2039年6月 真昼の決意
「うーん、止むかなこれ」
コンビニの軒先を借りて雨宿りしながら、ざぁざぁ降る雨を眺める。部活帰りに突然雨に降られたので咄嗟に逃げ込んだが、止むまで待つか、傘を買うか迷うところだ。
――それより腹減ったなぁ。
ぐうと鳴る腹を押さえる。仕方ない、傘を買うついでに何か腹に入れるか。
そう決めて入口の方へ振り向くと「よっ」真昼の顔があった。
「どわぁ!」
思い切り仰け反ったせいで転びそうになる。僕は慌てて後退し、距離を離してから向き直った。幼馴染はニヤニヤと愉快そうに笑っている。
「な、なんでいんだよ」
「なによーいちゃいけないの?」
心外だと言わんばかりに真昼が眉を寄せる。
僕は急に現れた真昼への驚きをなんとか抑えて、彼女をしげしげと観察してみた。半袖セーラー服の肩、それに髪の毛が若干濡れている。
「お前も雨宿りか?」
「当たり。レッスン帰りに急に降られちゃってさ」
真昼は僕の隣に並ぶと濡れそぼった前髪をいじる。ということは彼女も傘を忘れたのだろう。
気温が低いからか真昼の頬は白い。濡れた髪が張り付いた首筋が、やけに生々しい。
唇は柔らかく艶があった。無防備なその口を塞ごうと思えばできてしまうかもしれない。
そんなことをしたら、真昼はどんな顔をするだろうか。
「ところで春ちゃん」
「ひゃい!」慌てすぎて変な声が出た。
「なにしてんの」真昼が訝しんだので、僕はむせるフリをしながら口を手で覆う。
「なんでもない……で、なに?」
「ん」
真昼が握り拳を出してくる。あ、察し。
「さいしょは」「ぐー」
互いに拳を出して引っ込め「じゃんけん、ぽん!」叫ぶ。
真昼はぐー。僕はちょき。
「やった!」「くっそ」
あーあ、真昼がぐーを出す確率が高いことをすっかり忘れていたな。
「ほれほれさっさと買ってきな負け犬」
「大勢のファンがいる真昼さんがそんな口調でいいんすかね」
「別に清純アイドルやってるわけじゃないもん。それに春ちゃんの前だけよ」
言おうとした台詞がスポンと抜け落ちてしまった。なんとなく釈然としないものの、僕はため息を吐いて店に向かう。
「真昼はミントアイスだっけ?」
「お願いしまーす」
気楽に手を振る真昼に「へいへい」と答えて僕は店内に入る。ミントアイスとおにぎりを持ってレジに並んだ。傘は買わなかった。ちょっとだけでも幼馴染と一緒にいる時間を選ぶ。
順番を待っていると、ふと懐かしさがこみあげてくる。僕は一時期、真昼と同じピアノ教室に通わされていた。才覚を現した真昼と違って僕は数年で辞めてしまったのだけど。その数年間、僕と真昼はピアノ教室の行き帰りを一緒にいるよう親に義務付けられていた。
退屈な道中、僕らは数少ないお小遣いを掛け金にして熾烈なじゃんけん対決を繰り返した。帰りのおやつを巡ってコンビニの軒先でぎゃーぎゃー騒いでいたわけだ。
レジで精算してから真昼の元に戻る。彼女はスカートを折ってしゃがみ込んでいた。
「ほら」
片手に持ったミントアイスを差し出すと、振り向いた真昼は僕が持つおにぎりを凝視した。
「それ夕飯?」
「まさか。夕飯はちゃんと家にある」
「育ち盛り恐るべし」
呆れたように笑った真昼はアイスを受け取る。僕は一応迷惑にならないよう店の隅に移動した。真昼はしゃがみ込んだまま包装を剥がしたアイスをなめる。
それからは他愛のない話をした。僕は部活の大会が近いことを話して、真昼はコンクールで出会ったライバルの話をした。クラスメイトの恋路とか、受験勉強のことも。
中学生になってからの真昼は、その天才ぶりから新聞やニュースのインタビューを受けるようになった。容姿がいいからかティーンズ向けファッション誌でもモデルと対談したり写真撮影を受けたりして、まるで遠い世界の住人のように過ごしている。聞けば同世代の女子で結構なファンが付いているらしい。
でも、こうして話をする真昼はやっぱり真昼のままだ。幼馴染はなにも変わらない。
とはいえ忙しい真昼と二人きりになれる機会も激減している。この場で言うべきだろう。
「残念だったな」
唐突すぎたせいか真昼がぽかんとする。ややあって彼女は「あー」と気づいた。
「修学旅行のこと?」
「まぁ」
「うーん……仕方ないよね」
達観したような口ぶりに熱は込められていなかった。
アイスを握りしめた真昼は雨の降る街並みを眺める。
「春ちゃんも楽しんできてね」
真昼は愛想の良い台詞を呟いて微笑する。友人たちに向けたように。
なぜか癪に障った。そういうのを僕にも向けないでほしい。
「沖縄なんて珍しいところじゃないだろ」
「またそんなこと言って。一生に一度なんだよ?」
「いつ行ったって変わるもんか。一生に一度しか行けない場所じゃないだろ」
持参していたスポーツドリンクをぐいと飲む。飲み干してから、空いている手を真昼の頭に置いた。真昼はくすぐったそうに首をすくめる。
「行けるときに行けばいいんだよ。友達とも、クラスの連中とも……僕とも」
最後のは恥ずかしすぎて小声になった。けれど真昼の顔はそこでパッと変わった。まるで花が咲くみたいに。
「へぇー。ふーん。ほーう」
「な、なんだよ」
「春ちゃんはそんなにあたしと沖縄行きたいのかーって」
「誰がんなこと言った」
思い切り否定すると、真昼はくすくすと笑う。それから立ち上がり、軒先から顔を出した。雨は小降りになっている。
振り返った真昼は微笑んでいた。
なぜか、悲しさを堪えるように、口元が微かに歪んでいた。
「とっても嬉しい。ありがと……でも、すぐには無理かな」
「無理? なんでだよ。忙しいたって限度が――」
「あたしさ。多分、オーストリアに行く」
一瞬、雨音が遠ざかった気がした。
「リンツにある音楽専門学校から留学のお誘いが来てるの。そこで三年くらい勉強すれば音楽院の教授と面識もできて推薦を受けやすいからって……だから、しばらく日本を離れる」
何も言葉が出てこなかった。何を言えばいいかわからなかった。
オーストリア。留学。単語のインパクトが強すぎて、感情がついていかない。
「家族以外では、春ちゃんに先に教えておきたかった」
真昼が食べかけのアイスを僕に突き付けてくる。思わず受け取ってしまうと、真昼は「あげる」と言って帰路の方へ歩き出した。
「でもね、春ちゃんが計画した旅行は何年経っても絶対に参加するから。ちゃんと忘れず計画して、あたしに連絡するんだぞ? 約束ね!」
真昼は笑顔で伝え、走り去っていった。
残された僕は、渡されたミント味のアイスを見る。半分くらい残っている。
僕はそれをどうすることもできず、溶け落ちるのを眺めるしかなかった。