第131話 老人と犬5
トーラムの遺体は、グレクやイスムたちによって丁重に運ばれていく。
ポルコはトーラムから離れようとしなかった。
「ポルコ。こっちに来るんだ」
ポルコを抱きかかえ水揚げ場へ移動すると、幻黒鮪が滑車で吊るされていた。
「これを……、一人で……。本当に凄いとしか言いようがない……」
六メデルトの体長は圧巻だ。
「ほら、ポルコ。これがトーラムが最後に獲った幻黒鮪だ」
「バウバウ!」
ポルコが誇らしげに吠えていた。
続々と漁師たちが集まる。
「俺も長いこと漁師をやってるが、こんな巨大な幻黒鮪は見たことがない」
「そうだな。マルソル内海で最高記録だろうよ」
「いや、世界記録じゃないか?」
「幻黒鮪なんて初めて見ましたよ」
「トーラムが命をかけて獲ったんだ」
「トーラムさんらしいよな。マジで……カッコいいよ」
ベテラン漁師から若手まで、何人もの漁師が涙を浮かべていた。
そして、トーラムの船の確認作業が始まる。
レイリアによるトーラムの検死も開始された。
俺は港の会議室へ移動し、ポルコと待機。
窓を開けて、冬の海風を部屋に取り込む。
窓の外に目を向けると、太陽は水平線に沈む直前で、海面に一本の光の道を作っていた。
日没を迎えると、調査を終えた漁師たちが会議室に集合。
レイリアとアラジもいる。
調査を担当した漁師のリーダーが、調査結果を発表。
遺品の中には、トーラムの航海日誌などもあったそうだ。
船の状況や日誌から、トーラムの行動が判明した。
◇◇◇
トーラムは出港から数日で、この季節には滅多に発生しない大嵐に遭遇してしまった。
嵐は三日三晩続いたが、トーラムは嵐を乗り切る。
だが、そこで羅針盤が故障していることに気づく。
さらには嵐によって心臓に負担がかかり、これ以上身体がもたないと判断。
太陽の位置から、ティルコアの方向を割り出し、帰港を目指した。
「これ以上は無理だな……。俺の漁師生活もこれで終わりか。あっけなかったな。だが、これも海だ……」
諦めながらも、悔しさが滲む。
帰港の途中で、トーラムは見たこともない海域に出る。
ティルコア近海を知り尽くしているトーラムですら、初めて見る光景だった。
「な、なんだここは?」
完全なる凪。
完全なる無音。
海面は鏡のように空を写し、まるで空を彷徨っているような感覚に陥ったトーラム。
空にかかる薄い雲が、太陽の位置を隠す。
船は止まり、方向も見失う。
そこへ、一匹の魚が水紋を広げ、空へ大きく飛び跳ねた。
「幻黒鮪!」
トーラムはすぐに竿を握り、銛を掴む。
「デカいぞ! こいつは俺の最後に相応しい!」
かつてないほど歓喜の声を上げるトーラム。
それから、幻黒鮪との死闘が始まった。
「はあ、はあ」
この世界に、トーラムと幻黒鮪しかいないと錯覚するほど、静かな海。
自分の息遣いと、幻黒鮪が立てる水の音だけが響く。
まさに幻だ。
命をかけた戦いの中で、トーラムの神経は研ぎ澄まされていく。
そして戦いの高揚感で、気力と体力は、まるで二十代の頃に戻ったかのようだった。
もちろん、顔つきや口調までも。
「強い! お前最高だぜ! だが俺は釣り上げる!」
命がけの格闘は何夜も続くが、苦しさの中に命の充実を感じる。
火酒の瓶を、直接口に運ぶトーラム。
「効くぜ! マルディン!」
果てしなく続くと思われた勝負は、トーラムの勝利で幕を閉じた。
「俺の! 勝ちだああ!」
今でこそトーラムは、落ち着いた老人と思われているが、そこはティルコアの海の男。
漁に対しての情熱は、漁師ギルドでも並ぶものはいない。
「やったぞ! 俺はやったぞ! 最高だ! ああ、最高だぜ!」
残った力を振り絞り、滑車を使い幻黒鮪を引き上げ、血抜きを行う。
そして幻黒鮪をロープで固定した。
「マルディン、ポルコ。待ってろよ。美味い幻黒鮪を食わせてやるからな……」
トーラムは人生最高の笑顔を浮かべた。
◇◇◇
俺が渡した火酒は、半分以上飲まれていた。
残った瓶を受け取る。
「南国で飲む、俺の故郷の酒は美味かったか? 飲んでくれて……ありがとう」
レイリアの検死によると、死後二日だそうだ。
「もう少し。もう少しだったのよ。心臓が持てば、トーラムさんは帰って来れたの。もっと強力な薬を出してれば……。私のせいだ……。ごめんなさい。ごめんなさい」
