没落令嬢はお飾り妻になりたくない~20歳以上歳上の男と駆け落ちした、ということにしておいてください~
ベティはトボトボと歩く。向かう先は建国祭で賑わう広場。
普段のベティなら、他の人々と同様に年に3回しかない大きなお祭と全国各地から集まった出店に心躍っていただろう。
しかし、今のベティはそんな気分にならない。
まるで市場に売られていく子牛の気分である。
ベティは貴族とはいっても、店を構える商人のほうが良い生活をしている没落貴族の家に生まれた。当然、馬も飼えないので御者もいない。当主の家に執事がいなくては話にならない為、一人だけ雇っている使用人は執事だけだ。
メイドのする仕事はベティと母親が担っていて、ベティが一人で市場に買い物に行けるようになると、買い出しは彼女の仕事になった。
だからといって、余計な物を買うだけの余裕も、お小遣いもない。
そんなベティの小さな楽しみは、全国から集まった出店を見ることだった。
いつもは見られない物珍しい物を見付けるだけで、ワクワクする。
そんな楽しみも、今はもう、頭の隅にはない。
お祭の時だけ出店を出している商人が、毎回、熱心に見ているベティに気付いて、木彫りの髪飾りを目の前で作ってくれたことすら、髪を飾る木製の花がなければ思い出せなかっただろう。
この花だけがベティの気持ちを軽くする物だった。結婚という名の身売りをさせられた今では。
婚姻自体はまだ先だが、未来の夫が身分違いの恋人を囲っている噂は、庶民の行き交う市場では簡単に耳に入ってきた。ベティは貴族の家に生まれたお飾り妻として選ばれたのだった。
貧乏な我が家とは違ってお金持ちでも、お飾り妻という立場がどれほど冷遇されるものなのか、それがベティは怖かった。継子虐めがあるように、邪魔な妻を夫となる男がどう扱うか。夫の家の使用人たちがどう扱うか。
ひもじかろうが、寒かろうが、一人だけ冷遇される生活とは違う。
暗い未来に足取りも重くなり、祭だからと習慣的に出店のある広場に向かってしまう。
自分の才覚で家を盛り立てるどころか、商家出身だったベティの母親の持参金すら使い果たした父親。
娘であるベティは持参金すらなく、僅かな金と引き換えにお飾り妻として売られた。
名ばかりの貴族から、名ばかりの妻に。
「よう、お嬢ちゃん。そんな暗い顔してどうした?」
父親より何歳か上だろう、日に焼けた男が声をかけてきた。
気付いたら、ベティは花の髪飾りを作ってくれた出店まで来ていたようだ。
店はいつもと同じ場所にあった。人目も引かない不人気な広場の端っこともなれば、希望が通るのだろう。
そのおかげで、ぼんやりしていてもベティは辿り着けたのだが。
「おじさん・・・!」
馴染みの商人の顔を見て、ベティの目から涙が溢れ出た。父親に売られてお飾り妻になるしかないと、張り詰めていた神経が緩んだのである。
それ以上は言葉にならず、嗚咽が漏れる。
こういうものだからと、ベティの母親は娘の結婚を受け入れていた。
母親だって言いたいことはたくさんあったが、黙っている。
店一軒だけの小さな商家の娘が貴族と結婚できたのだ。それだけで御の字だと、持参金を使い果たされ、実家に泣きついて追い返された時にそう言われたそうだ。
それ以来、窮乏にあっても、誰の助けも来ないと、ベティの母親はただひたすら耐えている。
そのことを知ってから、ベティは母親に何も言えなくなった。
(お母さんはお母さんで大変だから、これ以上、迷惑はかけられない)
ベティも母親と同じように諦めていた。
全国各地から集まった出店の一つの商人から、木の髪飾りをもらうまでは。
(この人が本当にお父さんだったら良かったのに)
赤の他人だが、ベティはその場で木を削って髪飾りを作ってもらった時、この人がお父さんだったらいいのに、と思った。実の父親は店で買った贈り物どころか、手作りの贈り物すらくれず、威張って怒鳴り散らすか、酒に飲んだくれていた。
(なんで、お父さんはあんな人なの?)
(どうして、身分違いの恋人のいる男と婚約させたの?)
