2042年9月 転校生との遭遇
絶句したのとほぼ同時に演奏が終了する。雨宮が鍵盤から手を離してふぅと息を吐いた瞬間、周囲の人たちが拍手を送った。割れんばかりの喝采だ。
雨宮はビクリと肩を震わせ、そろりと振り返る。ポカンという言葉が相応しいほどの呆気に取られていた。まるで、どうして拍手が送られているのかわからない、という風に。
彼女は焦ったように周囲を見回して――僕と、目が合った。
そこからの彼女の行動は早かった。脱兎の如く僕のところまで来て、僕の手を取り、颯爽と周囲の人間を置き去りにして走り出した。
ズンズンと進む雨宮に手を引かれて数分後、我に返る。
「ち、ちょっと、おい!」
駅ビルから出たところで手を離す。雨宮は立ち止まったが、背を向けたままだ。
「何なんだ!? どういうことか説明してくれ!」
必死に訴えると、雨宮がちらと振り返る。その頬はりんごみたいに真っ赤だった。
「……い、言わないで」
「え?」
「このことは、クラスの人達には、どうか内密に……頼む、頼みますから」
ものすごく弱々しい声音だった。
***
木陰のベンチに座っても残暑のせいで汗が出てくる。隣の雨宮は別の意味で汗びっしょりのようだったが。
「……竹田君、ですよね。同じクラスの」
「おう」
「竹田、清春さん」
「言い直した理由はわからないけど、合ってる」
雨宮は何かを堪えるように眉間に皺を寄せて、形の良い唇を動かす。しかし言葉が出てこない。なにを言おうか迷っているようだ。
「覚えてたんだな」
「えっ?」
「僕の名前。クラスメイトだってことも」
「……あ、ああ。そっちね。それは、うん。クラスメイトだから」
何か含みがありそうなところが気になるが、それより彼女の言葉をそのまま受け取る気にはなれなかった。自慢ではないが、転向して数日かそこらの人間に顔と名前を覚えて貰えるような振る舞いはしていなかったと言い切れる。
むしろ、悪い意味で覚えられていた、というのが妥当な理由に思えた。
「それで? クラスメイトを急に連れ去った理由は?」
「み、見られてるとは、思わなくて……口止めしなきゃって、咄嗟に」
学校の連中も使う駅ビルでその認識はどうかと思わなくもないが、今は置いておこう。口止めしなきゃいけない、なんてすぐ出てくるのは割と物騒な展開だ。
「できれば、誰にも言わないでほしい」
「どうして」
「そ、れは」
雨宮は途端に口ごもる。転校初日の彼女は割と社交的な感じだったが、今は人見知りみたくおどおどしていた。こっちが素なのか、それとも相手が僕だからか。
「はぁ……わかったよ」
肩を竦めて言う。複雑な事情があるっぽいが、別に興味があるわけじゃない。むしろここで聞いて不要な人間関係に巻き込まれる方が嫌だった。
うつむいていた雨宮がゆっくり僕の方を向いた。
「ほ、ほんと?」
「色々と事情があるんだろ?」
雨宮の目元に影が落ちる。彼女は微かに唇を噛み締めていた。
「別に答えなくていい。教えてくれないから断るなんて冷徹なこともしない」
「……ありがとう、ございます」
「その代わり見返りを要求する」
ギクリとしたように雨宮が顔を引き攣らせる。なんだその反応は。まるで僕が変態的な要求をしてきそうで身構えたみたいじゃないか。失敬な。
「缶ジュース買ってきてくれ。エナジードリンク系の。それを口止め料にするから」
僕をマジマジと見つめた雨宮は「わ、わかった」とコクコク頷いて走り出した。
やっぱり人馴れしていない陰キャっぽい。それとも、僕に関する悪い噂のせいで緊張しているのだろうか。
ため息を吐いてベンチにもたれかかる。どっちにしたって花崎たちから僕の噂は聞かされているだろう。クラスの女王はきっと、VRが使えない病気持ちで偏屈だから要注意、くらいは吹聴しているに違いない。事実だし、別にどう言われても構わない。
もしかすると、僕という人間に見られた事実が口止めの理由かもしれない。今日のことが僕の口から漏れると「竹田と一緒にいたの?」とか「もしかしてデート中だった?」なんてイジられかねない。転校したての微妙な時期にいる雨宮としては避けたいわけだ。
もう一度ため息を吐いたところで雨宮が返ってきた。「どうぞ」と缶を渡してくる。
「どうも」受け取ってプルタブを開け飲料を喉に流し込む間、雨宮は隣に座り直していた。彼女自身はお茶のペットボトルを持っている。
はて? どうして帰らないのだろう。用件は済んだのだからさっさと離れればいいのに。
反応を伺っていると、雨宮が遠慮がちに声をかけた。「竹田君」
「私のピアノ演奏、あそこで聞いてましたよね?」
「ん? ……いや、最後の方だったからあまり聞いてない。たまたま通りがかっただけだし」
若干嘘を混ぜておく。幼馴染の演奏のようで気になった、とは言えない。
雨宮はうつむき、眉根を寄せる。何か考え込むというか、悩んでいる感じだ。よくわからない態度だ。
「でもあれだけ人が集まって聞いてたわけだから。凄く上手いんだろうなとは思った。拍手までされてたし」
「そう、かな。自分ではよくわからなくて……なんであんなに人が集まったのか」
「そりゃ上手だったからだろ。昔からピアノ習ってたとかじゃないのか? まさか素人?」
「いえ、割と小さい頃から。一時期はプロを目指してたこともあって……もう止めたんだけど」
「へぇ、プロ志望。そりゃ人も立ち止まるわな」
関心すると、雨宮はびっくりしたように僕の方を見る。その頬は先程とまではいかないまでも、朱に染まっていた。
「あ、わ、私はもう行くから!」
「お、おう?」
「引き止めてごめん。今日のことは内緒で! 絶対だから!」
念を押した雨宮は駅の方に走り去っていった。
――一体なんだったんだ、あいつは。
挙動不審というか、なにを考えているか読めない子だ。ころころ表情を変える真昼に合わせて生きてきたからか、ぎこちない態度の女性には尚更どう接していいかわからない。
綺麗な顔立ちをしているのだから、堂々としていれば様になったろうに。
――まぁ僕には関係ない。
偶然から会話しただけに過ぎない。明日からはまた他人同士だ。ピアノが上手いこと、プロを目指していたという事実も誰にも伝えることはない。
――……そういや、どうしてあんなところでピアノ弾いてたんだろうな。
止めた、と言ったからには、ピアニストの夢を諦めたことになる。どんな理由があったか知らないが、それにしたって自宅にピアノくらいあるはずだ。そこで弾かずにわざわざ公衆の面前で弾いていたのは、若干不自然に感じる。実力を知らしめて悦に入っていた、という感じでもなく、純粋に周囲の反応に驚いていた。ただピアノに没頭していただけなのか。
「……どうでもいいか」
独りごちて、僕はエナジードリンクの中身を一気に飲み干す。