第85話 田舎の訪問者2
酒場を訪れたムルグス。
情報収集の場として欠かせない酒場。
ムルグスは観光客を装いながらも、入口が見える席に座り、店内の状況や出入りする人物を監視していた。
不審に思われないように、黒糖酒と今朝あがったという新鮮な魚を注文。
もちろん、諜報員たるムルグスは飲みすぎない。
「美味い酒と魚も楽しみだったからねー」
フォークを手に持ち、カルパッチョを口に運ぼうとした瞬間、ムルグスに緊張が走った。
(マ、マルディン!)
ムルグスの手が止まる。
(まさかつけられた? いやそれはない。奴が私のことを知ってるわけがない。ただの偶然か?)
ムルグスはすぐに自然体に戻り、カルパッチョを一切れ口に入れ、黒糖酒で流し込んだ。
視線は動かさずに、マルディンの動向に全神経を集中させている。
(と、隣……)
こともあろうか、マルディンはムルグスの隣に座った。
ムルグスのちょうど背後に座り、背中合わせになる。
ムルグスはテーブルに肘をつき、少し前かがみになって酒を飲む。
マルディンは椅子の背もたれに背中を預け、天井を見上げるかのようにのけぞった。
二人の距離は僅か数十セデルト。
ムルグスは跳ね上がる心拍数を抑えようとグラスに口をつける。
「お前、何者だ?」
突然、背後から声をかけられたムルグス。
マルディンの姿勢は変わらず椅子に寄りかかったままだ。
「わ、私ですか?」
何のことか分からないといった風体で声を出すムルグス。
だが、右手の袖に仕込んである暗器を静かに握った。
◇◇◇
港で偶然すれ違った男。
「あいつ、何者だ?」
どう考えても普通ではない。
特殊な訓練を受けている上に、臭いが異常だ。
「あれは人殺しの臭い……」
こんな田舎町に来るってことは、俺しか考えられない。
祖国ジェネス王国の諜報員、もしくは同国の殺し屋が俺を始末しに来たのかもしれない。
しかし永久追放となり、祖国とはすでに縁が切れている。
今さら俺を始末する必要があるのか。
それなら追放せずに、最初から処刑しておけばよかったはずだ。
「じゃあ何だ? 他国の諜報員か?」
この国には特殊諜報室という、悪名高い特殊諜報組織が存在する。
「だが、俺を探ってどうするんだ?」
今の俺はジェネス王国の情報も、月影の騎士の情報も持っていない。
「もしかして、冒険者ギルドの調査機関か?」
以前、俺の試験結果が改ざんされていたから、その可能性は高い。
それに、先日壊滅させた犯罪組織の黒幕が雇った殺し屋の線もある。
考えたらきりがない。
「ちっ、面倒なことになったぜ」
町の顔見知りたちに男の特徴を伝えると、すぐに居場所を特定できた。
狭い町はこういう時に便利だ。
店に入ると、男は入口を見渡せる位置に座っていた。
奴は俺に気づいた様子だが、瞬時に平静を装う。
間違いない、こいつは相当な手練れだ。
となると、下手に探っても掴めない。
俺はあえて隣の席に座り、接触することにした。
椅子の背もたれによりかかる。
「お前、何者だ?」
「わ、私ですか?」
「どこの人間だ?」
「な、なんのことですか?」
そこへ店員が麦酒の木製ジョッキを運んできた。
「マルディンさん! 今日もありがとうございます!」
「ああ、世話になるよ」
店員が下がると、二人の間にしばらく沈黙が流れる。
俺はジョッキを手に持ち、麦酒を二口流し込む。
男が握る暗器に細心の注意を払いながら。
「ふう……」
男が観念したかのように大きく息を吐いた。
「貴様、どうして分かった?」
「平静を装いすぎだ。普通は動揺したら、そこまで冷静に戻れない」
「なるほどね。勉強になるよ」
「何より、お前は血の臭いが酷い。殺しすぎだ」
