第82話 疑惑の冒険者1
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エマレパ皇国皇都タルースカ。
世界的な大都市にして、三重の巨大な城壁に囲まれたタルースカは、別名千年城と呼ばれ、難攻不落の巨大都市として有名だった。
中心地には皇帝が居住する広大な宮殿があり、その周辺に国家の中枢を担う省庁が集中して建設されている。
それらの建物は薄黄色の砂岩で作られており、外観は全体的に四角い。
エマレパ皇国の特徴的な建物だ。
中心地に程なく近い区域に建つ二階建ての建物。
入口の頭上には『中央局都市開発室』と看板が掲げられている。
役所らしい名称だが実態はない。
その代わり、国家に関わる秘密があった。
「室長、失礼いたします」
一人の男が執務室へ入る。
室長と呼ばれた中年の男は、美しい装飾が施された机に向かっていた。
だが、椅子の背にもたれかかり、頭の後ろで腕を組みながら天井を眺めている。
男の身長は平均的で、体格は痩せ型。
黒い短髪には樹脂と香草から作られた整髪料を塗っており、髪を後ろに流して固めている。
身なりは良く几帳面のようだが、どこか気の抜けた締まりのない顔つきをしていた。
「ムルグス室長、ご報告がございます」
「なにー? どうしたのー?」
「それが、スパイの潜入でして……」
「スパイ? そんなのたくさんいるでしょうに」
情報が重視されている現代。
情報収集は国家で最も重要な任務の一つだ。
各国はあらゆる手段を駆使して、スパイを潜入させている。
そのため、どの国も国家的な諜報機関を保有。
この中央局都市開発室の真の姿は、エマレパ皇帝直属の組織で、国内外の情報を収集分析する諜報機関、特殊諜報室だった。
冒険者ギルドの調査機関と並び、恐るべき諜報機関として世界にその名を轟かせている。
ムルグスは、エマレパ皇国の全情報を手中に収める特殊諜報室のトップに立つ。
「それが、その……」
「何? はっきり言いなさいよ」
「スパイの潜入先が……その、港町ティルコアなんです」
「ティルコア? ティルコアって、マルソル内海のティルコア?」
「は、はい」
「あそこはいい町だよな。魚が美味いし」
「そ、そうですね。そう思います」
「で、なぜあんなのどかな田舎に? 何か重要施設があったっけ?」
「ないです。ないどころか、その周辺の街や都市にも重要な施設や情報はありません」
「じゃあ別にいいんじゃない? ほっとけばいいでしょー」
「そうもいかないのです。その……」
「はっきり言いなさいよ」
「は、はい、申し訳ありません。ムルグス室長は昨年のジェネス王国で、最も大きな出来事をご存知ですか?」
「何? 私を試してるの? こう見えて特殊諜報室の室長だよ?」
「い、いや、決してそういうわけではないのですが……」
「いいよ。つき合ってあげる」
ムルグスは珈琲を口に含む。
要領を得ない話だが、意外とこういう話は好きだった。
「ジェネス王国は前国王が暗殺され王弟が即位。新国王は元々、暗王子や愚弟と呼ばれていた猜疑心の塊。即位は奇跡だった。国民が懸念した通り重税を課し、一部の階級を優遇。そして、世界会議を脱退し、秘密裏に他国への侵略準備も進めている。国民は大変だよ。今の世界で侵略なんて無理なのにさ。世界会議加盟国が黙ってないし、何よりラルシュ王国がある。あそこは怒らせちゃダメだよ。アル陛下が動いたら、一瞬で国を滅ぼされる。だからうちだって、ラルシュ王国と友好関係を築き同盟を結んでいる。まあ我らが皇帝陛下はアル陛下と親友だし、皇后陛下にいたってはアル陛下とただならぬ関係だからね」
「はい。その通りです」
そう返事はするものの、この部下は内心で「違います」と呟いていた。
それを見透かしているムルグス。
部下の思慮が浅いと思いつつも楽しんでいる。
「コラコラ。ここからでしょーが」
「はっ! し、失礼しました」
「だが、それよりももっと信じられない愚かな決定を下した。我々他国の諜報機関からすると、これこそが国家を揺るがす一大事」
ムルグスがもう一度珈琲を口にした。
「月影の騎士の地方隊長で、糸使いの異名を持つマルディン・ルトレーゼを国外追放にした。それも永久追放だ。あの国家戦力をだぞ。信じられるか?」
「はい、仰る通りでございます」
「陛下はマルディンと戦いたいってうるさいんだから。謁見する度に行方を探せってさー」
エマレパ皇国皇帝は世界三大剣士に数えられる剣士でもあり、自らを人類最高の剣士と称している。
