第186話 メイド来たりて災いとなる1
◇◇◇
エマレパ皇国皇都タルースカ。
三重の巨大な城壁に囲まれたタルースカは千年城と呼ばれ、美しい街並みとともに難攻不落の世界的な大都市として知られている。
タルースカの中心地に程なく近い区域に建つ二階建ての建物。
入口の頭上には『中央局都市開発室』の看板が掲げられているが、この建物はエマレパ皇国の情報を集約する特殊諜報室の本部だった。
室長室の扉をノックする一人の女性。
「失礼します」
「んー? シャルクナ、どうしたの?」
「ムルグス室長にお話が……」
「話? 珍しいねえ」
ムルグスは美しい装飾が施された机に向かって、いつものように書類仕事をしていた。
黒い短髪には樹脂と香草から作られた整髪料を塗っており、髪を後ろに流して固めている。
身なりは几帳面なのだが、普段は気の抜けた話し方をするムルグスだ。
「シャルクナ、ソファーに座って」
「はい。ありがとうございます」
ムルグスは訪れた部下のシャルクナをソファーへ案内し、ポットの珈琲を二杯注いだ。
二杯の量は全く同じ。
こういうところからも、ムルグスの几帳面さが伺える。
今日の珈琲はエマレパ産の中でも、苦みと酸味が強い。
しばらく無言で珈琲を味わう二人。
窓から入る冬の冷たい風が、珈琲の湯気を揺らす。
ムルグスは、シャルクナが自分のタイミングで話すのを待っていた。
「退職させていただこうと思ってます」
ムルグスはこの言葉を予想していたため、特に驚きはない。
「あの事件は大変だったよね。でも、シャルクナの責任ではないよ?」
「お気遣い、ありがとうございます」
「責任を感じてるんでしょ?」
「はい……。私のミスです」
それは違うと何度も説明してきた。
だが、シャルクナはあまりにも真面目な性格で、聞き入れない。
その姿がムルグスにとって痛々しかった。
「辞めてどうするの?」
「何も決めてません」
「じゃあ、そんなに急いで辞めなくてもいいでしょ?」
ムルグスは珈琲を口にし、シャルクナの顔を見つめた。
今回の原因追求と検証は完了しており、シャルクナに非はないと結論が出ている。
もし仮にシャルクナが原因だったとしても、責任を取るのは責任者の仕事だ。
それはつまりムルグスの仕事であり、シャルクナが辞める必要はない。
「そしたらさ、シャルクナに頼みたい仕事があるんだ」
「仕事ですか?」
「仕事と言っても、諜報活動するわけじゃないよ。要は連絡係だね」
「連絡係?」
ムルグスは、詳細が記載されている書類をテーブルに置いた。
すでに書類を用意していたことに、シャルクナは気づかない。
書類に目を通すシャルクナ。
「場所はティルコア? あの港町の?」
「ああ、ティルコアの綺麗な海を見て、少しゆっくりするといいよ」
ムルグスの言葉に嘘はない。
心からシャルクナを心配している。
しかし、特殊諜報室の諜報員を育てるために、多大な予算がかかっているのも確かだ。
ましてやシャルクナは、特殊諜報室で最高の諜報員とされる黒の砂塵に在籍している。
新たな諜報員の育成には、莫大な時間と予算がかかるため、ムルグスとしては引き止める必要があった。
「期間は一年間。開始時期は春頃かな。工事の状況によるんだ。まあこれまで頑張ってきた褒美だと思ってさ、ティルコアでゆっくりしなさいな。どう?」
「一年間のティルコア出張ですか……」
「そうだけど、もし途中で考えが変わっても大丈夫。連絡をもらえれば、次の連絡員を手配するよ」
ムルグスは最も合理的な行動を取る。
シャルクナの状況、ティルコアへ連絡員の派遣、仕事内容を勘案すると、シャルクナが最も適していた。
「ティルコアは魚と酒も旨いんだよ」
「少し……考えさせてください」
「もちろんさ。数日以内に返事をくれると嬉しいよ。ははは」
そして、初めからシャルクナのティルコア行きを確信しているムルグスだった。
◇◇◇
「あー、やっぱフェルリートのカレーは旨いな」
「ふふ、ありがとう」
俺はクエスト帰りに、ギルドの食堂でフェルリートが作ったカレーを注文した。
相変わらず旨い。
かの皇帝陛下も気に入ったという香辛料だから、当然と言えば当然だ。
「皇帝陛下お墨付きって謳えばもっと売れるな」
「嫌だよ。別に売れなくてもいいもん」
「まあここはギルドの食堂だから、利益は追求しなくてもいいのか」
「うん、ここは関係者のための食堂だもん。マルディンが食べてるカレーだって、他所で食べれば三倍はするよ?」
「安いとは思っていたが、そんなに違うのか」
「そうだよ。赤字が出ないギリギリの価格だよ。ギルドの食堂の強みだね」
「だが、このカレーの旨さはもっと広まって欲しいけどな」
「ふふ、ありがとう」
俺はフロアを見渡した。
今日の食堂は、クエストを終えた冒険者たちで混雑している。
珍しく賑やかだ。
「フェルリート! カレーおかわりだ!」
「はーい」
フェルリートは注文を聞き、飯を作り、酒を注ぎと大忙しの様子。
今日の食堂は二人の職員で回しているが、それでも大変そうだった。
俺はフェルリートの様子を眺めながら、カレーを頬張り、麦酒を流し込む。
「マルディンさんですか?」
「ん? そうだが?」
カウンター席に座り一人で飯を食っていると、女性に声をかけられた。
「初めまして。中央局都市開発室から派遣されたシャルクナと申します」
「シャルクナ……。ああ、聞いているよ」
シャルクナの資料はすでにもらっている。
年齢は二十六歳。
髪の色は、満月が照らす海の色のような青紫色で、腰に届くほどの長さだ。
身長は俺よりも拳三つ分ほど低い。
つり上がった凛々しい瞳と、整った顔が印象的で、世間一般的な感覚では綺麗だと言えるだろう。
一見、細い手足と折れそうな腰だが、俺には鍛え上げている身体ということが分かる。
何より血の匂いがする。
そう、シャルクナは特殊諜報室の諜報員だ。
室長のムルグスから、仕事のサポート役として派遣すると聞いていた。
当初は事務員が来ると思っていたので、特殊諜報室の諜報員が来ると知った時は驚いたものだ。
ただの連絡役に特殊諜報室の、それも一流の諜報員である黒の砂塵を派遣するなんて、人材の無駄遣いも甚だしい。
しかし、このシャルクナは、なぜメイド服を着ているのだろうか。
これは触れた方がいいのか。
いや、人のセンスは千差万別だ。
触れない方がいいだろう。
「今後のことについて、お話をさせていただきたいのですが……」
「今日はここがうるさいからな。分かった。移動しよう」
「あの、マルディンさんのご自宅へ伺ってもよろしいですか?」
「家? なぜだ?」
「仕事に関係があるからです」
「家がなぜ仕事に関係あるんだ?」
「それをご説明します」
「ちっ、分かったよ」
俺は革袋から銀貨を三枚取り出した。
「フェルリート、ごちそうさま。今月分の金も置いていくよ」
「あれ? 帰っちゃうの?」
「ああ、用事ができた」
フェルリートが、俺の隣に立つシャルクナに視線を向けた。
メイド服だから目立つのは当然だ。
シャルクナがフェルリートに会釈をすると、フェルリートも会釈で返す。
不安そうな表情を浮かべているフェルリート。
「フェルリート、次来た時に説明するから」
「う、うん」
俺たちはギルドを後にした。




