第129話 老人と犬3
診療所に入ると、ちょうどレイリアがロビーを横切った。
俺に気づき、右手を小さく挙げるレイリア。
「あらマルディン。どうしたの?」
「レイリア。さっきトーラムに会ってきたよ。明日出港するって」
「そっか。やっぱり行くのね……」
診療時間はすでに終わっており、ロビーには人がいない。
しかし、俺は念の為にそっとレイリアに近づく。
「トーラムのこと……聞いたぞ」
その美しい横顔に向かって耳打ちした。
「それは船を降りること?」
レイリアも小声で返した。
「いや、病の方だ」
「分かったわ……。この話は父にもしてないのよ」
「了解した。話を合わせるよ」
レイリアとの話を終えると、ロビーの奥からポルコが短い足をバタつかせ走ってきた。
「バウ!」
「よう、ポルコ。ちゃんと言うこと聞いてるか? お前は頑固だからなあ」
「バウバウ!」
ポルコが怒った表情を浮かべながら、俺の足に体当たりしてきた。
「いてて」
「バウバウ!」
続いてレイリアの父、アラジが姿を見せる。
「ポルコが怒っとるぞ。ふぉふぉふぉ」
「アラジ、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
アラジは元漁師だ。
引退したが、天気の読みはずば抜けていて、冒険者ギルドでも相談することがある。
「儂に?」
「アラジ。これから一週間の海の状況はどうだ?」
「海の状況? そんなの聞いてどうするんじゃ? お主、泳げんじゃろ?」
「いや、俺じゃない。トーラムだよ。漁に行くって聞いてさ」
「ああ、トーラムの漁か。そういえば、嵐が過ぎたら漁へ出ると言っとったのう」
「どうなんだ?」
「昨日までの嵐が過ぎたから、しばらくは安定する。じゃが、海に安全なんて言葉はない。まあトーラムが一番良く分かっとるじゃろ」
「そうか。そうだよな」
トーラムは一流の漁師だ。
海のことに関して、俺の心配なんて無用だろう。
だが、俺はその後もアラジから海の話を聞いた。
日没を迎えると、アラジの強い勧めで、そのままレイリアの自宅で夕飯をいただく。
ポルコが一切の遠慮をせず、まるで自宅にいるかのように飯を食っている姿を見て笑ってしまった。
――
翌日の早朝、俺は待ち合わせをしていたレイリアとアラジ、そしてポルコと合流し、トーラムを見送りに港へ向かった。
港の入口でグレクの姿を発見。
全員でトーラムの船がある桟橋へ移動した。
「なんだ。大勢で来てくれたんだな」
「バウ!」
桟橋で出港準備をしているトーラムに、ポルコが近寄る。
トーラムがポルコの頭を撫でると、嬉しそうに尻尾を振りながら舌を出していた。
アラジがトーラムの正面に立ち、沖を指差す。
「トーラムよ。話は聞いたぞ。この漁で船を降りるんじゃろ?」
「そうだ。最後に幻黒鮪を狙う」
「止めはせんが、危険だと感じたら、すぐに帰港するんじゃ。この季節の海は難しい」
「ああ、分かってるさ。だけど、この季節だからこそ姿を現したんだ」
「むっ。そうじゃが……」
「俺は、あんたたちの世代を見て育ってきたんだぞ? あんたたちはどんだけ無茶してきたと思ってるんだ? 人に注意なんてできんぞ。ははは」
「ちっ、言いよるわい」
トーラムは笑いながら乗船した。
グレクが荷物の積み込みを手伝い、甲板の荷物をロープで固定する。
「師匠、マジで無理しないでくださいよ。教わりたいことは、まだたくさんあるんですから」
「お前に教えることなんて、もう何もないぞ」
「いやいや。山程ありますよ」
「そうか……。仕方ない。じゃあ最後にな……」
「な、何ですか?」
「幻黒鮪の味を教えてやる」
「くはっ! 期待してます!」
レイリアが桟橋から、トーラムへ小さな紙袋を差し出す。
「トーラムさん。これお薬です。一日三回、朝昼晩に飲んでください。とにかく、とにかく無理だけはしないで。お願いです」
「わがまま言ってすみません。先生、ポルコを頼みます」
レイリアに向かって頭を下げるトーラム。
そして、船に乗り込んだポルコの頭を撫でた。
「バウバウ!」
「先生の言うことを聞くんだぞ」
「バウ!」
俺も船に乗り、ポルコを抱え上げた。
「漁の安全を祈ってるよ」
「ああ、ありがとう。南国の海の上で飲む、北国の酒が楽しみだよ。ははは」