「どっちがだ?」
「何のことだ」
「……セーム港」
まるで落雷したかのように、俺の全身を殺意が貫く。
この町でその名を聞くとは思わなかった。
いや、祖国を出たことで、二度と聞くはずがないと思っていた。
激しく鼓動する心臓。
俺は立ち上がり、テーブルに銅貨二枚を置いた。
「ついてこい」
店を出て、そのまま港方面へ向かう。
さすがに町中で戦うことはできないと、お互い理解している。
――
「ここら辺でいいか」
人気のない港に来た。
満月の明かりが海に反射する。
街灯がない場所だが、満月の光は影を生むほど明るい。
「お前を殺す前に、俺につきまとう理由を聞こうか」
「それはこちらの台詞だ」
「なに?」
「貴様がこの町に来た目的は何だ?」
男が右腕を振り上げると同時に、隠し持つ暗殺短剣を握った。
「ちっ!」
達人の暗殺短剣は厄介だ。
間合いに入れば瞬時に喉を切られる。
だが、利き腕の鎖骨を折ってしまえば、何もできない。
俺はあえて距離を詰め、左拳で男の右鎖骨を殴りつけた。
「貴様!」
男は身体を捻って俺の拳を避ける。
俺は即座に追撃。
暗殺短剣を握る男の右肘を、右拳で下から突き上げた。
空を切る暗殺短剣。
「ぐっ!」
男は瞬時に後ろへ飛び退いた。
俺に距離を取ることは命取りだ。
俺は即座に糸巻きを発射。
しかし、男は暗殺短剣の刃で糸を弾いた。
「バカな!」
初見で糸巻きを防がれたのは初めてだ。
男が地面を蹴り上げ、俺の太ももを狙って、鋭く切り込んできた。
すかさず抜剣し、剣を縦に構え、暗殺短剣を防ぐ。
剣がぶつかり、激しく火花が散る。
男は剣が衝突した反動を利用し、流れるように暗殺短剣を振り上げ、俺の喉を狙い切りつけてきた。
見事な剣さばきだ。
俺でなかったら、この一撃で終わるだろう。
「くっ!」
首を捻り辛うじて避けた俺は、そのまま体当りし、男の体勢を崩した。
そして俺は飛び退き、男と距離を取る。
すぐに体勢を立て直し、糸巻きを構えた。
「おいおい、こんなところで殺し合いするなよ。物騒な町だぜ」
突然声が聞こえた。
俺も男も剣を構えたまま、声の方向に視線を移す。
「き、貴様は!」
暗殺短剣を握ったまま男が叫んだ。
「ん? アンタ! 特殊諜報室のムルグスじゃん!」
声の主が男を指差した。
「特殊諜報室だと?」
俺は特殊諜報室という言葉に反応した。
特殊諜報室とはエマレパ皇国の諜報機関だが、諜報とは名ばかりで要は殺し屋集団だ。
「あー、なるほどね。二人とも落ち着きなって。たぶん戦う理由はないよ?」
気の抜けた声で、肩をすくめた。
「武器をしまいなって。それともオイラも参加しようか? オイラなら二人を同時に相手できるよ?」
「……双竜」
身長はそれほど高くない男の腰には、両刃短剣が二本吊るされていた。
「ってかさ。特殊諜報室のトップが、わざわざこんな田舎まで来たのかよ。傑作だぜ」
二人は顔見知りのようだ。
だが俺には話が見えない。
「待て。状況を話せ」
俺は二人に向かって問いかけた。
もはや戦いの空気ではない。
「オイラはマルディンに用があるんだ。だけど、まさかムルグスがいるとは思わなかったよ」
「俺に?」
「なあ、場所を変えようぜ。オイラは美味い魚が食いたいんだよ」
おどけた表情を見せる双剣の男。
「そうだな。こうなっては仕方がない。私も美味い魚を食べたかったんだ。マルディンのせいで食べ損ねた」
ムルグスと呼ばれた男が、暗殺短剣を収めた。
双剣の男が俺を指差す。
「そういうことだからさ、マルディン。美味い店を紹介してくれよ」
「ちっ。なんなんだよ。馴れ馴れしいな」
奇妙な展開になったが、三人で移動することになった。