第213話 港に来た商人1
◇◇◇
南海で温められた湿度と潮の香りを含んだ風が、春の終わりを告げる。
この地方特有の超大型台風、火を運ぶ台風の発生まで、まだ少しの猶予があった。
火を運ぶ台風が通過すると、本格的な夏が始まる。
「くそ! 今日も外道ばかりだったぜ!」
ティルコアの漁師、フスニが朝まずめの漁を終え帰港した。
フスニが叫んだ外道とは、狙った魚以外のことだ。
フスニの漁は沿岸漁業で、昔ながらの釣り漁を行っている。
狙いは銀班鯖、青石魚、棘白鯛だ。
夏になれば旬の大剃鯵も狙う。
フスニは三十代前半だが、漁師の中ではまだ若手に入り、漁獲量はそれほど多くない。
「こうも岩虎魚ばかりだと、金にならんぞ」
嘆くフスニ。
それもそのはず、ここ一週間は毒魚で知られている岩虎魚ばかりが釣れていた。
猛毒を持つ岩虎魚は食用にならない。
もし間違って食べたら人は簡単に死ぬ。
だが、マルソル内海の港町では、岩虎魚を知らずに食べてしまう死亡事故が度々発生する。
ティルコアも例外ではない。
そのため、ティルコアの漁師ギルドでは、漁師が岩虎魚を漁獲した場合は破棄が許されず、漁師ギルドが買い取り、厳格に扱われ処分される。
しかし、買取の価格は低い上に、岩虎魚を漁獲すると、船の積載量は圧迫されてしまう。
漁師によっては、誰も見てないからと海に捨てる者もいるほどだ。
岩虎魚は、漁場を荒らす牙猫鮫と共に漁師たちから忌み嫌われていた。
フスニが船から木箱を下ろす。
岩虎魚だけを入れた木箱を、少し乱暴に扱っていた。
「あの、すみません」
「なんだ?」
一人の男がフスニに声をかけた。
「その岩虎魚を売っていただけませんか?」
「岩虎魚を?」
「はい」
男は麻のスーツを着ており、身なりはいい。
身長は高く、痩せ細った体格だ。
「見かけん顔だが?」
「はい。私は内陸から来た商人です。実は岩虎魚を探しています」
「岩虎魚? あんな毒魚を? 食えないぞ?」
「薬の研究で使用するために、ある研究機関が必要としています。もし岩虎魚をお持ちでしたら、一匹銀貨一枚で売っていただけませんか?」
「は? ぎ、銀貨一枚だと!」
ギルドの買取価格は銅貨一枚だ。
銀貨一枚は銅貨百枚と同等、つまり買取価格は百倍にもなる。
旬の魚、大剃鯵でも銀貨一枚の値はつかない。
「そ、そんな大金で買い取るのか?」
「はい。漁師ギルドでは岩虎魚の買取価格が銅貨一枚ということも知っています。その上で、この金額で買い取りさせていただきます」
フスニはこの商人が相場を知らないと思っていたが、それを踏まえた買取価格だった。
あまりの金額に、フスニは生唾を飲み込む。
岩虎魚が入った木箱を指差すフスニ。
「岩虎魚は十匹いるが?」
「そうですか! では十匹分の金貨一枚をお支払いします!」
一人で釣り漁を行うフスニにとって、金貨一枚は月収の三分の一だ。
この憎むべき外道十匹で、それほどの収入を得ることができる。
心が揺れるフスニは、額から流れる汗にも気づかない。
「ダ、ダメだ。ギルドのルールを違反したら、しばらく漁ができなくなる。それどころか漁師ギルドから追放されるかもしれん」
「絶対にバレません。今だって誰も見てないです。この袋に入れるだけです」
商人が麻袋を広げた。
「この袋に岩虎魚を入れるだけで、今すぐ金貨一枚が手に入るのですよ?」
「い、いや……でも」
「大丈夫です。絶対にバレません。あなたは誰とも会ってない。そして、今日は岩虎魚を釣り上げてない」
麻袋を見つめるフスニ。
良心と欲が戦っている。
「実はもっと大量に必要でして、もし今後も岩虎魚を売ってくださるのであれば、今回だけ特別に金貨三枚をお支払いします」
「さ、三枚!」
「はい。もちろん次回以降も一匹銀貨一枚でしっかりと買い取ります。いかがですか?」
「だ、だが……」
「そうですか。では、別の方に当たってみますね。残念です」
商人が麻袋をたたみ始めた。
「ま、待て!」
その言葉を待っていた商人は、僅かに口角を上げ、金貨三枚が入った革袋を取り出した。
◇◇◇
俺は早朝トレーニングを終え帰宅した。
「ただいま」
「おかえりなさいませ、マルディン様。お早いお帰りですね」
「ああ、今日は市場の食堂が休みだったんだよ」
早朝トレーニングの日は、港の市場にある漁師相手の食堂で朝食を取っていた。
「も、申し訳ございません。朝食は不要かと思い、用意しておりません」
「いいって、大丈夫だよ。っていうかさ、いつまでメイドやるんだ? 家のことはありがたいが、誰もいない時は自由にしてくれよ」
「いえ、一年間はメイドとして働きます。契約ですから」
「はあ、分かったよ。だけど、無理はするなよ。楽にしていいからな」
「はい、ありがとうございます」
シャルクナは相変わらず真面目だ。
シャルクナがこの町に来て、一ヶ月が経過した。
当初一ヶ月を試用期間としていたが、メイドとしての仕事は完璧で全く問題ない。
それに住民たちとも良好な関係を築いていた。
文句のつけようがない。
まあ、そもそも一流の諜報員だ。
潜入は得意なのだろう。
「なあ、シャルクナ。朝食は取ったか?」
「いえ、私もまだです」
「じゃあさ、一緒に飯を食いにいかないか?」
「え? でも、いつもの食堂は閉まっていたんですよね?」
「他にもあるんだよ。店じゃないけどな」
「店じゃない? どういうことですか?」
「まあ行けば分かるさ。馬を出すから支度してくれ」
俺はライールに跨がり、後ろにシャルクナを乗せて港へ向かった。




