雨宮深月の孤独
「ただいま」
玄関のドアを開ける。小さな声は廊下に反響して消えた。
ローファーを脱いで玄関からリビングへと向かう。電気はついていない。照明を付けると、朝と同じ光景が私の目に映った。残暑の熱気がこもった部屋は、誰も帰っていないことを物語っている。
キッチンには一枚の紙切れが置いてあった。
『今日も残業で遅くなります。晩ご飯は冷蔵庫の中にあるので、温めて食べてください』
繊細そうな文字を手の中で丸めてゴミ箱に放り込む。
自室に入って、中央に置いた大きめのロッキングチェアに腰掛ける。父が残していった、数少ない思い出の品だ。
エアコンの電源をつける。顔の火照りが、冷風によって収まっていく。
「……どうして私、あんな風に弾けたんだろ」
鍵盤に触れた感触が、躍動感が、音と一つになる一体感がまだ残っていた。
今更、手の震えが来てしまう。
ピアノを弾いたのはほぼ一年半ぶりだった。自宅のピアノは処分して、外でも見ないようにしてきた。ピアノを捨てた人間だから、触れるなんておこがましいとすら考えていた。
でも今日は、衝動的に触れてしまった……むしゃくしゃしていたから。
花崎華という女子に誘われるまま遊びに出かけたけれど、誰かの噂や悪口で盛り上がることについていけなかった。しかも私に対しては両親が離婚していることをわざとらしく聞き、何かあったら相談に乗るよと恩着せがましく言ってきた。
私から両親の離婚を喋ったことはない。どこかから噂を仕入れて、それを本人に聞いてきたことになる。
なぜ彼女は、私が隠していたかった、他人に触れられたくなくて黙っていたと想像できなかったのだろう? 他の女子がたくさんいる中でずけずけと話してなにがしたいの?
意味がわからなくて、カーっと頭に血が上がって、気づけば私は途中で逃げ帰っていた。
誰にも何も言わなかったし、連絡も無視した。
それで一直線に帰るつもりだったけれど、駅前でピアノを見つけたとき、私はふらふらと近寄ってしまった。演奏を、始めてしまった。
過去にもよくやったことだ。ピアノに没頭すればその時間は色々なことを忘れられるから。両親の喧嘩の声だって無視することができた。それは私の逃避で、だからこそ一年半ぶりにも関わらずまた逃げてしまったのだろう。
意外だったのは、あんなにも人々を立ち止まらせていたことだった。拍手までもらえた。
自暴自棄でリズムも強弱も意識していなかったし、一年半ぶりのピアノだから演奏力だってガタ落ちしていたはずなのに。
むしろプロを目指していたときよりも、観客の反応はよっぽど良かった。
もしかして。適度に距離を置くことで、いい意味で力が抜けて――
――……うざい。
何かを期待しそうになる自分が嫌だった。きっと偶然が絡んだ結果に違いないのに。
生半可な気持ちで到達できないことなんて、彼女になれないことなんて、痛いほどわかっている。
ため息を吐き、勉強机の引き出しからカイロスギアと薄いグルーブを取り出す。グローブをはめてからロッキングチェアに腰掛けて、頭にギアをつける。
「オンライン、スタート」
声と共に、視界に映っていたクリーム色の壁面が白一色に染まる。私は白い空間の中に座っていた。ピコン、という電子音と共に色鮮やかなアイコンが浮かび上がる。その一つを指で突く。ハプティクスグローブをつけているので、薄いガラスを触った感触が返ってきた。
すぐに機械音声が聞こえてくる。
『イミテイトを起動します。コンテンツを選択してください』
「第百三十四回日本クラシック音楽コンクール選抜試験、ピアノ部門中学校女子の部の間藤真昼の演奏」
『該当コンテンツと開始時間を確認。アクセスします。感覚変化にご注意ください』
数秒後、私の視界は変化した。
白壁も青空も消え去り、薄暗い空間に切り替わる。漠然とした何もない空間ではなく、色んな人工物が置かれ天井も備わっている。照明がベージュのカーテンを淡く照らしていた。
