2042年9月 転校生を保護する
雨宮深月という転校生はクラスに馴染んでいる――そう思っていたけれど、しばらく経って状況が変わっていたことに気がついた。僕の知らないところで、彼女の環境は悪化していた。
雨宮は誰にも話しかけられなくなっていた。休憩時間も昼休みもぽつんと一人で席に座っている。遠巻きから雨宮を眺めてくすくすと笑っている女子も見かけた。
どうやら花崎のグループから外されただけでなく、標的にされてしまっているらしい。
彼女に対する陰口は僕のところまで届いた。両親が離婚していることやそれが原因で転校してきたというプライベートな情報まで漏れていた。父親の浮気、母親のネグレクト、多額の借金などなど。色々な理由があったので、好き勝手に脚色されているのかもしれない。
伝え聞くところによると、花崎たちとの遊びの途中に雨宮がいきなり帰宅したことが原因のようだった。しかも花崎が心配する連絡を無視して、その後も素っ気ない態度を取ったことが花崎の怒りを買っている。興味ないなら最初から断れよ、と取り巻きの女子が憤っているのも聞こえてきた(どうでもいいが僕は存在感が薄いので、寝たふりをしていると周囲の連中が無警戒になったりする)。
雨宮がそんな行動をしたことに微かな驚きはあったが、もし言われている通り急に帰られたり、気遣いを無視されたらそれは誰でも怒るだろう。
だけど完全に外野にいる僕としては、本当に花崎が正しいのか疑問だった。別に雨宮の肩を持つわけではないが、雨宮が帰ったのはそもそも花崎の態度に原因があったという可能性もある。何より、どんな理由であれ花崎のやっていることはいじめで、肯定する気は起きない。
ではどうするか――どうもこうもない。僕は赤の他人として振る舞い続ける。奇妙な縁があったとはいえ、急に同情して馴れ馴れしくされても雨宮も困るだろう。
なにより僕自身がクラスのはみ出しものだ。余計な接点を作れば、花崎らに玩具を与えてしまいかねない。
だから僕は、何もしないことを選ぶ。選ぶしかない。
でもきっと、真昼が生きていたなら。
こんな体たらくの僕を、叱り飛ばすんだろうな。
***
弁当箱を片手に第二校舎の階段を上っていたとき、いつもと違う変化に気づいた。
階段を上りきった三階の角部屋は音楽室だ。普段は施錠されているはずが、今日はドアが開いていた。吹奏楽部は昼休みに集まったりしないので、音楽教師が開けたのだろうか。
少し気になって、音楽室に近寄ってみる。風を受けたカーテンがゆらゆらと揺れていた。
窓際のグランドピアノの前に誰か立っている。長い髪の女子生徒だ。
彼女は細くしなやかな指で鍵盤をなぞっていた。横顔は反射光でよく見えない。
目を細めてみると、ぼやけた輪郭が定まり――そして僕は、息を呑んだ。
――……真昼?
真昼が立っていた。
なぜ。こんなところにいるはずないのに。あいつは、死んだのに。
ガシャンと乾いた音が鳴って、肩が跳ねる。手が緩んで弁当箱を落としていた。
ピアノの前にいた少女が振り返る。はっきりと表情が見えて、僕は戸惑うしかなかった。
「……竹田くん?」
雨宮が怪訝そうに確認する。彼女はピアノに触れながら、僕を見据えていた。
僕はなにも言えず、シャツの袖で自分の目をごしごしと擦る。もう一度雨宮を確認する。どこからどう見ても真昼には見えない。
「どうしたの……変な顔して」
「僕は普通だ」
声には苛立ちが混じっていた。雨宮が柳眉を上げたのに気づいて、咄嗟に話題を変える。
「雨宮こそ、どうして音楽室にいるんだよ。前みたいにピアノを弾きにきたのか?」
「……違うわ」
小さく、それでいてハッキリした否定の声音だった。
気まずいのか、雨宮が視線を逸らす。そのとき彼女が後ろ手に何かを隠し持っていることに気づく。少しだけ角度を変えて確認すると、可愛らしい包みが見えた。
――ああ、そういうことか。
今は昼食の時間だ。学生はだいたい教室で昼飯を食べるので、本校舎から出ることはない。しかし中には、音楽室や理科室といった選択教科専用の第二校舎で昼飯を食べる生徒もいる。おそらく雨宮も同じ目的なのだろう。
雨宮の事情を知っている分、少々申し訳なくあるが、何も知らない転校生には伝えておいたほうがよさそうだ。
「音楽室は飲食禁止になってる。他を当たったほうがいい」
