第81話 独身おっさんの悩みごと
目の前に広がる青空。
夏よりも明らかに空が高くなっている。
俺はゆっくりと流れる雲をただ眺めていた。
「もう秋なのか。まだ暑いけどなあ」
波の音が聞こえ、風が潮の香りを運ぶ。
今日は特に予定もなく、朝から港で釣りをしていた。
といっても、俺は堤防の上に寝転んでいるだけだ。
「どうせ何も釣れん」
竿立てに置きっぱなしの竿は見る必要もない。
朝から一度も動かないからだ。
まあ別に魚を釣るのが目的ではないから構わない。
ずっと考えごとをしていた。
祖国を追放され、この町に引っ越してきて半年以上経過。
のんびり暮らしていきたい俺にとって、この町は最高だった。
美味い料理、温かい人々、なんだかんだとCランク冒険者を許容してくれるギルド。
このままここで暮らしていきたい。
しかし、最近はBランク取得を期待されている。
俺としても、アリーシャやラミトワがBランクを取得したことで、盛り上がりを見せるギルドに水を差したくない。
だが、俺には一つだけ懸念点があった。
この町の人たちには知られたくない俺の経歴。
活躍したことで俺の過去が知られたら、この町にいられないだろう。
そして、俺の冒険者試験の結果が改ざんされていた理由も気になる。
「くそっ。悩むことが多いぜ」
そして、目の前の問題を解決しなければならない。
これこそが現時点で最大の問題だ。
「夕飯……何にすっかな」
飯を考えるのは大変だ。
一人暮らしを始めて痛感した。
青かった空が、徐々に黄色く染まる。
そろそろ夕焼けが始まる頃だ。
魚は釣れないし、真剣に夕飯を決めねばならない。
まあ釣ったところで料理なんてできないが。
「何か釣れた?」
「ん?」
顔を上げ、声の方向に視線を向ける。
「なんだ、フェルリートか。今日はダメだな。何も釣れんよ」
声をかけてきたのはフェルリートだった。
「なんだってなによ」
怒河豚のように頬をふくらませるフェルリート。
俺は身体を起こした。
「あっはっは。すまんすまん」
「よいしょ」
フェルリートが俺の隣に座り、海を指差す。
「ほら見て。季節の変わり目でいい潮が流れてるんだよ。これならたくさん釣れるってば」
「よく分かるな」
「この町の人なら皆分かるよ?」
「俺にはまだ難しいな。あっはっは」
「そっかー、まだ半年かー。でもマルディンって、ずっとこの町に住んでたみたいだね。ふふ」
フェルリートが竿へ視線を向ける。
「ちょっと竿がかわいそうかな。あんなに良い竿なのに」
俺の竿は、この町の竿職人が作った業物らしい。
以前、漁師ギルドのイスムからもらったものだ。
「でもさ、どうせ釣りが目的じゃないんでしょ?」
両足を揃え、両手で膝を抱えて座るフェルリート。
その膝に顎を乗せ、上目遣いで俺を見つめていた。
「お見通しか」
釣れないからこそ、考えごとには釣りが最適だった。
「なあ、フェルリート」
「なあに?」
「夏は終わりか?」
「そうだね。秋の風に変わったよ。言葉にすると、なんだか寂しいね。でも秋も楽しいよ?」
「そうか。ここは秋があるんだよな」
俺の故郷は短い夏が終わると、すぐに冬を迎える。
長く厳しい冬の始まりだ。
雪が積もり全てが凍る、美しくも残酷な白銀の世界。
「ねえマルディン。釣りはもうしないの?」
「そうだな。そろそろ引き上げるか。もう夕方だし」
「私がやってもいい?」
「ああいいぞ。でも釣れねーぞ?」
フェルリートが竿を持ち、糸を垂らす。
「釣れたよ?」
一杯の麦酒を飲むよりも早く、魚を釣り上げた。
「マ、マジかよ。さすがだな」
釣った魚の針を外し、海へ返すフェルリート。
右手に竿を持ち、左手を腰に当てながら、勝ち誇ったようなポーズで俺に視線を向ける。
「へへ。どう? 凄いでしょ?」
フェルリートが笑顔を見せた。
その微笑みはギルドで最も可愛いと評判だ。
海に反射する光を浴びて、輝いて見えるフェルリート。
「ってか、何で港にいるんだ?」
「仕事の帰りに、魚を買って帰ろうと思ったの。そしたらマルディンが寝てたから驚いちゃった。ふふ」
「なるほどね」
「マルディンの夕飯は? 魚釣れてないでしょ? どうするの?」
「うっ。そうだな。俺も……魚買って帰るかな」
「あはは。釣りに来て、魚買って帰る人なんて初めて見たよ。あはは」
「うるさいよ」
「じゃあ、今日は一緒にご飯食べよ? 私が作るよ?」
「いいのか?」
「うん。一人分を作るより、二人分の方が美味しくできるもん」
料理ができない俺には全く分からない。
「よいしょ」
フェルリートが立ち上がり、衣類についたホコリを払う。
「じゃあ片づけちゃお」
「そうだな」
釣り道具を片づけ、竿を担ぎフェルリートと港の市場へ向かって歩く。
海から風が吹くと、潮の香りに混ざりフェルリートからいくつもの料理の匂いを感じた。
今日も一生懸命働いたのだろう。
年頃の娘だが、料理に香りがつくという理由で香水を使わないフェルリート。
仕事に対する姿勢には頭が下がる。
「お魚料理は何が食べたい?」
「何でもいいぞ」
「何でもいいが一番困るんだよね」
「でもなあ。フェルリートが作る料理は何でも美味いからな」
「本当に?」
「ああ。毎日食いたいくらいだ。あっはっは」
「別にいいよ?」
「今もギルドの食堂で毎日食ってるけどな。あっはっは」
「そういう意味じゃないんだけどなあ」
「ん? どういう意味だ?」
フェルリートが肩を俺にぶつけてきた。
「いて」
「バカ」
隣で上半身を少しかがめて、俺の顔を見上げるフェルリート。
「で、何が食べたいの?」
「そうだな。何でもいいよ」
「繰り返しじゃん! マルディンのバカ!」
「あっはっは」
「じゃあ市場で売ってる魚見て、私が決めちゃうからね!」
強い口調でも笑顔を見せるフェルリート。
しばらく歩くと、フェルリートが俺のシャツの裾を掴んだ。
「ねえ、マルディン」
「なんだ?」
「ずっとこの町にいてね」
「……もちろんさ。それより、お前こそ結婚して町を出るんじゃないか?」
「はあ? 私はこの町を出ません! ずーっといますー!」
「どうだかな。お前みたいなお姫様は、どこかの王子様があっという間に連れ去ってしまうんだよ」
「じゃあ守ってよ! マルディンがずっと守ってよ!」
突然、真剣な表情で迫るフェルリート。
「……そうだな」
「約束だからね!」
すぐに笑顔を浮かべ、俺の腕を引っ張った。
「じゃあ、今日は美味しいお魚料理作るね!」
「ああ、楽しみだよ」
この町は居心地が良い。
できることなら、ここで俺は残りの人生を過ごしたいと思っている。
「ほら、行くよ!」
フェルリートに連れられ、港の市場へ向かった。