「そうか。ほどほどにな。あっはっは」
俺はトーラムと力強く握手を交わす。
長年漁で鍛えられた固い手のひらだった。
「マルディン。ありがとう」
「何がだ?」
「なんだろうな。お前の顔を見てたら、自然と言葉が出てきたよ」
「何だそれ?」
「ははは。お前に極上の幻黒鮪を食わせてやるぞ。待ってろ」
「楽しみにしてるぜ。あっはっは」
笑顔を浮かべるトーラムに朝日が反射する。
眩しく美しい男の笑顔だ。
準備が整いトーラムは出港。
最後の漁になるというのに、いつものように気負わない自然な姿が印象的だった。
「なあ、グレク……」
「何だ?」
「お前の師匠……かっこいいな」
「あたりめーだろ。俺はさっき惚れそうになったわ。はは」
「分かるぜ、その気持ち。あっはっは」
桟橋を歩き始めたレイリアが、俺たちに振り返った。
「ほらほら、バカなこと言ってないで行くわよ」
「はい! 先生!」
グレクが勢い良く返事をする。
レイリアが笑顔を浮かべながら、腰に手を当てた。
「ねえ、せっかくだし、港で美味しい朝食を食べて帰りましょ」
「いいですね! じゃあ、碧海亭に行きましょう!」
「あの店か。刺し身が美味いんだよな」
「儂は久しぶりじゃな」
「バウバウ!」
全員で漁師向けの食堂へ向かう。
俺は海を振り返った。
「トーラム。無事に帰ってこいよ」
降り注ぐ朝日を浴びた海が、黄金色に輝く。
そして、水平線に向かって進む一隻の船を、優しく包み込んでいた。
――
それからというもの、俺は日が暮れる頃に、港へ行く毎日を過ごす。
レイリアに頼まれ、ポルコを迎えに行っていた。
港でトーラムの帰りをじっと待つポルコ。
動かないポルコを言い聞かせて、無理やりレイリアの家へ連れて帰る。
「ポルコ、勝手に港へ行くなよ。皆が心配するだろ」
「バウ! バウバウ! バウ!」
「何? しっかり者だから大丈夫だって?」
「バウ!」
首を縦に大きく振るポルコ。
レイリアが言うには、朝日を迎える前にポルコは診療所を抜け出し、港へ行ってしまうそうだ。
頑固な鬣獅犬らしい。
「お前ね。飯も持たずに港へ行ってるんだろ? まったく、レイリアに迷惑かけるなよ」
「バウバウ!」
「あ? 飯を持ってこいって?」
「バウ!」
「なんでだよ!」
だが翌日から、俺はポルコの飯を持って港へ向かうこととなった。
――
いつものようにポルコの飯を持って港へ行く。
今日はアラジも一緒だ。
「ほら、ポルコ。飯だぞ」
「バウ!」
「こいつ、俺のことを完全に飯係だと思ってんな」
「バウ!」
「うるせーな!」
レイリアが作った飯にかぶりつくポルコ。
口の周りを汚しながら、美味そうな表情を浮かべている。
「お前、幸せだな」
「バウ!」
俺たちのやり取りを気にせず、アラジは集中して沖を眺めていた。
「こ、こりゃ……。まずいかもしれん……」
「どうした?」
「この季節には珍しい大きな嵐じゃ」
「嵐だと? どう見たって快晴だぞ?」
俺には分からないが、アラジには見えるのだろう。
アラジは火を運ぶ台風の発生も、すぐに気づいたほどだ。
「儂はイスムのところへ行ってくる」
「分かった」
ポルコが突然食べるのを止め、海へ視線を向ける。
「バウバウ!」
そして、海に向かって吠えていた。
――
アラジの言う通り、夜になると突然天候が崩れた。
強い風が吹き、大粒の雨が降る。
嵐の手前という天候だ。
日が明けると同時に、俺はレインコートを着込み港へ向かった。
「マルディン!」
「アラジか!」
「トーラムは帰港したか?」
「いや、まだだよ」
ポルコを連れたアラジが姿を現した。
心配で見に来たのだろう。
続々と漁船が帰港している。
だが、その中にトーラムの船はない。
「くそ、トーラムはまだ帰ってこないのか」
「あやつほどの腕じゃ。切り上げるタイミングを間違えるわけがない。命あっての漁じゃ。痛いほど知っておる」
「だけどよ、腕があるから無理をする可能性もあるだろ。人生最後の漁で、夢だった魚が目の前にいるんだ」
「儂らは無事に帰ることを祈ることしかできん……」
ポルコは無言で帰港する船を見つめていた。
午後になると本格的な嵐となる。
救助も無理な天候だ。
それから、俺とポルコは嵐の中、毎日港へ行きトーラムの帰りを待つ。
だが、三日経ってもトーラムは帰ってこなかった。




