第197話 呪いの絵6
ハルシャが手に持つ本を閉じた。
すかさずロルトレが受け取る。
ハルシャは小さく頷いてから、隣に立つ俺に視線を向けた。
「マルディン。分かったわ。この作者は百年前の画家で、名前はリメオルよ。この絵は残念ながら有名じゃないけど、いくつもの名作を残しているわ」
「リメオルだって?」
芸術に疎い俺でも、リメオルの名は聞いたことがある。
「『葡萄酒を持つ女』が有名よね」
「その絵は知ってる」
もう一度、絵を見つめるハルシャ。
「この女性の絵は画家のサインもないし、画集にも載ってないけど、筆使いは間違いなくリメオルね」
「分かるのか?」
「ええ、もちろんよ。だって、うちの美術館にあるもの」
「何がだ?」
「『葡萄酒を持つ女』よ」
「マ、マジか!」
「それと『兵士の祭り』や『碧の海』、他にも数点あるわよ」
幼い頃からそういった美術作品に触れていたのだろう。
この若さで恐ろしいほどの鑑定眼だ。
作者は分かった。
あとは毒の発生方法だ。
「ハルシャ様、マルディン様、お手数ですがこのマスクをして、窓際へ離れていただけますか?」
俺とハルシャは、ロルトレから防毒マスクを受け取った。
これから毒を発生させるのだろう。
「これは恐ろしく手が込んでおりまして、特定の素材が近くに寄ることで、毒が発生するように仕組まれています」
「なるほどね。それが葡萄酒か」
「はい。数ある葡萄の品種の中で、熟成した黒鉛葡萄だけが反応します。それも二十年以上の時が経っているものが必要でしょう」
「俺が飲んだ葡萄酒は二十年物で、ドルドグムが飲んだ真紅の森は三十年物だ。どちらも葡萄の品種は黒鉛葡萄だった」
「はい、仰る通りです。私も城から少しだけ持ってきています」
小さな透明な瓶に、赤黒い葡萄酒が入っている。
ロルトレは右手に持つハンカチで口を抑え、左手の瓶を絵に近づけた。
すると、絵の女の瞳が僅かに動いた。
いや、動いたというより、空気が揺らいだと言った方が正確だ。
「この瞳の顔料と黒鉛葡萄が反応して、猛毒のカロキシンを揮発させる仕組みです。カロキシンは少量でも体内に入ると頭痛、嘔吐、めまいを発症し、これを繰り返すと全身から出血します」
「やはり毒はカロキシンだったか。顔料の素材はなんだ?」
「華緑石でしょう。華緑石を加工すると、とても発色の良い碧色になります」
「なるほど。しかし、華緑石自体に毒はないはずだが? どこからカロキシンが発生するんだ?」
「それは……」
ロルトレがハルシャに対して一礼すると、ハルシャは緊張した面持ちで表情を引き締めた。
ロレルトはハルシャに説明させたいのだろう。
応えるようにハルシャが小さく頷いた。
「この顔料は、華緑石とカロキシンを混ぜてるのよ」
「華緑石にカロキシンが混ざるのか? いや、混ざったとしても揮発しないだろう?」
「マルディン。カロキシンを持つ生物で、最も有名なのは?」
「岩虎魚だ。ティルコアでたまに見かける毒魚だよ」
「ええ、その通りよ。カロキシンの中でも、岩虎魚が作る毒は特に親和性が高く、何にでも溶け込むのよ。それとは逆に、華緑石と黒鉛葡萄の成分は反対の性質を持っていて、お互いを壊し合うの。黒鉛葡萄の酸が華緑石を溶かしたことで、混ざっていたカロキシンが揮発したんだわ」
「手が込んでるな」
「リメオルは研究者でもあったのよ。素材や毒に詳しかったはずよ」
ロルトレが満足げな表情を浮かべている。
毒王と呼ばれるロルトレが否定しないということは、ハルシャの言う通りなのだろう。
この年齢にして、この博識には驚くばかりだ。
それにしても、顔料に毒を入れる意味が分からない。
毒を入れることで、発色が良くなるのだろうか。
「なあ、ハルシャ。なぜ顔料に毒を入れたんだ?」
「あくまでも憶測だけど……。リメオルは最愛の恋人を当時の貴族に奪われたそうよ。それを悲観して自死したと言われているわ。もしかしたら、この絵画の女性がリメオルの恋人かもしれない。この絵を貴族に献上し、自ら命を絶った」
「なるほど。高級葡萄酒なんて貴族しか飲めない。つまりこの絵は復讐で、献上した時点で復讐は完了。絶対的な自信を持っていたことで、結末を待たずに自死したということか」
「恐らくそうでしょうね。リメオルは葡萄酒にも詳しかったようだし」
「そうか、代表作も葡萄酒を題材にしていたもんな」
ハルシャが絵を指差した。
「ねえ、マルディン。この絵画は私が引き取っていいかしら? 私の美術館で展示するわ」
「このままか?」
「もちろん修復するわよ。瞳の顔料は塗り替える。芸術は復讐に使うようなものではないし、リメオルのやったことは許されないけど……、でも、この絵は素晴らしい。リメオルの作品と、この恋人を美しいまま後世に残したいわ」
ハルシャは学問や芸術の保護に力を入れている。
図書館や美術館を設立し、芸術家に惜しみなく助成金を出す。
「俺の一存ではなんとも言えないぞ。中央局と協議が必要だしな」
「ちゃんと買い取るわよ。ちなみに、ここの相続が上手く行かなければ財産は没収なの。没収先はどこかしらね。それに、相続したとしても相続税はどこに支払うと思う?」
「なるほどね」
相続に関しては領主に税を収める。
そして、相続税は領主が認めれば、美術品で納税も可能だ。
「分かった。状況次第だが、この絵はハルシャに渡るように交渉する」
「ありがとう。じゃあ、マルディンに手数料を支払うわね」
「いらんよ。事件を解決してくれたんだ。むしろこっちが払いたいくらいだ」
「お金じゃないわ。うふふ」
ハルシャがロルトレに笑顔を向けた。
ロルトレは一礼する。
「かしこまりました。ご用意いたします」
「お、おい」
ロルトレはハルシャの意図を理解しているようだ。




