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2042年9月 治らない病

 夕暮れの光がオフィス街をオレンジ色に染めている。喫茶店のテラス席から眺める光景はどこか哀愁が漂っていた。

 チェアに座る僕の目の前には垣根があって、そのすぐ先は歩道だ。サラリーマン達の間を、学校帰りの小学生達が笑い声を上げながら走り去っていった。

 残暑の熱気を孕んだ空気が僕の肌を撫でていく。コーヒーの香りが鼻孔をくすぐる。垣根の間に咲いている椿の赤が鮮やかだった。

 掌を見つめる。汗は滲んでいない。リラックスできている。なにも不安じゃない。

僕は普通だ。僕はちゃんとできている。

 このまま何も起こるなと願う。治ったことを祈る。

 あいつの、真昼のイミテイトを体験するために――

 ピーという電子音が聞こえた。

 世界が歪む。ノイズが走ってビルも歩道も垣根も人も輪郭があやふやになる。

 苦しい。まるで海の中に放り出されたように、呼吸ができない。酸素を求めて何度も息を吸うと、胃の底から酸っぱいものがせり上がってきた。咄嗟に口元を押さえる。カップは歪んでいるのにコーヒーの匂いは同じままで、それが余計に気持ち悪い。

 駄目だ。耐えろ。このままだと終わってしまう。


『清春君。心拍数が上昇してる。ゆっくり深呼吸するんだ』


 落ち着いた声が逆に神経を逆なでする。こっちはそれどころじゃない。できるならとっくにやっている。吐き気を喉元で留めるのが精一杯だ。


『そこは君を害する場所じゃない。取り残されもしない。大丈夫、落ち着いて』


 涙が滲んで、夕焼けがぐにゃりと歪む。テラスの前を通る通行人の顔がブラックアウトする。

 嫌だ。嫌だ。ここから逃げたい。

 逃げないと僕は変わって――


『――レベルダウン。投影終了』


 全ての光景が消え失せた。夕日も人もテラスもコーヒーカップも全てが消失する。

 一瞬後、視界に映ったのは無機質な白い部屋だった。


「っぷはぁ!」


 自分の頭部を覆っていた異物を投げ捨てる。カイロスギアは白い床に当たって、乾いた音を立てながら転がっていった。

 貪るように肺に空気を取り込む。胃液が上がってきたせいで喉も痛い。

 ガチャリ、と音を立ててドアが開く。白衣を着た三十代ほどの男性が白い室内――VRルームに入ってきていた。

黒髪を綺麗に整え、ワイシャツのボタンをしっかり止めた様は清潔を絵に書いたようだ。

 医者は気遣わしげな表情で僕に声をかけた。


「清春君、吐き気や目眩は? 僕の言葉は理解できる?」

「……はい。あと、すいません、佐久間先生。ギアを、投げてしまって」


 椅子から立ち上がろうとすると「いいから座ってて」佐久間先生は穏やかに言って僕を制する。転がっているカイロスギアを拾った先生は、壁のラックにそれを置いた。


「失礼、血圧と脈拍を計るよ。できるだけリラックスしていて」


 佐久間先生が診察をする中、僕は頭を空っぽにするため努めてぼんやりと過ごした。

 微かに生ぬるい空気を感じる。白いVRルームに設置されたダクトから人工の風が流れていた。つい先程まで僕はその風を夕暮れ時の心地いい自然風だと感じていたが、今は微塵もそうは思わない。

 面白いものでVRに没入しているとまるで本物みたいに感じてしまう。コップだって、触り心地を再現するハプティクスグローブという拡張デバイスを使えば実際に持っているような触感がある。実際にはそこに何もないのにも関わらず。

 だけど、さっきの息苦しさは空調のせいじゃない。あれは僕自身から生じた苦痛だ。


「佐久間先生。今回はどれくらいの時間、耐えられましたか」

「十分弱、かな」


 舌打ちが出そうになる。前回のトレーニングより短い。

 僕の苛立ちを察したのか、佐久間先生はことさらに優しく微笑んだ。


「焦ることはないよ。ゆっくりいこう」


 その台詞は二年間のうち、何度も聞いた。最初は僕も先生の言葉を信じていたけど、今はどうしても懐疑的になってしまう。


「君の気持ちはわかる。でも以前も話したように、この症例には特効薬というものが存在しない。仮想現実適応障害という君の病は、俗に言うVR酔いなどの技術的要素が絡む病気じゃない。君の場合は、心の問題だ」


 触診を終えた佐久間先生は椅子に座り、僕の隣で手を組む。


「そもそも以前の君はVRを満足に体験できていた。これだけでレイテンシーやフレームレートの問題じゃないことがわかる。君はおそらく、VRに対して精神的な負荷を感じている。VRへの恐怖心とも言い換えられるだろう。例えばある患者は「現実に戻ってこれなくなる」という過度の没入感に対して恐怖心を抱いていた。これは墜落するかもしれないという恐怖によって飛行機に搭乗できなくなる飛行機恐怖症と似ている」