レイリアの瞳から、とめどなく涙が溢れ出る。
その背中を、父親のアラジがそっとさすっていた。
強力な薬を出せば、その分身体の負担は上がる。
漁すらできなかっただろう。
レイリアの判断は間違ってない。
漁ができる限界の薬だったはずだ。
実際、日誌にはレイリアへ感謝の言葉を記している。
調査報告が終わると、目を腫らしたグレクが俺の元へ来た。
「マルディン。一緒に来てくれ」
グレクに声をかけられ、漁師たちと一緒に港へ移動。
夜を迎えた港では、大量の篝火が焚かれており、煌々と海面を照らしていた。
「何をするんだ?」
「これから師匠を海に還す。それがティルコア漁師の葬送なんだ」
若い漁師たちに担がれ出棺。
棺は静かに港を進む。
沈黙の中、仲間たちの視線が棺を見送る。
そして、トーラムの船に棺は乗せられた。
弟子であるグレクと、ギルマスのイスムもトーラムの船に乗る。
「マルディンさんは、こちらに」
若い漁師に案内された俺は、ポルコを抱えながら別の船に乗船した。
二隻の舟が同時に進む。
港の中心で停泊させると、グレクとイスムは俺が乗っている船に乗り換えた。
二人は船の篝火から松明に火をつけ、それぞれ片手に持つ。
俺もグレクから松明を受け取り、火をつけた。
「マルディン。俺たちを真似してくれ」
「分かった」
イスムが港に身体を向けると、港で見守る全漁師が松明を空に掲げた。
「トーラムは海と共に生きた! 海で夢を叶えた! 見事な最後だ! ティルコア漁師一の情熱を持つ海の男! 英雄トーラム! 海に還る!」
「英雄トーラム! 海に還る!」
港から全漁師の声が響く。
「我らの魂は海と共に!」
「海と共に!」
イスムが港に背を向け、溢れる涙をそのままに、棺を優しく見つめる。
「トーラムよ。よくぞ夢を叶えたな。俺も近々そっちへ行く。また一緒に漁をやろう」
イスムがトーラムの船に松明を投げ入れた。
「師匠。生まれ変わっても……。また師匠になってください」
グレクも松明を投げ入れる。
そして、俺に視線を向けた。
「マルディンも」
「ああ」
俺も松明を投げ入れた。
「トーラム。あんた最後までカッコよかったよ」
「バウバウ! バウバウ!」
俺の腕の中で何度も吠えるポルコ。
「バウバウ! バウバウ!」
徐々に燃えていくトーラムの船。
巨大な炎を発生させ、煙は空高く舞う。
そして、船と棺は燃え尽き、海に沈んでいった。
「さようなら、トーラム」
「バウバウ!」
――
港へ戻ると、大きなテーブルが用意されていた。
その上に乗せられている幻黒鮪。
幻黒鮪は、トーラムによってしっかりと血抜きがされており、最も美味いとされる熟成期間を経ていた。
イスムが幻黒鮪に解体短剣を入れ、捌いていく。
解体が終わると、漁師たちが次々に自分の解体短剣で幻黒鮪の身を切り、口に運ぶ。
それがティルコア漁師の供養だという。
全員号泣している。
俺も食わせてもらった。
イスムが言うには、最も希少で最も美味い部位だそうだ。
「美味い……。これほどの魚は食ったことがない。マジで美味いよ、トーラム……」
隣でポルコも幻黒鮪を食べている。
「バウ!」
「本当に……美味しい……。トーラムさん……」
レイリアも幻黒鮪を口にした。
医師として、これまで幾人もの死を見てきているはずだ。
人の死に慣れているだろう。
だが、その雪原のように美しい頬には、乾くことのない涙が伝っていた。
「バウバウ!」
「もっと寄こせと言っているのか」
俺は幻黒鮪の切り身をポルコに渡した。
美味そうに食べるポルコ。
「ポルコはどうするの?」
「誰かが引き取ることになるだろう」
「あなたはクエストで家を空けることが多いでしょう?」
「そうだな」
「うちなら父もいるし、私も診療所にいるわよ?」
「それがいいかもな。一応本人にも聞くか。ポルコ、お前行きたい場所はあるか?」
「バウ!」
俺の足にすり寄るポルコ。
「あなたのところがいいみたいね」
「うちか? でもなあ……」
「バウバウ!」
「ポルコがあなたの面倒を見るって言ってるわよ?」
「逆だろ!」
「バウ!」
頑固なポルコは意見を曲げない。
結局、俺がポルコを連れて自宅へ帰った。




