2039年8月 進んでいく真昼
「おにい早く早く! 始まっちゃうよ!」
「十分急いでるって」
コンサート会場の階段を駆け上る僕の先では、妹の柚が必死に手招きしていた。
妹は外行き用の洒落たワンピースを着て、可愛らしい髪飾りも付けている。いつものTシャツ短パンという男子のような格好とはまったく違って、本人の張り切り度合いが伝わる。
対する僕は中学校指定の夏制服を着ている。普段と違うのは着崩していないところくらいだ。オーケストラを聴くための私服なんて、どれを選べばいいかわからなかった。
階段を上りきると柚が僕のシャツを引っ張り、恨みがましい目を向けてきた。
「なんでトロトロしてんの!? もう真昼お姉ちゃんの番かもしれないんだよ!」
「こっちは部活終わりで疲れてんだよ」
「根性なし! っていうか部活なんて休めばいいじゃん!」
「バカかお前。県大会の予選中だぞこっちは」
「~~っ! せっかく招待してもらったのに! 間に合わなかったらおにいのせいだから!」
柚は暴風みたいな怒声を叩きつけると僕を引っ張って歩き出す。そんなにおかしなこと言ったつもりはないんだが。
二階席に繋がる扉の前に来ると、微かな音が聞こえてくる。防音がしっかりしているとはいえ、この向こう側で演奏しているのは本格的なオーケストラだ。
真昼は今日、とあるオーケストラのツアー公演にゲスト参加している。一曲だけの特別演奏とはいえ、中学生がピアノ協奏曲の奏者に抜擢されるのは異例だ。しかもMR――複合現実と呼ばれる、仮想空間と合わせた演目を披露でピアノを弾くことになっている。
正直今でも信じがたい気持ちが残っているが、ここまで来ると現実なのだと実感した。
あの真昼が、プロの演奏家たちに混じってピアノを弾く。その報告を真昼の母親から受けた僕の家族は驚愕し、皆で彼女を讃えていた。すっかり有名人になっちゃってと僕の母などは感激していた。
僕だけが、素直に喜べなかった。事実を受け止めた後、冷静に思った。
行きたくないな、と。
あわよくば休もうとも考えていたが、真昼を騙すようでそこまではできなかった。
「良かった、間に合いそう!」
柚は時間を確認してほっと一息つく。それから重々しい扉をゆっくりと開けた。
鼓膜を揺らすのは、雨が屋根を叩くような音だった。ちょうど曲が終わったようで聴衆が拍手を送っている。
僕と柚は二階席の端を移動し、指定席のある列へと腰を低くして入り込む。既に座っている観客達の前を会釈しながら通り抜けていくと、僕らに手招きする人がいた。母だ。
「遅かったじゃない」
「おにいのせいだよ」
「でも間に合ったろ」
柚は不満げだったが、僕は無視して指定席に座る。ホールでは楽団の面々がそれぞれの楽器を持って次の演奏に備えていた。一際目立つ黒いグランドピアノの前にはまだ誰もいない。
指揮者が聴衆の方を向いた。すると舞台袖から、白いドレスを着た少女が颯爽と現れる。
――あれが、真昼……。
幼馴染は化粧をしているせいかとても大人びて見えた。白いドレスも女性らしい丸みと清楚さを醸し出している。
背筋を伸ばして歩く真昼は、グランドピアノの前に立つと観客席の方を向いた。指揮者が真昼を手で示すと、割れんばかりの拍手が起こる。お辞儀をした真昼は微笑みを浮かべていた。
いつもの幼さが微塵もない。緊張を跳ね除け自信を誇示する、ピアニストとしての力強さに満ちている。凛とした表情はまるで別人みたいだ。
真昼は椅子に座り、優雅な仕草で鍵盤に触れた。
「おにい。ギア、ギア」
脇腹をつつかれて気づく。慌ててリュックの中からカイロスギアを取り出し、頭部に装着した。ギアを起動させ、ホールから発信している暗号通信と同期させる。
景色が一変した。木造のコンサートホールは一瞬にして青々とした大地になる。オーケストラの面々は緑輝く草原に椅子を置き、演奏に臨もうとしている。壁も天井も消え去って、見上げれば雲一つない真っ青な青空が浮かんでいた。
僕らの席も変貌している。観客席は二階建てのステージに変わり、硬いベージュの椅子は丸太を削った腰掛けになっている。
全ては電気信号が作り出す虚像だ。カイロスギアを通すことで周囲の光景はヴァーチャル映像に置き換わる。ただし人間や楽器などの物体はそのまま映し出されるので、仮想空間と現実が重なった状態になる。
この仮想空間と現実が融合した映像体験をMR――複合現実という。
どこからか小鳥のさえずりさえ聞こえてきそうな雰囲気の中、若い指揮者がゆっくりとタクトを振る。真昼がピアノを弾き、追随するように他の弦楽器、管楽器が演奏を開始する。
――演目はモーツァルトの、ピアノ協奏曲二十三番第三楽章。
リズミカルな楽曲が青空と草原によく合っている。ピアノの踊り跳ねるような旋律が殊更に気持ちいい。真昼の指がなめらかに動き、一分の狂いもなく音を紡ぐ。その美麗な指使いからくる鮮やかな音楽は、見る者の心を明るくさせる。
隣を見れば柚も母親も、他の観客も優しげな笑みを浮かべていた。
オーケストラの実力もさる事ながら、やっぱり真昼の技術に惹きつけられる。MRはあくまで音楽体験を引き立てる舞台装置でしかない。
わかってはいたけど、真昼は凄い。十五歳でここまで堂々と演奏し、人々を感動させるソリストは日本でも真昼だけかもしれない。
ちくりと、何かが心を刺激した。意識しないように努めても、徐々に痛みは増していく。
原因はわかっている。これは僕の勝手な劣等感だ。
幼馴染は僕とは違う世界に立っている。学校では普通に接しているけど、それは向こうが学生として振る舞っているからだ。大人の世界に踏み込めばもう、真昼は一人のピアニストとして自分を律する。
僕とあいつとの距離は、どんどん離れていく。オーストリアに行ってしまったら物理的な距離はもちろん、精神的にもまったく同じ位置にはいないかもしれない。
果たして、帰ってきたあいつの隣に、僕の居場所はあるのだろうか。
そんなことを気にする自分が、とてもちっぽけで情けない生き物に思えた。
もう認めるしかない。僕は、真昼の眼中から外れてしまうことを、恐れている。