雨宮は目を見開き、うつむく。
「そ、そうなんだ」
「うん」
沈黙が流れる。気まずい。
仕方なく僕は落としていた弁当箱を拾う。「それじゃ行くから」
「ま、待って!」
雨宮は下を向き、スカートをぎゅっと握りしめていた。
「お弁当を持ってるってことは、その、竹田くんもどこかで食べるつもり、よね」
「ああ、まぁ。場所は被服室だけど」
雨宮は「被服室?」と首を傾げる。疑問に思うのはわからなくもない。
僕は手短に、手芸部員だから昼休みも部室が使えることを説明した。
「あなたが手芸部? ほんとに?」
「なんで胡散臭そうなんだよ。似合わないとかそういうので判断してないか」
雨宮はぶんぶんと首を振る。でも目が泳いでいた。
確かに僕なんかが女の子が集まりそうな部活に入っているのは、イメージとしてはおかしいだろう。僕個人の事情がなければ絶対入部していなかったと断言できる。
「補足すると、幽霊部員。数集めで声かけられたんだ。実際はなにも活動してない」
省略したが、VR恐怖症の僕には入れる部活が限られる、という問題も絡んでいる。
運動系も文化系も今やVRを使ったイメージトレーニングが盛んで、VR上でのシミレーションや作戦会議も頻繁に行っている。歴史研究部なんて丁度いい緩さだと思ったのに、VRで仮想戦国時代に入り浸っているというのだから、どれくらい前提になっているかがわかる。
だから僕は帰宅部一択だったのだが、今の部長から部として存続が危ぶまれているので人数合わせに入ってくれないか、と声をかけられた。迷ったものの、昼時の食事場所というメリットが提示されたので入部を決めた。幽霊部員ならそもそもVRを使う場面も来ないし。
「それならそうと最初から言ってくれれば」
「言う前に疑ったのはそっちだろ。それで、もう行っていいかな」
「だから、待って」
やけに食いついてくる。僕が腰に手を当てると、雨宮は恐る恐るといった風に聞いてきた。
「そこ、部活に所属してない人でも使っていい、ですか?」
「んん? いや、一応は部員が使うって名目だけど、部長次第で――」
言葉の途中ではたと気づく。雨宮の視線には淡い期待感があった。
少し、喋りすぎたかもしれない。
面倒なことになる予感がしたが、さりとて無視もできない僕は、確認のために聞いた。
「場所を提供してほしい、ってことでよろしいか」
「っ……まだなにも言ってないけど」
「顔に書いてある」
雨宮は目を伏せて黙ってしまう。煮え切らない態度に少しだけヤキモキした。
なんでそこで黙る。さっさと言えばいいのに。どうして欲しいか伝えてくれないと、こっちもなにもできない。
……いや、違う。これではまるで、助けること前提で待ってるみたいじゃないか。
「あのさ、そろそろ昼休みも終わるし――」
「竹田清春、さん。お願いがあります」
僕の声を遮り仰々しく告げた雨宮は、静かな足取りで僕に近づいてきた。
正面に立った雨宮は決意の目をしている。
「手芸部に入部したいので……私を、部長に紹介してください」
「……んん?」
あれ、予想より大事になってる。
「入部? そんな流れだっけ?」
「だって部員じゃないとお昼休み使えないって」
「それはそうだけど、まずは部長に口利きを頼むとか。昼だけ使わせてくださいとかさ」
「私だけ特別扱いは駄目だと思う。ルールは守るべき」
真面目かっ。そう突っ込もうとしたとき、記憶のテープが再生された。
『あたしだけ特別扱いっていうのも駄目だから。ルールは守らないとね』
あいつは律儀な奴だった。どんなに忙しくても自分の都合で予定を変えさせることはしなかったし、友人の頼みでもチケットを取ったり関係者に会わせたりはしなかった。
授業を休んだ分はきっちりと補講を受けて、宿題もやり通した。教師はプリント提出だけでもいいと提案していたが、真昼はそれをはっきりと断った。
確か、そのときに聞いたんだっけ。
「竹田くん?」
ぼんやりしていた僕は、少しだけ頭を振る。
こんなときになぜ真昼のことを思い出すんだろう。さっきの幻視といい、今日はちょっと変だ。疲れてるのかな。
眉間を揉み、雨宮を確認する。彼女は真剣な眼差しを送っていた。引く気はないらしい。
「あのさ、そんな簡単な理由で部活決めるのはどうかと思うんですよ。他にも魅力的な部活はあるし」