「で、それがどうかした?」
「そ、それが……。そのマルディン・ルトレーゼが我が国に滞在しております。それも転入です」
「は?」
「手続きに不審な点がなかったため、誰も気づかず、入国から一年が経過しておりました」
「ま、待て! まさかティルコアにいるスパイとは! マルディン・ルトレーゼか!」
「左様でございます」
これまで数々の情報を取り扱ってきたムルグスですら、呼吸を忘れるほどの衝撃だった。
「……通常の転入と言ったな?」
これまでのふざけたような少し間の伸びた口調から、低く迫力のある声質に変化。
表情も一変。
瞳に鋭い光が宿る。
「はい。偽名も使わず、役所に書類を提出して転入しております」
「入国時の本人確認書類は?」
「冒険者カードです。偽造もなく本物のCランクカードを保有しておりました」
「入国の理由は? 永久追放は偽装で諜報活動をしてるのか? それとも何かの工作活動か?」
「それが……今のところそういった活動は一切ないようです」
「今のところって、入国から一年も経ってるんだろう?」
「はい。ティルコアへ転入してからは半年経過してます。ティルコアの冒険者ギルド出張所に所属して、冒険者として活動しているそうです」
腕を組み、瞳を閉じるムルグス。
様々な状況を想定している。
「諜報員を派遣しろ。黒の砂塵を使え」
「え? あ、あの黒の砂塵ですか?」
黒の砂塵とは特殊諜報室が誇る皇国最高の諜報部隊だ。
これまで数々の高難易度任務を達成してきた精鋭部隊である。
冒険者ギルドで比較すると、Aランクと同レベルと言えるだろう。
「いや、待て」
「は、はい」
「私が行く」
「は? し、室長が?」
「当たり前だ。相手はあのマルディンだぞ」
「し、しかし……、室長自ら動かれるなんて前代未聞……」
「構わん。全ての手配を行え」
「か、かしこまりました」
黒の砂塵といえども、マルディンには敵わないと予想したムルグス。
莫大なコストをかけて育成した黒の砂塵を失うことは、国家の損失だ。
であれば、最初から特殊諜報室最高諜報員の自分が行くべきと判断した。
ムルグスは常に最も効率の良い方法を選択する。
「それと、絶対に陛下の耳には入れるな。陛下のことだから、嬉々として単身ティルコアに乗り込むぞ」
「た、確かに!」
部下が焦りながら退出した。
「あのマルディンがこの国にいるとはな……。厄介なことになった」
ポットから熱い珈琲をカップに注ぐムルグス。
「マルディンは月影の騎士で三本の指に入る達人なんて呼ばれているが……」
珈琲カップを手にする。
「実際は違う。そんな生易しいものじゃない」
窓の外を眺めるムルグス。
マルディンの名を聞き、思い出したくもない恐ろしい記憶が蘇った。
「セーム港の赤い海事件……」
数年前、ジェネス王国の北海に面する港町セームに、北方蛮族船団が急襲。
千人の海賊たちが、略奪の限りを尽くしたこの襲撃は、セーム港の赤い海事件と呼ばれている。
「あれは……悪夢だった」
当時のムルグスは、特殊諜報室の北方圏担当だった。
偶然にもセームに滞在しており、その一部始終を目撃している。
「月影の騎士の北部部隊一個旅団によって、北方蛮族を撃退した。……ことになっている。歴史上はな」
真冬の襲撃は月影の騎士の出撃を阻んだ。
そのため、北方蛮族は悠々と町人を殺し、奪い、殺戮を始めた。
そこへ現れたのが一人の騎士。
マルディン・ルトレーゼだった。
どうしてマルディン一人だったのかは分からない。
だが、マルディンはたった一人で北方蛮族と戦った。
ムルグスが言う悪夢とは、マルディンのことだ。
一夜で千人もの北方蛮族を皆殺しにした姿は、今もムルグスの脳裏に焼きついている。
北海から流れ着いた流氷は赤く染まり、港を文字通り血の海に変えた。
国はこの事件の事実を捻じ曲げ、月影の騎士北部部隊による北方蛮族撃退と発表。
「奴は間違いなく次期月影の騎士団長だった。しかし、この事件のことで辞退したという噂もあるほどだ」
ムルグスが熱い珈琲を飲み干す。
「糸使いか……。奴にはもう一つの名がある……」
大きく息を吐くムルグス。
熱い珈琲を飲んでもなお、全身から冷たい汗が吹き出す。
言葉にするにもはばかれるほどの恐怖。
極一部の裏の世界にだけ知られている異名。
「……首落としのマルディン」
そう、マルディンは北方蛮族千人の首を一人残さず落とした。
糸で。
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