第222話 海の魅力と恐ろしさ2
翠玉の威風は暗闇の海を進む。
甲板は篝火を焚いているため明るいが、当然ながら水平線は見えない。
とはいえ、満天の星明かりは、波打つ海面を映し出す。
黒い海に白い飛沫が幻想的だ。
「よくこんな暗い中を正確に進めるな」
船乗りは、羅針盤と星の位置を頼りに航海する。
俺も飛空船の操縦免許証を持っているため、方角の計測方法は知っている。
だが、地上を見渡せる空と、周囲に海しか見えない船乗りでは力量が違う。
もし俺が船乗りなら、絶対に位置を計測できない。
「まあ俺は海に出ないがな。はは」
そんなことを考えながら、俺は甲板のベンチで潮風に当たりながら海を眺めていた。
船釣りに慣れた娘たちは、漁場に着くまで仮眠を取っている。
俺は不安と興奮で珍しく眠れなかった。
甲板にいるのは船を操作する数人の漁師と俺。
そこへシャルクナが姿を見せた。
「マルディン様、ありがとうございます」
俺の前に立ち、一礼するシャルクナ。
「ん? なんのことだ?」
「私が釣りをしてみたいと言ったばかりに……」
「あー、気にすんな。ティルコアに来たら通過儀礼みたいなもんだ。それに泳げない俺とは違い、シャルクナは自ら釣りをしたいと言ったんだ。漁師たちは嬉しかっただろうよ。だからイスムがこの漁船を出したんだし」
「感謝しております」
「今日はメイドを忘れて楽しんでくれよ。はは」
今のシャルクナは、さすがにメイド服ではない。
海を舐めてない証拠だ。
動きやすそうな細身の青いパンツに、白い長袖のシャツを着ている。
俺はシャルクナを隣に座るように促した。
「シャルクナ、船酔いは大丈夫か?」
「はい……」
シャルクナが小声で返事をしながら、周囲を確認している。
そして俺の耳に少しだけ、その小さな顔を近づけた。
「潜入任務で船に乗ることもありましたから」
「なるほどね。慣れてるのか」
「はい。それに、レイリア様の酔い止め薬も飲みましたので、問題ございません」
シャルクナの長髪が海風に流れる。
右手で青紫色の髪を耳にかけながら、俺に視線を向けた。
「あの……、マルディン様。レイリア様は医師ですよね?」
「ああ、腕のいい医師だ。ありがたいことに、俺の主治医をやってくれている。いつも怒られるけどな。はは」
「レイリア様は……その……美しすぎませんか?」
「ん? まあ、そうだな。俺もそう思うよ」
俺は世界三大美女のお二人にお会いしたが、確かにレイリアの容姿はお二人と同格だ。
「レイリア様だけではなく、フェルリート様もアリーシャ様も、マルディン様の周りは皆様美しい方ばかりです」
「確かにそう言われるとそうだな。でもなんというか……彼女たちだけではなく、真面目に一生懸命生きてる人は、みんな美しいと思うんだ。それは別に若い娘だけじゃなく、老若男女全ての人がそうだ。ティルコアの住民はみんな美しい。人は生き様が顔に出るからな。もちろんシャルクナだって美しいぞ。あっはっは」
「え?」
シャルクナが切れ長の瞳を見開き、俺を見つめている。
揺れる篝火の光が、その頬を紅く染めていた。
「あなたたち、何してるの? 初夏とはいえ夜の海は冷えるわよ」
「レイリアか」
レイリアが甲板に姿を見せた。
「ちょうどレイリアの話をしてたんだ」
「私の? 何よ、どうせまた文句ばかり言ってたんでしょ?」
「おいおい、これまでも文句なんて言ったことないぞ?」
「本当に?」
「本当さ」
「ふーん、そういうことにしてあげる」
レイリアが隣に座った。
手にはポットを持っている。
「珈琲飲む?」
「ああ、ありがとう」
「ねえ、船酔いは大丈夫?」
「今のところはな。薬が効いてる」
「良かったわ。でもこれからよ。外洋に出たら揺れるから気をつけてね」
レイリアから珈琲カップを受け取った。
立ち昇る湯気が、潮風に流されていく。
「はい、シャルクナさんも」
「あ、ありがとうございます」
レイリアからカップを受け取ったシャルクナ。
「お二人は……夫婦みたいですね」
「ぶー! お、おい! なに言ってんだよ!」
シャルクナの突然の言葉に、俺は思わず珈琲を吹き出してしまった。
「もう汚いわね。ほら、拭きなさいよ」
レイリアがハンカチを取り出した。
「いやだって……。す、すまん」
ハンカチを手に取り、俺は口の周りを拭く。
そして口直しとばかりに、もう一度カップに口をつけた。
動揺した俺とは反対に、レイリアは落ち着き払った笑顔でシャルクナを見つめていた。
「ねえ、シャルクナさん。そう見える?」
「はい。失礼かとは思ったのですが……」
「失礼? 嬉しいわよ。うふふ」
「レイリア様は、その……嫌ではないのですか?」
カップを持つ手を膝の上に乗せ、レイリアが俺に視線を向けた。
「ええ、だって私はマルディンが好きだもの」
「ぶー! お、おい!」
「ちょっと。あなたさっきから汚いわよ」
「お、お前らが変なこと言うからだろ!」
レイリアがもう一度ハンカチを取り出した。
「まったく……。でもね、シャルクナさん。私だけじゃないのよ。マルディンを知る人たちは、みんなマルディンのことが好きなのよ。この町の人は大体そうよ。うふふ」
「確かにそうかもしれませんね」
俺は残り僅かになった珈琲を飲み干し、レイリアにカップを返した。
「この話はもう終わりだ!」
ベンチから立ち上がり、舷墻に近づく。
そして、舷墻の手すりを掴み、東の空を眺めた。
「あらあら、マルディンが逃げたわよ」
「恥ずかしいのでしょうか?」
二人の話す声が聞こえたが、完全無視を決め込んだ。
東の空が薄っすらと赤紫色に染まっている。
そろそろ夜明けだ。




