第234話 穢れた海の矜持2
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「くああ、ようやく帰ってきたぜ」
巨大なガレオン船の船尾に設けられた一室。
ひときわ豪華な装飾が施されたこの艦長室で、高級な椅子に深く座り、精巧な細工が施された机に両足を乗せる男。
船の揺れに合わせながら、椅子の前脚を宙に浮かしている。
両手を頭の後ろで組み、背もたれに身体を預けているが、どんなに船が揺れようと決して倒れない。
その様子はまるでサーカスの曲芸だ。
驚異的なバランス感覚と体幹を持つこの男こそ、夜哭の岬の七組織が一つ、凪の嵐の提督アッディだ。
部下たちに大渦の航海を任せ、呑気に艦長室でくつろいでいる。
アッディの年齢は三十五歳と中年ながら、引き締まった肉体に端正な顔立ちを持つ。
黒い短髪と程よく焼けた肌も相まって、爽やかな海の男に見えるが、漁師たちから蛇蝎のごとく嫌われている海賊だ。
「喉乾いたな」
アッディは立ち上がり、愛用の銀カップを手に取る。
蜜黄玉と黄檸玉の果汁に蜂蜜を入れた飲料を注ぎ、一気に飲み干した。
このカップは、敬愛する夜哭の岬の老師から賜ったものだ。
そして再度、椅子に揺られる。
「て、提督!」
一人の船員が、艦長室の扉をノックした。
「あ? なんだ? 入っていいぞ」
艦長室の扉は丁寧に扱わなければならない。
船員は焦りながらも、静かに扉を開けた。
「七番艦が!」
「七番艦? サベーラがどうした?」
「今、外海に出ようとしているのですが、信号旗が!」
「待て待て待て。落ち着いて話せや。意味が分からん」
この船員も意味は分かってない。
ただ、状況を説明すると、支離滅裂になってしまう。
「凪の嵐を離脱する意味の信号旗を上げています」
「は? 離脱? なんじゃそりゃ?」
「わ、分かりません。しかし、そういう組み合わせになっています」
「おいおい、サベーラが抜けるわけないだろう? あのおっさんは人一倍生きることにしがみついてるんだぜ?」
「し、しかし……」
困惑する船員の表情を見つめ、アッディは大きく溜め息をついた。
船員たちが、自分に冗談や嘘を言うわけがないことを知っている。
「ちっ、わーったよ」
アッディは気だるそうに椅子から立ち上がり、愛用の武器を腰に吊るした。
甲板に出ると、右舷前方に外海へ向かう七番艦の姿を確認。
その距離は約二百メデルトだ。
海賊とはいえ海の男であるアッディの視力は、信号旗の意味を容易に捉えた。
「おいおい、マジじゃねーかよ。あいつに何があったんだ?」
「提督、どうしますか?」
操縦桿を握る副艦長が、アッディに指示を仰ぐ。
「大渦を避けて、向こうの潮に入れ。七番艦に横づけしろ。できんだろ?」
「え? は、はい! やります!」
できないとは言えない副艦長。
七番艦を追うことは、この大渦を生む潮を横切ることになる。
今までやったことなどない。
だが、やらねばアッディの機嫌を損ねる。
「七番艦を追う! 裏帆を打て!」
「裏帆を打て!」
副艦長の指示を甲板長が復唱。
操舵輪を回転させた副艦長は、船員たちに様々な指示を出していく。
船員たちは全力でロープを握り、指示通りに細かく帆を動かした。
「死ぬ気で張れ!」
甲板に怒号が飛ぶ中で、巨大なガレオン船が大渦を避けながら、外海へ流れる潮に乗り移った。
そして、七番艦に追いつかんと、徐々にスピードを上げていく。
船員たちの必死の操作によって、一番艦は七番艦との十メデルトの距離まで近づいた。
「おしおし、やりゃーできるじゃねーか。おめーら、あとで酒を奢ってやるぞ」
アッディは上機嫌で副艦長に声をかけ、腰から武器を取った。
「んじゃ、サベーラに聞いてきてやる」
アッディは舷墻に向かって歩き始めた。
――
「艦長! ダメだ! 一番艦の足が速い!」
「くっ! 逃げ切れ!」
サベーラの指示で、船員たちは必死に帆を操作する。
船員たちの手のひらは、これまで何万回とロープを握ってきたことで常人の三倍以上の厚さを持つ。