 先生はタブレットに情報を打ち込みながらも淀みなく説明する。


「君がVRに対してどういう恐怖を抱いているのか、それともまったく違う理由がストレスになっているのか。その原因を突き止めることで症状を和らげることができると考えています。必要なのは適切な心理療法と認知療法だから」

「わかってます、何度も説明されてますから。治療には長い時間がかかることも」


 普通に答えたつもりだが、少しだけ拗ねたような響きだった。子供みたいで恥ずかしくなる。


「その理解で十分だよ。まずは君がVRのなにを怖がっているのか、君自身が気づかなければいけない。そこをクリアできれば快方はすぐだ」


 ――VRのなにが怖いか、か。


 口の中で言葉を転がす。僕自身、それがなにかもわからない。

 VRができなくなったのは真昼が死んだ時期とぴったり合っている。だから最初は、真昼の死という精神的ショックがVR恐怖症と関連していると考えていた。しかしその線で治療を進めても効果はなかったと先生は言う。

 先生の見立てでは、真昼の死が直接の原因ではなく、彼女の死によって与えられた強い精神的ストレスが引き金となってVRへの適応障害が現れたのではないか、とのことだった。つまり僕が抱えていた潜在的なVRへの苦手意識、忌避感が触発された、というものだ。

 VRには好意的なほうだと思っていただけに意外だったが、自分でも気づかないうちに何か不安を感じていたのかもしれない。


「とりあえず今回はどうだったかな。普段の生活とは遠い設定にしたし、解像度も現実レベルよりは低くして作り物っぽくしてたけど。違和感はあった?」

「そう、ですね……リアルだけど、現実じゃないって自覚はありました」


 いつもの通りVR体験で感じたことを話していく。佐久間先生は話を聞きながら記録を取っていく。これを繰り返すことでVRへの苦手意識がどこから来ているのかを突き止める、という方針だった。

 ひとしきり話し終えると、佐久間先生はタブレットを置いて僕の方に向き直る。


「じゃあ予定通り、次のVR体験には数ヶ月ほど時間を開けよう。暴露療法は連続すると負担になるからね。しばらくはカウンセリングだけになるから、予約を取っておいて」

「はい」

「で、次のVR体験だけど、イミテイトを試してみようと思う」


 ビクリと、指が勝手に動いた。


「イミテイト、ですか」

「この技術はまだ測定していなかったからね。もちろん君は体験したことがあると思うけど」

「中学時代には、何度か」

「もしかするとその体験も君の心的ストレスと繋がっているかもしれない」


 僕は、はぁ、と生返事をした。ピンとこないというのが正直なところだ。


「ソフトだけど、君が体験したものを幾つか教えてほしい。そこから検討しよう」


 試したものか。市販されているアスリート選手のものばかりだ。

 と、そこで。幼馴染の笑顔が浮かんだ。


「あ、あの。体験したものじゃないとだめ、ですか」

「それはまぁそうだね。君の記憶や人格に影響を与えたものだから、未知のものは逆に君の負荷になるかもしれない」

「……そう、ですよね」


 佐久間先生が見ているところで真昼のイミテイトが体験できるなら、万が一のことがあっても対応してくれると期待したのだが、そう上手くはいかないようだ。

 そのとき、胸中に、妙な感覚が広がった。

 僕は少しだけ、安心していた。


「では、今日はここまでにしておこうか」

「……はい」


 立ち上がり、部屋を後にする。待合室で会計を済ませて次の診察の予約を入れて、自動ドアから外に出る。残暑の熱気がこもる街中を歩いていると、少しだけふらついた。掌は汗でぐっしょりと濡れていた。


 ――VR体験の後だからだ。


 そう思い込もうとしていたとき――歌が聞こえた。

いや、実際にはそれはピアノの旋律だった。


 ――ショパンの……「別れの曲」?


 確か正式名称は練習曲第三番作品十の三、だったか。

街の喧騒に邪魔され、かき消される寸前のか細いバラードは、しかし曲名がしっかり理解できるほどに強く音を主張している。

それでいて叩きつけるような乱暴さはない。芯がしっかりしているからだ。ショパンの儚くも切ない旋律がここまで届いてくるのは、確かな力量と伝えたい想いがあるから。

 元の曲を活かし、聞く者の鼓膜を、心を揺さぶる――そんな弾き方を真昼はしていた。

 気づけば僕は音を辿って街中を走っていた。なにかに背中を押されるようだった。

たどり着いたのは駅ビルだった。商業施設の入った一階は交通機関との連絡路とは別に、人が待ち合わせできそうな広場がある。記憶している限り、そこには自由に弾ける遊興用のピアノが置いてあった。

予想通り、ショーウィンドウ近くに設置されたピアノからショパンの曲が流れてきている。周囲にはちょっとした人だかりができていた。誰かが試奏しているらしい。

真昼のわけがない。わかっていても、真昼のような演奏技術をどんな人物が持っているのか確かめたくて、僕は人と人の周囲からそっと、ピアノが置いてある場所を覗いた。


「――え?」


 思わず声が出た。

 そこに居たのは二学期からの転校生――雨宮深月だった。

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