(おじさんだったら、娘にこんな真似をしないのに)
(どうして、お父さんはこんな真似をしても平気なの?)
(家が貧乏なのは、お父さんのせいなのに)
(どうして、あたしがお飾り妻にならないといけないの?)
(そんなにお金が欲しいなら、お父さんがあたしの婚約者と結婚したらいいのに)
「そんなに嫌なら、逃げちまえばいいじゃないか」
「え? なんのこと?」
商人の言葉にベティは驚いて涙が止まった。
「そんなに嫌なら、逃げちまえばいいって、言ったんだよ。お嬢ちゃんは、お飾り妻になりたくないんだろ」
「どうして、そのことを・・・?」
「全部、声に出ていたぜ」
商人は頬を染めて下を向きながら言う。”お父さんだったら、良かったのに”が嬉しかったようだ。
自分の子どもくらいの年齢の娘に理想のお父さんだと思われていたのは、いい歳したおじさんには嬉しいことらしい。
「逃げてもいいの?」
「逃げちゃ駄目な理由ってあるか? 領民がいるとか」
「領民なんかいないわ。領地なんてないもの」
「共同事業があるとか」
「共同事業なんかしないわ」
「じゃあ、逃げちまっても大丈夫だ」
安心したように商人は言う。
「どうして、逃げても大丈夫なの?」
「領民がいたら、領民の生活を壊すことになるから、逃げられねえ。共同事業をしていたら、人質みてーなもんだから、逃げられねえ。でも、違うんだろ?」
「うん」
ベティの家は宮廷からの年金だけで暮らしている。領地もなければ、共同事業をする相手もいない。
祖父が当主だった頃は宮廷に出仕していて、なんとか貴族の面目は保たれていた。しかし、その祖父の慧眼をもってしても、ベティの父親の才覚のなさと浪費癖のせいで、持参金のある商家の令嬢と結婚しても、すぐに使い果たして没落するしかなかった。
「逃げてもいいんだ・・・」
思いがけない選択肢をベティはぼんやりと呟く。
「覚悟が決まったら、最終日の夕方に東の門のとこに来てくれ」
商人のおじさんはそう言って、ベティの頭を撫でた。こんなふうに頭を撫でたのは、ベティの母親だけだった。
◇◆◇
婚約者に20歳以上も歳上の商人と駆け落ちされた男は、当初は怒り狂っていたが、同情される風潮に気を良くして、身分違いの恋人と結婚した。
だが、同情されるだけあって、現実は甘くない。
「あれが、20歳以上も歳上の男に婚約者を盗られた男だ」
「20歳以上も歳上の男に負けた男か」
小娘に過ぎなかった婚約者が20歳以上も歳上の男と駆け落ちしたせいで、同情はされても、面白おかしく噂される始末。
これもすべては逃げた婚約者が悪いと、ベティの父親に慰謝料を請求したそうだ。
◇◆◇
さて、娘に駆け落ちされたベティの母親は、娘が駆け落ちしたと判明するや否や、彼女もまた家を出て行方知れずになってしまった。
娘の婚約者への慰謝料を支払おうとしたら、金蔓の商家出身の妻もいなくなった。
ベティの父親は怒り狂ったが、酔っ払いの戯言を執事は無視した。
そのベティの母親はというと、ベティが駆け落ちした相手だと噂された商人と仲良く暮らしている。彼女は娘から商人が逃げる手助けをしてくれると聞いて、後から娘と商人が暮らす街に向かい、商人と意気投合したそうだ。
ベティは没落していても、貴族だから、読み書き・計算ぐらいは母親から教えてもらっていた。ベティの母親も店一軒だけの小さな商家出身だったが、このくらいの教育は受けていた。
読み書きは使用人でも奥様付きのメイドぐらいにならなければ、教えてもらえない高等教育である。商家なら読み書き・計算ができるようになって初めて、一人前の商人になったと認められるが、そこまでの道のりは簡単ではない。
金を産む卵を二つも手に入れた商人はウハウハだったが、商人はベティを恩人の商家に紹介した。優秀な人材を紹介してくれたと喜ばれ、商人は恩を返すことができた。
母親も商人の店で重宝がられたが、商人にとっては良き伴侶を得られて、それ以上に価値があった。