それでも手のひらから血が滲む。
肉体の限界を越えても、帆を操作しなければならないことを知っていた。
「な、並ばれる!」
左舷に向かって逃げる七番艦だが、一番艦は右舷後方から弧を描くように大外を回り込む。
そしてついに、十メデルトの距離で並行に並んだ。
とはいえ、この距離であれば七番艦へ乗り込むことはできない。
まだ望みはある。
サベーラは少しでも一番艦と距離を開けるために、操舵輪を回した。
「おーい、お前ら何やってんだ?」
突然七番艦の甲板に姿を現したアッディ。
驚く船員たちは、思わず手が止まる。
「て、提督!」
「逆帆を打って停泊させろ」
提督に逆らうわけにはいかない船員たちは、指示に従うしかなかった。
アッディは、そのまま操縦室へ向かう。
「おい、サベーラ」
「ア、アッディ提督!」
「さっきの信号旗の意味は何だ?」
「い、いや」
「なんだよ。言えねーのかよ?」
アッディには嘘も言い訳も通用しないことを知っているサベーラ。
正直に言うしかない。
「そ、その……。俺たちは……凪の嵐から足を洗います」
「はあ? なに言ってんだよ。んなことできるわけねーだろ。お前は一生海賊だ」
「ま、まっとうに生きたいんです」
「無理無理無理。お前らみたいなクズどもは凪の嵐でしか生きていけない。だから俺が庇護してやってんだろ」
「俺は……やり直したいんだ」
サベーラの言葉を聞き、不審に思うアッディ。
アッディが知ってるサベーラは、こんなことを言う人間ではなかった。
サベーラの態度に苛つきを覚える。
「てめえ、誰かにそそのかされただろ? てめえが自分でそんなこと言うわけねえんだよ」
「だ、誰でもいいだろ!」
「おいおい、どうしたんだよ?」
サベーラの態度が急変したことに驚くアッディ。
サベーラは従順で、生きるためには何でもする男だ。
アッディに歯向かえばどうなることくらい知っているはず。
「麻薬でも飲んだんか? あ、イスラんとこのビッツは全部焼けたっけ」
左手を腰に当てながら、独り言を呟くアッディ。
「もしかして、あそこの新しい毒ってやつか? いや、あの毒を飲んだら死んじまうもんな」
アッディは甲板を見渡した。
船員たちが集まって、不安そうな表情を浮かべている。
「なあ、こいつらも一緒か?」
「そうです。俺たちは足を洗う」
「ダメだと言ったら?」
「ち、力ずくでも……」
サベーラは恐怖で足がすくみながらも、腰の三日月剣を抜いた。
それが合図となり、船員たちも一斉に剣を抜く。
鞘を擦る甲高い金属音が甲板に響き渡った。
二十人以上が剣を抜き、アッディに刃を向けている。
だが、アッディには焦りも恐怖もない。
「おいおい、サベーラ。マジで教えてくれよ。理由は何だ?」
「お、俺たちは生まれ変わるんですよ」
三日月剣を握る右手が震えるが、サベーラはそれを左手で強く抑えた。
その様子を見たアッディが、「ほう」と感嘆の声を漏らす。
「生まれ変わる……か。お前らにできんのか?」
「できます!」
「お前らみたいなクズが更生するなんて、生半可なことじゃねーぞ」
「やります!」
「世間はそう簡単に許しちゃくれねーぞ。つれー道だぞ。その覚悟はあるのか?」
「あります!」
サベーラの意思は変わらない。
決意を胸に、強い眼差しでアッディを見つめた。
アッディは、しばらくサベーラの瞳を見つめ返し、周囲の船員たちにも目を向けた。
皆、サベーラと同じように覚悟を持った表情を浮かべている。
「ちっ、しゃーねーな。分かったよ。お前たちがそこまで言うなら許してやるよ。ったくよう」
「すみませんね」
「いや、いいって。仕方ねーもん。それにしてもいい言葉だな、生まれ変わるって。お前ら全員生まれ変わって、しっかり頑張れよ」
根負けしたアッディは、左手を腰に当て、これまで可愛がってきた部下たちに笑顔を見せた。
そして、門出を祝うかのように右腕を振った。
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