「特に行きたいところはないから」
「いや、音楽系の部活に入るとか」
「ピアノはもう辞めたって言ったはず」
「ああ……でもさぁ」
「それに今は、どこに行っても同じような環境になるから……」
雨宮は語尾を濁していた。それで僕は察した。
交友関係の広い花崎なら他クラスの女子にも雨宮のことは伝えているだろうし、どの部活も居づらい可能性はある。その点、手芸部なら人数が少ないし、花崎のようなタイプの生徒とは交流がない人ばかりだ。安全かもしれない。
しかし、別の問題がある。僕が手を差し伸べたとき、彼女の状況が更に悪化しやしないだろうか。僕なんかと関係してはまた悪い噂が立ちそうだ。
逡巡を察知したのか、雨宮は肩を落とす。
「……ごめんなさい。私が入ってきたら困る、よね。竹田君だって色々苦労してるのに、私が同じ部活に入ったらまた嫌なことになるかもしれない」
「嫌なこと? 僕の?」
雨宮はハッと顔を上げた。しまった、とでも言いたげな気まずさが浮かんでいる。
「それって、VR恐怖症の話か」
「あ、それは」
「VRを怖がる曰く付きの男子生徒。気難しくて自ら距離をとり続ける根暗そうな病気持ち。そんな話か?」
雨宮はもうなにも言わなかった。それが逆に肯定を示している。
彼女はどうやら、僕に同情している。
自分が近づくことで、僕が更に厄介者扱いされるのではないかと危惧している。
それを言うなら自分の心配が先だろう。僕みたいな人間と一緒に居たら更に陰口を叩かれるかもしれないって、どうして想像できないんだ。実際に休日の遭遇は隠したじゃないか。あのときみたいに関係することがデメリットだと判断すればいい。
それとも、承知の上で僕に頼ってきているのか?
雨宮の考えがわからなくて、なんだか苛ついた。
「……今更だ」
「え?」
「雨宮が近づこうと近づくまいと僕の評価が底辺なのは変わらない。いつも独りでいる面倒そうな奴で間違ってないし。そのイメージが強くなったところで、今更だよ」
雨宮は呆気に取られたようにポカンとしていた。僕は音楽室の時計を確認する。ぐずぐずしてると飯を食べる時間がなくなってしまう。
「早く行こう」
「ど、どこに」
「被服室。今なら部長もいるだろうし、そこで入部を伝えればいい」
ポカンとした顔が更に強調された。次第に雨宮の頬が紅潮していく。
「あ……あり、ありりがと」
「噛みすぎ」
雨宮はムッとしてそっぽを向く。その反応が面白くて、これから先の憂鬱な展開は頭の隅に押しやることができた。まぁ、なるようになれだ。
「とりあえず付いてきなよ」僕は先導して歩き始める。しかし足音は一つ。
振り返ると、雨宮が音楽室の入り口で立ち止まり後ろを向いていた。視線はグランドピアノに注がれている。
「弾きたかったら、そうすればいい」
彼女の後ろ姿が、まるで別れを惜しんでいるようだったから。未練があるのかと思って、つい本音を口にしてしまった。
「あれだけの技術があるのに、もったいない。続けてもいいと思うけどな」
少しとはいえ幼馴染(天才ピアニスト)の演奏に聞き間違えるほどだった。通行人の足を止めるほどに感動を与えていたことも事実だ。僕は素人だけど、十分プロを目指せる水準にあるように思う。
雨宮はしばらく黙っていたが、ゆっくりと首を振る。「もういいの」
「私はこれ以上、うまくなれないから。続けたってプロになれないし、母も苦しめる……あれだけ喧嘩の原因になったのにまだやるのかって、言われたくはない。手が届きそうだったらきっと、両親も離婚してないわ」
不意に放り投げられた発言で、口の中に苦いものが広がった。
背景がはっきりと読み取れたわけではないが、どうも雨宮の両親の離婚には、彼女がピアニストとして大成できなかったことが関与しているようだ。
考えてみればあれだけの技量があっても諦めるのだから、相応の理由があったに違いない。
地雷を踏んでしまった気まずさで身体を固くしていると、雨宮が歩き出した。
「ごめんなさい、変なこと言って」
「あ、いや……」
「早く行きましょう」
雨宮は僕の前を歩き始める。どこか涼しげに、しかし瞳の奥に苛烈な意思を宿して。
その後ろ姿に、胸の奥がチクリと痛んだ。
三十分後、雨宮は被服室にいた部長に認められ、晴れて手芸部員となった。