第127話 老人と犬1
日の出を迎えるにはまだ時間がある。
ようやく地平線が薄っすらと赤みを帯びてきた。
「よし、行くか」
俺は早朝トレーニングのため自宅を出発。
港の近くを通ると、人影を発見した。
「あれは漁師のトーラムだな。それとあの丸い後ろ姿。すぐに分かるぜ。あっはっは」
ベテラン漁師のトーラムは、飼い犬である鬣獅犬のポルコを散歩に連れていってから漁に出る。
俺は毎朝二人に遭遇することで、ポルコとも顔見知りになっていた。
鬣獅犬は、体長約一メデルトの大型犬だ。
古くから飼い犬として人間と共存している。
全身は茶色く短毛なのだが、顔の周囲は黄金色の立派なたてがみを持つ。
そのたてがみは、まるで草原の王と呼ばれるAランクモンスターの牙獅獣のようだ。
あくまでも、たてがみだけだが。
短い手足に丸い体格は愛嬌があり、飼い主に従順。
しかし、恐ろしいほどの頑固さを持ち、飼い主以外に心を開かない。
「トーラム。ポルコ。おはよう」
「マルディンか。おはよう。毎朝頑張ってるな」
「そっちこそ。毎日ポルコの散歩は大変だろ?」
ポルコが俺の足に体当たりしてきた。
「いて」
「バウ!」
「なんだよ、ポルコ」
「バウバウ!」
「何? お前がトーラムの散歩に付き合ってやってるって?」
「バウ!」
大きく頷くポルコ。
「あっはっは。言われてるぞ、トーラム」
「いや、実際そうなんだ。ポルコのおかげで散歩ができる。俺ももう歳だからな」
「何言ってんだよ!」
トーラムの年齢は確か六十歳。
漁師ギルドのマスター、イスムの少し下の世代だ。
「引退しようと思ってな」
「引退だって? まだそんな歳じゃないだろ」
「もう身体が動かんよ」
「おいおい、イスムなんて六十五歳で現役だぞ?」
「あの人と一緒にするな。あの人は伝説的な漁師だ。冒険者ギルドにもいるだろ。そういった化け物じみた奴らが」
「……まあ、そうだな」
「あ、そうか。お前自身がその化け物だったな。ははは」
「何言ってんだよ! ポルコまで一緒に笑うんじゃねーよ!」
「バウバウ!」
ポルコが舌を出して、俺の顔を見上げていた。
トーラムが両手を腰に当て、海に視線を向ける。
「俺は長年の夢だった幻黒鮪を狙う」
「幻黒鮪だと! マジか!」
「ああ、数年ぶりに目撃情報が出た」
幻黒鮪は幻の魚と呼ばれ、その味は全ての魚を凌駕すると言われている。
俺は食べたことはないが、イスムは人生で一度だけ食べたことがあり、幻黒鮪を超える魚には出会ったことがないと言っていた。
「トーラムの漁は一人だろ? 危険じゃねーか?」
「長年一人でやってきた。俺の集大成だ」
「せめて弟子を連れてけよ。グレクは弟子だろ」
漁師ギルドのグレクは、トーラムの弟子だ。
「あいつはもう一人前だ。いや、あいつもそろそろ弟子を取っていい。だから、老人の相手なんてしなくていいんだよ」
「だ、だけどよ……」
「マルディン。獲物を目の前にした海の男に、危険だからと引き下がるような奴はいない。お前ら冒険者は、狩猟する時に危険だとやめるのか?」
「うっ。そ、それを言われちゃあ……」
狩猟系はどんなクエストも危険だ。
だからといってクエストをやらないわけはないし、むしろ危険だからこそ報酬は高く、得るものが大きい。
「ははは。心配してくれてありがとよ。俺はこれまで生活のために漁をしてきた。だが、最後くらい夢を追いたい」
「最後?」
「……引退だって言っただろ」
ポルコがトーラムの足にすり寄る。
「クウゥゥン」
「お前にも心配かけるな」
トーラムがポルコの頭をさする。
嬉しそうに主人の顔を見上げるポルコ。
「トーラム。漁はいつ行くんだ?」
「明日から数日間は冬の嵐で海が荒れる。準備もあるし、一週間後だな」
「分かった。見送らせてくれよ」
「なんだ、幻黒鮪を分けてもらおうって魂胆か?」
「ちっ、バレたか。あっはっは」
「心配するな。お前には一番美味いところを食わせてやる。ははは」
「期待して待ってるぜ」
俺はトーラムの肩に手を置いた。
トーラムの優しくも引き締まった男の顔が、とても印象的だった。
何かを悟ったような表情は、男から見ても格好いい。
トーラムとポルコと別れ、俺はカーエンの森に作ったトレーニング場へ向かった。
――
それから数日は、トーラムが言っていたように嵐だった。
台風ほどではないが、強風と豪雨が続く。
外には出られないので、自宅で過ごすしかない。
「漁師ってすげーよな。天気を言い当てるんだから」
窓を激しく打ちつける雨。
まだ昼時だが薄暗い。
俺は外を眺めながら、保存食の塩っ辛い干し肉をつまむ。
同時に、扉を連打する音が部屋に響いた。
「ん? こんな日に誰だ?」
「おーい! マルディン! いるんだろ!」
「この声は?」
扉を開けると、レインコートを被ったグレクが立っていた。
「よう、マルディン」
「お前、何しに来たんだ?」
「おいおい、友人が遊びに来たってのに、何だその態度は」
「遊びにって……。こんな日に?」
「こんな日だからこそだ。漁に出れないから休みだ。お前だってクエストに行けないだろ?」
「まあ、そうだな……」
「土産も持ってきたんだよ」
グレクがレインコートを脱ぎ、外に向かって風を起こすように大きく振る。
面白いように飛び散る水滴。
レインコートから、瞬く間に水滴がなくなった。
このレインコートの素材は巨兵蛙だ。
巨兵蛙は体長二メデルトのEランクモンスターで、水辺に多く生息する。
顎から胸の周辺を、体長の数倍に膨らますことで有名だ。
その皮は頑丈でよく伸びるので、様々な製品に使用される。
水や空気を通さないため、雨具、水筒、テントの素材として人気が高い。
現在は飛空船の素材として重宝されている。
「まあ、入れよ」
俺はグレクを部屋に招き入れた。
「これを見ろ!」
グレクがバッグをテーブルに置く。
そして手を突っ込み、ゆっくりと荷物を取り出す。
「おいおい、こりゃ……」
「すげーだろ」
グレクがバッグから取り出したのは、一本の酒瓶だった。
「よく手に入ったな」
酒の種類は火酒だ。
火がつくほどのキツいこの酒は、真冬の北国に欠かせない。
身体の内部から温まる。
気付け薬としても使用されるほどだ。
「懐かしいなあ。よく飲んだよ」
「知り合いの商人が、ジェネス王国産の火酒を持っていてな。お前と一緒に飲もうと思って買ったんだ」
「いいねえ。んじゃ、飲むか」
俺はグラスを二つ用意した。
つまみは干し肉と焙煎豆だ。
グラスに注がれる黄金色の液体。
蝋燭の炎を反射し、艷やかに煌めく。
木樽で熟成したこの火酒からは、祖国の森の香りが漂う。
「懐かしいな……」
グラスを掲げ、グレクと乾杯した
 




