第1話「おかえりなさいませ」
長い間疎遠だった父が、死んだ。
その一報は、ヴィル・アセンダントが実家から貰った初めての手紙だった。今時ちょっと見ない、紙媒体の封書。それが届いて初めて、ヴィルは父親の存在を思い出したのだ。
家を妹のリーラと出てから、すでに十五年が経っている。
実家の大豪邸で暮らしたのは七歳の頃までだ。
「……変わらない家だな、本当に」
第一印象をそのまま呟き、車から降りる。
弔問客でごった返す中、穏やかな春の昼下がりが静謐に沈んでいた。厳かな雰囲気の中で、喪服の誰もが声を潜める。かなりの高齢で大往生だったそうだ。
門を入って庭を歩き、周囲を見渡してヴィルは再度驚いた。
本当に、あの日のままだ。
まるで時が止まったかのように、生家は庭も池もそのままだ。巨大な洋館と広い庭、見上げる空に普段通りの光景。今日も地球を回るオービタルリングが、雲一つない青空を横切っていた。
ヴィルはそのまま屋敷に入り、記帳を終えて式に備える。
多くのメイドたちが忙しそうに行き来し、そこかしこで偉大な事業家の死を悼む言葉が交わされている。ヴィルは敢えて家族用の控室を避けた。が、豪奢なドアを乱暴に開けて、向こうの方から大勢の前に怒号が飛び込んでくる。
「とにかく、ヒドル兄貴っ! 俺は認めねえ……月の利権を継ぐのは俺だろ!」
出てきた部屋を指差し叫ぶのは、ヴィルの腹違いの兄だ。
愛人の子であるヴィルとは違って、正妻との間に父は二人の男子をもうけた。
その片方も、ゆっくりと部屋から出てくる。
「恥ずかしいと思わんか、タルス。我が愚弟ながら、本当に嘆かわしい。人の目があることをなぜ考えん!」
「それは兄貴が強欲過ぎるからだ! 財産の大半をせしめた上に、月面まで!」
長兄ヒドル、そして次兄タルス。
昔から二人は仲が悪かったのをヴィルは思い出した。
水と油の二人が気持ちを一致させるのは、妾腹の弟をいじめる時だった。それをヴィルはよく覚えているし、忘れないだろう。
周囲がざわめく中、二人の兄は互いの襟首を掴み合う。
「お前が父上から財産を継げば、くだらぬことで全て食い潰してしまう! それが私にはよくわかるんだよ、タルス!」
「だからって、俺にあの程度のはした金で引き下がれってのか!? 世界の発展のため、あらゆる事業に出資してきたオヤジの息子が! 金じゃないんだ、俺が継ぎたいのは」
「生きていくのに不自由しない金額だ。なにが不満なんだ! なんの才能も技術もない三流作家が。お前は三文小説で父のなにを継ぐつもりなんだ!」
「クソ兄貴っ、手前ぇ!」
直視に耐えない、あさましい口論だった。
そして、放っておけば必ず暴力の行使に発展するだろう。
それはヴィルにとって、毎日のように繰り返されてきた幼少期の記憶だった。そんなものを見るために、ヴィルはこの屋敷に帰ってきた訳じゃない。
父の死を惜しんで、親族たちと悲しみを分かち合うつもりもない。
財産なんか、ハナから興味もない。
ヴィルは周囲の老人たちが二人の兄をなだめる中、奥の庭へと向かう。
「ここも全然変わらない……なにもかも、変わってない」
葬式の準備で忙しい屋敷を振り返って、改めて庭園へと向かって歩き出す。正面玄関に面した表と違って、ここは庭師以外は入ってこない裏庭だ。それでもサッカー場が何個も入るような広さで、沢山の樹木が枝葉で空を奪い合っている。
よく手入れされた裏庭だけは、いい思い出が尽きない。
母はよく、ここでヴィルと妹のリーラを遊ばせてくれた。
もともと身体が弱い上に、貧しい女だった母の唯一の居場所……それは、この裏庭だけだったのだ。
「あれ? いや、おかしいな……僕とリーラと、母さんと。そう、母さんはそこに座っていつも笑ってた」
少し歩くと、小さなベンチがある。
まるで変わった様子がなく、経年を感じさせない。今でも、腰掛けて微笑む母の姿が目に見えるようだ。
そう、いつも二人の子供を母はここから見守っていた。
そして、ヴィルはリーラと一緒に遊んでもらっていたのだ。
「そう、確かに……僕は誰かに遊んでもらってた。あれは――」
記憶の中に、その人物だけが影となって浮かぶ。
声は歪みながら反響して再生され、顔も思い出せない。
だが、確かに誰かいた。
女の子、少女だ。
年上の少女が、ヴィルと遊んでくれていた筈だ。
そのことを、この場に立って初めて思い出した。
唯一の尊い思い出、父の死を理由に訪れた本当の理由……それは、この裏庭に来ること。ここで、思い出を拾うことだ。ここにヴィルの、母との思い出が埋まっている。あの日、四人で……そう、確かに母とリーラと自分、そして追憶の少女と四人で裏庭に埋めたのだ。
それなのに、忘れていた。
忘れたことすら知らなかった。
その女の子とは――?
刹那、背後で声がした。
「あの、ヴィル様……失礼ですが、ヴィル様ですか?」
振り返るとそこに、意外な顔があった。
本来、ここにいないはずの顔だ。
本当はよく見れば、全く違う相違点がわかりやすいのに……センチメンタルな気持ちを引きずっていたヴィルは絶句する。
そこには、メイド服姿の少女が立っていた。
彼女は、大きな目に涙を浮かべて歩み寄り、すぐに駆け出した。
「ヴィル様! おかえりなさいませ、ヴィル様っ!」
「き、君は……まさか、そんな! いや! 君は!」
「はいっ、わたしです……ヴィル様が幼い頃から、奥様と一緒にお世話していた、第三夫人付きのオールワークスメイド、わたしは――ふぎゃっ!?」
驚くヴィルに両手を広げて走ってきたメイドは、転んだ。
そのまま顔面から芝生に突っ伏して、固まる。
その背後に伸びるものを見て、ヴィルは理解した。そして、ようやく思い出の欠けた最後のピースをパチリとはめる。
彼女の名は――
「あ、ああ……君は、メイドの……そう、メイドロボットのティア。ティアだね?」
起き上がったメイドは、ロボットだった。
それも、今の世では少なくなってしまった、極めて特殊な世代のロボットだ。
その証拠が、彼女を地面とキスさせたのだから。
それでもティアと呼ばれたメイドは、満面の笑みで起き上がる。
「覚えててくださったのですね、ヴィル様。はい、ティアです! メイドのティアです!」
「ご、ごめん……忘れてたんだ。今まで、ずっと。でも、思い出せたよ。よく小さい頃、僕やリーラと遊んでくれたね」
「はいっ! お世話させていただいて、とても幸せな日々でした」
ティアの両耳は、メカニカルに伸びたアンテナになっている。
それが、あまりに人間らしい可憐な美貌とのミスマッチで、陽光を反射していた。
そう、よく見ればロボットだ。
あまりに表情が多彩で、その見た目は人そのものだ。
そして、本当に似ている……瓜二つだ。
でも、嬉しさのあまりパタパタと羽撃くように揺れている耳のアンテナは、ロボットそのものだった。そして彼女は、感極まって「ヴィル様!」と抱きつこうとして、再び転んだ。
それが、ヴィルの十五年ぶりの里帰りでの再会。
メイドロボットのティアとの日々の再開だった。