、植え付ける一か月前から光を当てて芽を出させる方式を取ったため、秋植えには向かないとされていた、食感の良い男爵芋が栽培できるようになったのだった。
この時期、学校が休みの日にはヤスノリは、ほぼ一日中、男爵芋の収穫を手伝ったが、どこの農家でも忙しくなると、子供が家の手伝いをさせられるのはふつうのことだった。
小学生による労働は、労働基準法で禁止されているのでは? と言いたくなってくるくらい、芋の収穫など農作業は重労働だ。
手伝いを終え、夕食も済ますと、父は本土まで行って、新しく買ったトレーナーに着替えて外へ出て行った。
「どうしたの?」
突然のことにヤスノリは母に聞いた。
「いや、父さんね、今度の運動会に久しぶりに出る、って、言い出して…」
「ええっ? なんでまた急に?」
「ほら、今度の運動会はもう、あんたの最後の運動会になるでしょう? この島での…。 だから、父兄参加の徒競走で走るんですって。一つの節目として…。ただ、久しぶりに走るから、今から本番に向けて体を調整するそうよ」
父さんって、どんな体力をしてるのかな…。
ヤスノリは芋の収穫で疲れていたが、体だけでなく、更に気持ちまでもが、ぐったりするように感じられるのだった。
男爵芋の収穫から解放された翌日の月曜日の朝。運動会の入場行進の練習中に、ヤスノリは軽いめまいを起こしてその場にしゃがみこんでしまった。
河上先生がすぐに保健室に連れて行ってくれた。
ベッドにもぐりこんだヤスノリに養護の吉田先生が体温計を差し出す。体温計は昔のアナログ式水銀体温計だ。
ヤスノリは渡された体温計を脇の下に入れた。旧式の体温計のために、熱が測れても電子音など鳴りはしない。
五分後、もう、いいわよ、という吉田先生の声に体温計を取り出すと、昇った水銀柱は三十六度八分を指していたが、平熱が三十六度三分のヤスノリにとっては、平熱と微熱の境界線上にある体温だった。
「まあ微妙なとこね」
吉田先生はそう言うと、体温計を専用のケースに入れてキャップを閉めると、ケースの両端のひもを使って三、四回、回転させ、上昇した水銀柱を遠心力で下げた。これでリセット完了だ。手で体温計を振って下げてもいいが、なにしろ中に入っているのが水銀なのでこうする方がより安全だ。
河上先生は、とにかく安静にしてなさい、とだけ言って出て行った。
ヤスノリはベッドの中で眠り込んでしまった。
目を覚まして起き上がった時には、かなり時間がたってしまっていることはなんとなく分かった。
「ヤスノリ君、気分はどう? ましになった?」
吉田先生が聞く。
ヤスノリはうなずいて、ベッドから足を出すと、ゆっくりと床に下りた。
壁の大きな丸い時計の針は、三時二十分過ぎを指していた。
給食も食べずに眠り込んでしまっていたらしい。
今は帰りの会をやってるところだな。もうすぐ終わるな…。
「河上先生ね、『五時くらいにもう一度来るから』、って言ってたわ」
ヤスノリは、今から職員室へ行きますから、と短く言うと、保健室を後にしたが、職員室へ行くよりも、まずは先に教室に戻ってみた。中にはもう誰もいなかった。ヤスノリは自分の机の引き出しに入れたノートに筆箱、それに教科書をカバンに入れると、帰りのあいさつをしようと河上先生がいる職員室に向かった。
初めて入る職員室。入口のドアを開けてみる。
へえ、中ってこんなふうなんだ…。
机は先生同士が向かい合わせになるように並べられており、壁には、初めて見る行事黒板が掛けられていた。
先生、どこかな?
ヤスノリは河上先生の姿を捜す。
いた。あそこだ。
そう思っていると、香ばしい香りがほんのりと漂ってきた。先生はコーヒーのドリップバックをカップに付けて、この島での数少ない文明の利器の一つ、電動ポットで少しずつ、お湯を注いでいるところだった。
「もう大丈夫なの?」
ヤスノリが入って来たのに気づくと、電動ポットの給湯ボタンの手を止めて河上先生は言った。
「ええ…。あの、先生。それって何ですか?」
ヤスノリが、カップの上に取り付けられたものをそっと指差しているのに気づくと先生は答えた。
「ああ、これはドリップバック。こんなふうにしてコーヒーを淹れるんです」
ドリップバッグは先生の下宿先の食料雑貨店「ゑびすや」では見かけない代物だったので、きっと自分でS町の大型スーパーまで行って買って来たんだろう、とヤスノリは思った。
コーヒーを淹れ終わると、先生はカップに口をつけた。
実にうまい、といった顔をしている。
ミルクも砂糖もなしのブラックか…。
「まあ、元気になってよかった。どうしたの? 疲れてたの?」
ヤスノリは体育の時間にしゃがみこんでしまった訳を話した。
「そういえばヤスノリ君のうちは農家でしたね。農家は大変だ、って聞くけど、やっぱりそうなの?」
ヤスノリは笑いながらうなずく。
「でもあんまり無理しないでね。もうすぐ運動会だから」
はい、と答えて職員室を出ると家路に就いた。




