第128話 老人と犬2
酒を楽しみながら会話が弾み、二人でボトルの半分近くを飲んだ。
これだけの強い酒だと、さすがに酔いが回る。
「なあ、マルディン。師匠の話を知ってるか?」
「トーラムが幻黒鮪を獲りに行くって話だろ?」
「……そうだ」
グレクがグラスに口をつけた。
「グレク。実際どうなんだ? 一人じゃ危険だろ?」
「危険なんてもんじゃない。幻黒鮪は体長五メデルト以上ある。一人漁で獲った記録なんてないんだよ」
「じゃあ、止めろよ。俺には止められなかったが、弟子のお前なら言えるだろ」
「できるわけ……ないだろ」
「どうしてだ。まあ本人は引退前の最後の漁だって言ってたけど、危険を犯してまでやるこっちゃねーだろ。引退後の生活だってあるんだ」
「引退……。違うんだよ……」
「違うって、何がだよ?」
グラスを静かにテーブルへ置くグレク。
「師匠はもう……。長くない……」
「ど、どういうことだ?」
「病だ。ベテランの漁師に多い心臓の病でな。長年の漁で心臓に負担がかかってたんだ」
「や、病だと! じゃあ止めろよ! そんなんで漁に出たら死んじまうだろーが!」
「できるわけないだろ!」
グレクが拳を握り、テーブルを叩いた。
乾いた音が部屋に響く。
衝撃で、グラスの酒が大きく波打つ。
それはまるで大時化の波だ。
「す、すまん……」
グレクが申し訳なさそうな表情で、視線をグラスに向けた。
「そうだな。止められるわけないよな。あの時トーラムが言った最後って言葉は、引退のことだと思ってたのだが……。そういう意味の最後か……」
「そりゃ……、そりゃ俺だって止めたいさ。だけど、師匠の夢なんだ」
俺は火酒を二つのグラスに注ぐ。
「トーラムに家族は?」
「……厳しい人だったからな。嫁さんと娘さんがいたが、もうずいぶん前に出ていった。異国へ行ったって話だ」
「そうか。じゃあ今はポルコだけか」
「そうだな」
「病のことを知ってるのは?」
「師匠と俺、レイリア先生、そしてお前だ」
「そうか。分かった」
俺は火酒を口に含む。
「なあ、マルディン。俺、どうしたらいい?」
「そうだな……。俺にも正解は分からないが……。人生をかけた仕事の最後で、自分が何を成し遂げたいのか……。どうやって人生を終えたいのか……。そう考えるといいかもな」
「そうか。そう考えると、確かに俺も……夢を追うな」
「お前の夢って?」
「俺は超大物の一角鮪を獲りたい」
「似たような師弟だな」
「うるせーな」
「なあ、どうせ止めても無駄なんだ。だったら全力で応援してやろーぜ」
「そうだな。そうするよ。師匠の夢だしな。お前に聞いて良かった。ありがとよ」
「良い火酒飲ませてもらったしな。あっはっは」
「そういや、他にも色々な種類の火酒が売ってたぞ。もしかしたら、お前の好きな火酒もあるかもな」
「マジか。じゃあ明日にでも見に行ってみるか」
この日は結局、二人で一本飲みきった。
当然ながら、泥酔したのは言うまでもない。
――
「いてて、飲みすぎたな……」
翌日は嵐が過ぎ去り、快晴となった。
昨日の酒が残りつつも、買い物をしてから俺は港へ足を運んだ。
予想通り、トーラムの姿を発見した。
船に荷物を積み込んでいる。
「よう、トーラム」
「マルディンか。どうした?」
「出航は明日か?」
「そうだ。沖はまだ時化ているからな」
「手伝うよ」
「すまんな」
俺は桟橋にある荷物を船に運び込んだ。
トーラムの船は、全長約十メデルト。
一人漁のトーラムだが、いつもこの船を魚でいっぱいにするほど、腕の良い漁師だ。
だが今回は、たった一匹だけを狙う。
俺は全ての荷物を積み込んだ。
甲板に二人で座る。
「なあ……。少しだけ飲まないか?」
「酒か? まあいいだろう」
「本当に少しだけな」
俺はグレクに聞いた商人から、火酒を購入した。
俺が故郷でよく飲んでいた、一番好きな地元産の火酒だ。
グラスなんてないから、瓶から直接飲む。
俺は栓を開け、一口飲んでトーラムに手渡した。
「綺麗だな」
「色はな」
「色は?」
「そうだ。飲んでみれば分かるよ。雪国で飲まれる理由が。あっはっは」
「香りは……森の香り? ああ、木樽の香りか」
トーラムが恐る恐る火酒を口にした。
「くぅ。これはキツいな」
「初めてか?」
「そうだ。初めて飲んだ。キツいけど……美味いな。しかも身体が火照る。なるほど、雪国で飲めば身体が温まるか」
「そうだぞ。故郷の火酒の中で、俺が一番好きな銘柄だ。漁に持ってけよ」
もう一口、火酒を飲むトーラム。
そして、俺の瞳をまっすぐ見つめた。
「マルディン……。もしかして、お前知ってるのか?」
「まあな……。グレクが相談に来たよ」
「あいつめ」
「心配なんだよ。一番弟子だぞ?」
「あいつは、おせっかいだが……でもまあ、良い奴だよ」
「ああ、面倒見がいい」
「女にモテないのが残念だ。ははは」
トーラムが火酒の瓶に栓をした。
空を見上げている。
風を読んでいるのだろう。
「なあ、トーラム。一応聞くが、止めても無駄か?」
「俺は海で生きてきた。その俺が船を降りるんだ。最後は俺のやり方で、夢を叶えたい」
「かっこいいぜ」
「褒めても何も出んぞ。ははは」
「漁の期間はどれくらいになるんだ?」
「目撃されたのは外洋だ。恐らく幻黒鮪は一週間ほど留まるはず。幻黒鮪は世界の海を回遊する。これを逃したら、俺が生きてる間にこの地にはもう来ないだろう」
「そうか。分かった。俺にできることは何でも協力するよ。だから、無理だけはしないでくれ」
俺はふと違和感に気づく。
あの頑固者がいない。
「そういや、ポルコは?」
「今日はレイリア先生が見てくれてる。漁の間も預かってくれることになった」
「あの頑固者が、よく納得したな」
「レイリア先生には懐いてるんだよ」
「あいつめ。女好きか? あっはっは」
こんなことをポルコに聞かれたら、きっと猛烈に抗議をしてくるだろう。
「さて、じゃあ行くよ」
俺は立ち上がり、桟橋へ下りた。
「明日の早朝にポルコを連れてここへ来る。見送らせてくれよ」
「ああ、もちろんだ」
俺は港を出て、レイリアの診療所へ向かった。