第218話 港に来た商人6
◇◇◇
ティルコアの港から南に数キデルト離れた海岸付近を、一隻の漁船がゆっくりと進む。
まだ日が昇る前だが、松明を焚いていない。
星明かりだけを頼りに岸へ接近する漁船。
操縦しているのは漁師のフスニ。
若手とは言え、さすがはティルコアの漁師だ。
暗がりの中、慣れた手つきで船を岸につけた。
穏やかな波の音が船を包む。
「お待ちしてましたよ、フスニさん」
麻のスーツを着る長身の痩せた男が、フスニに声をかけた。
この男はフスニから岩虎魚を買い取る商人だ。
外道と呼ばれ、漁師から忌み嫌われる岩虎魚を、一匹銀貨一枚という超高額で買い取る。
フスニは無言で船のいけすから、二匹の岩虎魚を取り出した。
それを木箱に入れ、岸に下ろす。
「おや? 今回は二匹ですか? 少ないですね」
「悪いが……もう最後にしたい」
「最後? どういうことですか?」
「言葉通りだ。岩虎魚はもう売らない」
フスニは足元の毒魚に視線を向けた。
「いくら薬の研究とはいえ、猛毒の岩虎魚を売ることはできない」
フスニは薬の開発と信じているが、実際の用途は違う。
「岩虎魚の売買は、別に法令違反ではないですよ? この薬で助かる人たちがたくさんいるのです」
「漁師ギルドのルールには違反している。それによく考えてみたら、俺みたいな個人の漁師に声をかけるのはおかしい。それほどの薬を開発するなら、ギルドと契約すべきだ。そしたら喜んで岩虎魚を獲るよ」
「おやおや、誰かに入れ知恵でもされたのですか?」
「そんなことはない。だが、冷静に考えれば……」
「今まで散々贅沢したのに戻れるのですか? また貧乏漁師に戻るのですよ?」
商人は強い口調でフスニの言葉に被せた。
フスニは勇気を振り絞り、商人の顔に視線を向ける。
「そ、そりゃ金は欲しいさ。だけど、これ以上はもうできない。金は使っちまった分も含めて返す」
「あなたに返せるのですか? 金貨十枚以上ですよ?」
「必ず返す」
「なるほど、意思は強いようですね。しかし、今さら後戻りはできませんよ? まだまだ獲ってもらわないと困ります」
「そ、それは申し訳ないと思っている。だから金は必ず返す」
「それでは、今月中に全額返済してください」
「な! む、無理だ!」
「じゃあ獲るしかないですね。返済しなければ借金となり、瞬く間に膨れ上がりますよ?」
「そ、そんな……」
商人はフスニを手放すつもりはない。
岩虎魚を獲るだけならフスニの言う通り、漁師ギルドに話を通せば済むし、別の町の漁師や、ただの釣り人に声をかければいい。
そのほうが大量の岩虎魚を仕入れることができる。
だがこの商人は、ティルコアの漁師を囲うことが目的だった。
フスニから始めて、徐々に人数を増やしていく。
そして、ゆくゆくは新たな組織を作る。
その組織を犯罪組織の企業舎弟とすることで、犯罪の隠れ蓑にして、ティルコアに裏社会を作り上げる。
それがこの商人の真の目的だった。
「もう岩虎魚は獲れない。申し訳ない」
フスニは深く頭を下げた。
「ここまで来て戻れるわけないだろう! 貴様は漁師ギルドから追放だぞ!」
突然、商人が大声を上げた。
すると、付近に停めてあった馬車から、四人の男が姿を現す。
フスニを囲むように立ちはだかった。
「お、お前ら、なんだよ!」
フスニが声を上げながら身構える。
「貴様はもう我が組織の一員だ。知らなかったなんて言い訳は通用せん」
「組織だって?」
「今回の毒薬の開発で、最も功績を上げたのは貴様だ、フスニ」
「ど、毒薬?」
「貴様は犯罪に手を貸したんだ」
「な、なんだと!」
「当局に見つかったら貴様は死罪だぞ? ぐははは」
商人がついに本性を現した。
これまでの低姿勢から、一気に高圧的な態度へ変化する。
「夜明け前から大声出すなよ」
「だ、誰だ!」
背後から聞こえた声に驚いた商人が、すぐさま振り返った。
◇◇◇
東の空が、薄っすらと赤紫に染まる。
そろそろ夜が明ける頃だ。
俺はライールに跨り、後ろにグレクを乗せ、町外れの海岸へ向かっていた。
「おい、グレク。場所は合ってるのか?」
「ああ、密猟するならあの岸だろう。暗がりでも船をつけることができる場所だ」
目的地から少し離れた場所でライールから降り、海へ向かって歩く。
すると、一台の馬車が停車していた。
さらに進むと、フスニを囲むように五人の男が立っている。
「……当局に見つかったら貴様は死罪だぞ? ふははは」
スーツを着た男が大声で笑っていた。
高圧的な笑い声に、自然と苛つきを覚える。
「夜明け前から大声出すなよ」
「だ、誰だ!」
フスニを取り囲む五人の男が、一斉に俺を振り返った。
状況は分からないが、フスニに危険が及んでいるのは確かだ。
「おい、グレク。フスニの船に乗って港へ行け」
「お、お前はどうするんだ?」
「こいつらと話をする」
「き、危険だ!」
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ?」
「そ、そうだったな。元騎士のAランク冒険者だもんな」
「そういうこった。早く行け」
「わ、分かった」
グレクがフスニの元に進むと、取り囲んだ男たちが腰の剣に手をかけた。
「待て!」
スーツの男が右手を挙げて制する。
そして俺の顔に視線を向けた。
「元騎士のAランク冒険者……。まさか……」
スーツの男が呟いている。
もし、男たちが剣を抜いたとしても、不幸な結果にしかならなかっただろう。
このスーツの男の判断は間違っていない。
「お前ら変な動き見せるなよ? ほら、二人とも早く行け」
グレクとフスニが急いで船に乗り込み、離岸した。
もう安全だろう。
俺は五人の男たちを見渡す。
「さて、話を聞こうか。それとも剣を抜くか? どちらでもいいぞ?」
東の空が紅く染まり、日の出の準備をしている。
スーツの男は動けず、額から汗を流す。
その額に、翠玉色の海を紅く染める朝焼けの光が反射していた。
「てめえ! ぶっ殺す!」
「ま、待て!」
スーツの男の制止を聞かず、一人の男が三日月剣を抜いた。
「抜いたか……」
俺は左腕を小さく回した。
男が振り上げた三日月剣が、腕ごと宙に浮く。
そして、残った腕から吹き出る血が、紅く染まる空と同化した。
「ぎゃああああああ!」
一足早い日の出のように、紅い鮮血が舞う。




