第70話 麦わら帽子と季節の変わり目2
「い、行くぞ」
川にそっと足を入れる。
水深は膝くらいだ。
昨晩に降った雨の影響で川が濁っているため、少しずつ慎重に進む。
「くそ。徐々に深くなる」
すでに腰まで浸かった。
だが、あと五十セデルトも進めば、糸は海緑樹に届く。
すると、突然川底に足がつかなくなった。
一気に深まる水深。
「溺れっ!」
俺はとっさに糸を発射。
「うおおおお!」
海緑樹にかかった手応えを感じ、無我夢中で糸を巻き取る。
飛沫を上げながら身体が宙に浮く。
そのまま対岸に着地。
「はあ、はあ。な、何とか渡ったぞ。死ぬかと……思った」
胸のあたりまで完全に濡れている。
だが、歩いていれば乾くだろう。
俺は大きく深呼吸し、気持ちを落ち着かせた。
「ふうう」
ここからはカーエンの森だ。
しかも汽水域の森は、独自の食物連鎖が形成されており、モンスターとの遭遇率が一気に上がる。
「待ってろよ! 爺さん!」
俺は森の内部へ入った。
広大なカーエンの森は、大きく三つの地域に分けられている。
山間部、平野部、汽水域だ。
生息する動物やモンスターは異なるが、中にはどの地域にも姿を見せるモンスターもいる。
すでにDランクモンスターの毒大蜥蜴や毒甲百足に遭遇している。
襲ってくることはなかったので、刺激しないようにそのまま素通りした。
「この風に流されたら、どこまで飛ぶのか分からんぞ」
森の中は風の影響が少ない。
だが上空に目を向けると枝は大きく揺れ、葉が舞っている。
風向きを確認しながら森を進む。
「お、あの木を使うか」
森の中から頭一つ抜き出た大木を見つけたので、糸巻きで太い枝に登り、高所から森を見渡した。
この青々と茂った森で、茶色い麦わら帽子は探しやすいだろう。
「ん? あれか?」
一本の海緑樹に、枯れ葉のようなものが見えた。
単眼鏡を取り出す。
「爺さんの麦わら帽子だ。ここから三百メデルト。方角は……」
方位計に視線を落とす。
「北だ。風で飛ばされる前に助けるぞ」
足元の太い枝に糸を巻きつけ、地上へ下りる。
そして糸を巻き取ると同時に北へ急いだ。
――
「ふう、ふう。あの木だ」
帽子が引っかかった海緑樹に到着。
このまま回収したいところだが、海緑樹の幹に大きな影が見えた。
見覚えのある巨体。
黒い体毛。
「大爪熊!」
Cランクモンスターの大爪熊だ。
二本足で立ち上がり、幹によりかかりながら、腕を伸ばして枝に引っかかった麦わら帽子を取ろうとしている。
「くそっ! よりによって大爪熊かよ!」
大爪熊は体長三メデルトの中型モンスターだ。
性格は凶暴で残忍。
狙った獲物に異常なまでの執着心を見せる。
それに大爪熊の大爪で帽子を触れば、穴だらけになってしまう。
あれは爺さんだ。
そんなことはさせない。
大爪熊は両腕で幹を叩きつけ、枝を大きく揺らし、帽子に向かって腕を伸ばす。
爪先の高さは五メデルトに到達している。
鼻息荒く、興奮している様子だ。
俺は大爪熊まで十メデルトの距離に近づき、左手で長剣を抜く。
「それはお前の物ではない」
モンスターに言葉なんて通じないが、こちらに注意を向けさせる。
大爪熊が振り返った瞬間、右腕の糸巻きを発射。
以前よりも遥かに使いやすい糸巻き。
少し捻りを加えるだけで、糸を自在に操ることができる。
鞭のようにしならせ、見事に鼻の先端を撃ち抜いた。
「ゴウッ!」
両手で鼻を抑える大爪熊。
これで俺を標的にしただろう。
「グゴオゥゥゥゥ」
こんなもので大爪熊にダメージを与えることはできないが、思惑通り俺に殺意を向けた。
一切の躊躇なく、四足歩行で一気に間合いを詰めてくる。
「くっ! いきなりすぎんだろ!」
俺に向かって飛びかかり、高速で右腕の大爪を振り下ろす大爪熊。
俺はとっさに両手で剣を構え、大爪を防御。
四角竜の大角で作られている俺の剣。
大爪と大角がぶつかる鈍い音が響く。
これまで金属の剣しか使ったことのない俺には、少し違和感を覚える音だった。
「刃こぼれは……ない!」
大爪熊は間髪をいれずに左腕を振り下ろす。
俺はとっさに右手で剣を持ち、左斜め下から剣を振り上げた。
交差する大爪熊左腕と、俺の剣。
「グガオォォォォォォ!」
大爪熊の悲鳴が森に響くと同時に、硬い毛皮で覆われた左腕が宙を彷徨う。
肘から先の左腕を失った大爪熊が、身体を大きくのけぞらす。
俺はその隙を逃さず、右から左へ剣を水平に振り抜く。
「この切れ味はヤバいな」
大爪熊の動きが止まった。
完璧な手応えだ。
「刃こぼれもない」
刃を確認し剣を鞘に収めると、大爪熊の太い首が、鈍い音を立て地面に転げ落ちた。
「この剣なら肉でも骨でも余裕で切れるぞ。凄いなんてもんじゃないな」
首を失った大爪熊の胴体がゆっくりと倒れる。
衝撃で辺りの木を揺らし、吹き出した血は草木を赤く染めた。
「おっと。おかえり、爺さん」
大爪熊が倒れた振動で、帽子が宙を舞いながら落ちてきた。
俺はそっと抱える。
「爺さん、すまない。待たせたな」
無事に爺さんを助けることができた。
「後でパルマに事情を説明して、死骸は回収してもらおう。まあ、やむを得ない事情で処罰なしになると思うがな」
冒険者は許可なくモンスターを狩猟してはならない。
だが、やむを得ない事情の場合は許される。
まあ仮に処罰があっても構わない。
ルールは大切だが、俺にとってはそれ以上に人の想いの方が重要だった。
俺は麦わら帽子を抱え、スミリ婆さんの自宅へ急いだ。