視界には白と黒のコントラストが映る。ピアノの鍵盤を、白いグローブをはめた手がそっと撫でるように触り、定位置に指を置く。
その行動に私の意思は介在していない。私の視覚も聴覚も触覚も、別の人間が見て、聞いて、触った感覚に置き換わっている。
イミテイト――没入型一人称VRとも呼ばれる技術は、モデルになった人の体験をそのまま体感させてくれる。現実の私はロッキングチェアに深く腰掛けてじっとしているだけなのに、身体はまさにピアノ演奏を始める前の緊張感に包まれていた。
モデルになった人物――間藤真昼という少女が静かに息を吸って、止めた。
細くしなやかな指が鍵盤を叩く。
その躍動も衝撃も、寸分の狂いなく私の指に伝わる。音と一緒に心臓が踊る。
演奏曲はショパンの幻想即興曲。難易度の高い曲ながら、モデルの少女は完璧に弾いていく。これが何度も撮り直した末の最高の出来ならともかく、コンクールだから彼女は一回きりでこれを収録してしまったのだ。
――やっぱり、違う。私なんか、足元にも及ばない。
かつて自分に絶望を与えた音が、今では最上級の至福を与えてくれるのだから皮肉な話だ。
ピアノを弾く滑らかな指捌きが私の指に振動として伝わる。指は一切動かしていないのに、まるで実際に弾いているような実感をもたらす。これもハプティクス技術の恩恵だ。
力強さと美しさを兼ね備えた完璧な演奏が続く。視線はピッタリと鍵盤に向けられて動かない。普通の人にはつまらない映像かもしれないけど、私にとっては芸術を鑑賞しているのと同じで、心が潤っていく。
――私は今、真昼さんになってる。
膝の上に置いた指が、鍵盤を弾く動作をなぞる。そうすることで体内に溜まった泥が洗い流されていく。いつまでもこの幸せに浸っていたい。
ああ、でも駄目。曲が終盤になる。現実に戻る時間が来る。
余韻を残しながら、演奏は終わった。
カイロスギアを外して重たい腕を投げ出す。喪失感に似た感覚だった。真昼さんの演奏を体験した後だとどうしてもこの世界が色褪せて見える。連続してプレイしたいけど、イミテイトには連続ログイン制限があるので時間を置かなければいけない。
「ずっと、イミテイトだけできたらな」
呟きは、熱気の残る部屋に消えていった。
いっそ学校に行かなければと考えてみたが、母親の手前それはできない。きっと今日のことで花崎さん達の態度も変わるだろうから、教室はもっと居づらくなるだろう。
それでも真昼さんのイミテイトがあれば我慢できる。なかったらと思うとゾッとする。
――……あの人は、どうなのかな。
脳裏を過ぎったのは、ピアノ演奏中に遭遇してしまったクラスメイトの少年。VR恐怖症という精神的な病気のせいでカイロスギアが使えず、誰とも打ち解けずにいる男の子。
彼の事情は花崎さんから聞かされていた。一年生のとき同級生に面白半分でカイロスギアを装着させられて嘔吐し、乱闘騒ぎになったこと。騒動後は誰とも喋らず、近づく人もいなくなって孤立し始めたことも。
花崎さんは彼の陰気な性格を蔑んでいたけど、私は同情しかできない。
彼は――竹田清春という少年は、なにを考えて生きているのだろうか。取り巻く環境は辛いことばかりで、鬱憤を溜めるばかりなのに、私のようにVRに支えてもらうことも不可能だ。
きっと世界を恨み続けてる人だ――自分勝手ながら私は彼にそういうイメージを抱いていた。
でも、今日会話した彼からは違う印象を受けた。ちょっと意地悪だけど話しやすくて、こっちの気持ちを察してくれる人だった。他人を恨んで過ごしているような雰囲気もない。普通に会話できるし、孤立しているのが不思議なくらいだった。
どうして彼は一人ぼっちなんだろう?
――……おかしいな。こんな風に、誰かを気にするなんて。
今までの私は、真昼さん以外の他人に興味はなかった。だから余計に不思議だ。
――なんでだと思う? ……真昼さん。
心の中で語りかけても、返ってくる声はない。
彼女はもう、過去の記録に過ぎない。