第84話 田舎の訪問者1
◇◇◇
「久しぶりに来たけど、やはりこの地方は秋でも暑いねー」
イレヴスの空港で、飛空船から下りた一人の男。
引き締まった体格で、黒い短髪に樹脂と香草で作られた整髪料を塗り、髪を後ろに流して固めている。
薄茶色の麻スーツを綺麗に着こなす姿は几帳面のようだが、どこか気の抜けた締まりのない顔つきをしていた。
男の名前はムルグス。
エマレパ皇国特殊諜報室の室長だ。
エマレパ皇国の全ての情報を握る最重要人物であり、この国で最高の諜報員として裏の世界で恐れられている。
空港を出て豪華な馬車に乗るムルグス。
この馬車は部下が手配したもので、港町ティルコアへ向かう。
ムルグスは、馬車の中でバッグから中央局都市開発室の経歴書を取り出した。
「私の名前はルース」
マルディンの調査へ自ら向かうムルグスは、偽名こそ使用しているが、本物の中央局としてティルコアを視察する。
ティルコアに到着した馬車は、そのまま町役場へ向かう。
ムルグスの視察は通達済みで、町長クシュルが出迎えた。
「ルース殿。遠路はるばるお疲れ様でございます」
「この町はまだ暑いですね」
「ええ。もう秋ですが、残暑が厳しいです」
応接室へ移動し、町役場の役員たちとの挨拶を終えた。
そしてそのまま町長と会談に入る。
「火を運ぶ台風の被害報告書を読みました。被害は甚大でしたが、死者が出なかったのは評価できます」
「はい。一人の冒険者のおかげなんです」
「冒険者? 名前は?」
「マルディンと申します」
「マルディン?」
「はい。半年前に転入してきた冒険者です。彼が救助してくれたおかげで、助かった命がありました」
ムルグスは当然マルディンを知っている。
本来の目的はマルディンの調査だ。
「それと、先日この町へ犯罪組織が進出してきたんです」
「犯罪組織?」
「はい。これも冒険者マルディンの活躍で、壊滅させることができました」
町長は事件の状況や黒幕の存在など全てを書類にまとめており、ムルグスに報告した。
「現在、中央局に皇軍駐屯の申請を行っておます」
「この町は急激に発展してますからね。私からも担当部署に強く言っておきましょう」
「あ、ありがとうございます」
安堵の表情で頭を下げる町長。
ムルグスは書類を眺めながら珈琲を口にする。
「それにしても、このマルディンさんは凄いですね」
「はい。高齢者が多いこの町で、老人たちの面倒見も良く、今では町の人気者です」
「そうなんですね」
「少し口は悪いですが人格者です。いや、その口の悪さも、あえてこの町に合わせているのかもしれません。この町に転入してくれて感謝しています」
マルディンが言わせたわけではないだろう。
こういう素の情報は信用できる。
とはいえ、ムルグスも全てを信じるわけではない。
「このマルディンさんの印象を、もう少し伺ってもよろしいですか?」
「そうですね。明るく陽気で、裏表のない人物ですね。そして、自らの危険を顧みず、率先して他者に手を貸します。なんというか、人情に厚いといいますか、損得勘定抜きで行動すると思います。たった半年で、多くの町人から信頼を得てますから」
「そうですか。ありがとうございます」
その後も町のことを聴取し、町長との会談を終えたムルグス。
応接室で一人になり、用意してもらっていた書類に目を通す。
この半年間の転入者の書類を揃えるように伝えていた。
数十人分の書類の中から、マルディンの書類を抜き取る。
そして、珈琲を飲みながらマルディンの情報を全て確認した。
「驚いた。偽装も何もない。名前、年齢、出国元。全て本物だ。まさか本当に国外追放されたのか? しかし、そんなことがあるのか……」
腕を組みながら、様々な可能性を想定するムルグス。
しかし、どう考えてもマルディンをただ追放するとは思えない。
「本人確認書類は冒険者カード……。冒険者ギルドへ行くか。いや、あそこは足跡を残すと、むしろこちらがたどられる。調査機関は厄介だ」
疑問が残るムルグスだが、ひとまず本日予定されていた町役場の視察を全て終わらせた。
この視察は全て本物であり、ムルグスは中央局都市開発室の室長として、視察結果を公式記録に残す。
不審な点は一切残さない。
この視察によって、予定通り火を運ぶ台風被害の助成金を出す。
そして皇軍駐屯に関しても、ムルグスは進言するつもりだ。
「町人に話を聞いてみるか」
町役場を出たムルグスは港へ足を運ぶ。
道中で遭遇した老人に声をかけてみることにした。
「すみません」
「ん。なんじゃ?」
「私こういうものなんですけど」
男性の老人に、中央局のカードを見せたムルグス。
「皇都の役人さんか。何かのう?」
「転入状況の調査をしております。少しお話をお伺いしてもよろしいですか?」
「転入調査? そうじゃの。転入者は増えたのう」
「マルディン氏をご存知ですか?」
「マルディンか。もちろんじゃ。口は悪いが親切で優しい男でのう。常に人のことを考えておる。本当に良い男じゃ」
「そうなんですね」
「それに儂はマルディンに命を助けられた。うちの娘も気に入ってるのじゃよ。ふぉふぉふぉ」
その後も何人かの町人に声をかけたが、答えは同じだった。
全員マルディンに世話になった、助けられたと言う。
さらに、口が悪いという意見も一致していた。
「徹底して人格を作り上げているか、本来の性格なのか判断がつかないな。しかし、スパイなんて人を騙すのが仕事だ。これほど情報をコントロールできているということは、相当な訓練をしてきたのだろう。だが、奴の本職は騎士だ。ここまで徹底したスパイ活動ができるのだろうか……」
自分の考えがまとまらず、歩くスピードが遅くなるムルグス。
「それに、どう調べてもティルコアに機密情報などない……。ここへ潜入する意味はなんだ?」
港に到着したムルグス。
翠玉色の海を眺めると、自然と表情が緩む。
「美しい景色だねー。漁港に並ぶ船は壮観だ」
考えごとをやめ、景色に集中することにした。
「ここは本当にのどかな良い町だよ。マルディンがただ引っ越したと言っても納得するかもね。はは」
絶景を目の前に、思わず冗談が口をつくムルグス。
伸びをしながら漁港に目を向けると、老婆と並んで歩く男が視界に入った。
男は魚が入った木箱を抱えている。
腕の良い剣士特有の空気をまとっている男は、かつて見た姿と変わってない。
(マルディン!)
ムルグスの表情が一気に引き締まる。
気配を沈め、観光客を装い、海を眺めた。
そのムルグスの背後を、老婆と談笑しながらマルディンが通り過ぎる。
「マルディン、助かったよ」
「いいって。それより無理すんなよ婆さん。こんな重い物を持つと腰痛めるぞ?」
「なに言ってんだよ。あんたの方が腰悪いだろう」
「うっ。そ、その通りかもしれん。あっはっは」
ムルグスは海を眺めながら、マルディンたちが離れるのを待つ。
「行ったか」
マルディンが視界から消えた。
安心して大きく息を吐くムルグス。
無意識に手を握りしめていたことに気づく。
「手汗? 私が?」
ムルグスはハンカチを取り出し、手のひらの汗を拭った。
「まだ時間はある。今日の調査はひとまず……」
ムルグスは繁華街へ向かうことにした。




