2044年3月 別れと約束
待ち合わせ時間まで公園のベンチで待っていると、暖かく柔らかい風が頬を撫でていく。公園の敷地で咲いている桜の木がさわさわと揺れて、薄桃の花弁が空に舞い散る。
この公園に来るのはあの日――竹田くんに真昼さんとの関係を打ち明けたとき以来だった。確か高校二年生の冬だったから、もう一年以上が経っている。
あれから色々なことが変わった。私はもうイミテイトに依存せず生きている。少し前なら考えられなかったくらい平穏な生活だった。
変わらなかったことは、二つ。一つは真昼さんの演奏技術。イミテイトの影響がなくなっても私の指は彼女の弾き方を忘れることはなかった。もう指に染み付いていた。
もう一つは、彼への想い。それがたとえ真昼さんの影響だとしても、心の奥底に燻っている。
だけど今日、そのうちの一つには、決着をつけなければいけない。
「雨宮」
久しぶりに聞く声だった。振り返り――懐かしさと甘い苦さに胸が締め付けられる。
ほぼ一年ぶりに間近に見る彼は前よりも落ち着いていて、大人びている。佐久間先生の治療方針もあって彼との接触を断っていたせいか、あまりにも新鮮だった。
「ごめん、待った?」
「ううん」
首を振ると彼――竹田くんは少しだけ間隔を開けて私の隣に座る。
「それで、話ってなに?」
「うん」
竹田くんの表情は穏やかだ。以前のような他人を拒絶する刺々しさは消え失せている。
「卒業の前に、どうしても雨宮に伝えたいことがあって」
心臓が跳ねる。そろりと彼の方を向くと、彼も私の方を向いていた。
「あのとき僕を助けてくれて、ありがとう。改めてお礼が言いたかった」
「……それを言うなら、こちらこそ。私のことを助けてくれて、ありがとう」
これは本題じゃない。ただの前置きだ。予感通り竹田くんが続ける。「それと、もう一つ」
「昔さ……真昼は、自分のことをニセモノだって言ってたんだ。そこに価値はないって」
唐突に真昼さんのことを話し始めた彼は、遠くを眺める。
「もし僕が気づけてたら、なんて言ってやっただろうなって……たくさん考えて、思った。そんなに恥ずべきことなんだろうかって。あいつは、アリシアが本当に好きで彼女に近づきたい一心で頑張ってた。その気持ちはとても尊いもので、否定すべきことじゃない。その結果がコピーだったとしても、真昼のことは否定できない。したくない」
「……うん」
「ミラーニューロンが発達していったのも生きるために必要だったからだ。人間は誰かの、何かの真似をしながら成長して生きていく。僕も色んなものから影響を受けて、それが混ざり合った結果、今の僕になったんだ」
頷くと、私達の間を優しい風が通り抜ける。
「あいつの強い気持ちが引き金になって、努力した結果アリシアがあいつの体の一部になった……僕は、僕だけはそれを認めてやるべきだった。それも真昼なんだって、受け止めてあげればよかった」
彼の目が寂しげに揺れる。でもそれは一瞬だけのものだった。
「だから、雨宮」
竹田くんはゆっくりと立ち上がり、私の前に立つ。
「また、ピアノを弾いてくれないか」
「――え?」
「あいつの技術を、どうか捨てないでやってくれ。頼む」
「で、でも。真昼さんの弾き方なのに、私がそれで演奏するなんて……」
「酷なことをお願いしてると思う。けど、雨宮がイミテイトで培った二年間を大事にしてくれるなら……あいつは喜ぶ気がするんだ」
戸惑いを抑えきれず、胸の前で手を組む。ピアノのことはもう諦めていたし、他人の技術で演奏していくことは後ろめたさがある。
だけど、思ってしまった――真昼さんなら笑って「いいよ」と言ってくれそうだな、と。
「あと、あのときは、ごめん」
黙っていると、竹田くんはいきなり頭を下げた。
「偽物の気持ちだなんて言ってごめん。たとえ真昼の影響だったとしても、雨宮から生まれた感情に違いはなかった。なのに、僕は聞くこともしなかった」
頭を下げたまま、彼は拳を握りしめる。
「僕は雨宮の気持ちを否定しない。偽物だなんて言わないし、逃げない。どういう経緯だって気にはしない。ただ、雨宮の気持ちにだけ、答える。それが僕のするべきことだと思う」
彼は頭を上げる。そして口を開くが――なかなか言葉を出さない。
「……僕は、その……なんていうか、こういうのに、疎くて……何より、頭の中にはまだ真昼が残ってるから。いつか消えるとは思うんだけど、まだその……」
迷うような態度で気づいてしまう。私を傷つけまいとする不器用な誠実さなのだと。
「だから、だから僕たちは――」
「話が一つじゃなくて二つになってるよ、竹田くん」
私は彼のために、笑って遮ってあげた。
「無理しないで。全部わかってる。私も、その方がいいと思う」
こうなる結末なのだろうと、薄々悟っていた。いくら竹田くんが真昼さんを忘れて前に進もうとしていても、その想いがすぐに消えるわけじゃない。私の中にもまだ真昼さんの面影が残っている。この状態でそばに居たって、お互いが苦しくなるだけ。
本当の私を見てもらいたかったけど、好きになってもらいたかったけど、私たちはここで離れるしかない。離れるべきなんだ。
「ありがとう、竹田くん。あなたのことはずっと、忘れない」
口元を歪める彼に微笑んで、立ち上がる。それから一人で公園の出口に向かう。
泣き顔を見られたくなかった。これが真昼さんの影響で生まれた気持ちだとしても、私にとって本物だから。寂しくて、悲しくて、辛かったから。
「雨宮っ!」
彼の声に呼び止められる。
「僕はまだ、真昼を忘れられない。ようやくあいつの死を受け入れたばかりで、まだあいつが消えない。それなのに誰かと一緒にいても、きっと傷つけるだけだと思うから」
桜の木が揺れる。さわさわと、優しい音を奏でる。
「でも、これだけは言える。雨宮は僕にとって大切な存在だった。雨宮と出会って僕は変わった。雨宮と一緒が楽しかったんだ。真昼と似ていたからじゃない。雨宮が、僕の心を埋めてくれた……それは、真実だ」
涙が止まらない。こんな顔を好きな男の子に見せられない。きっとぐしゃぐしゃだから。
でも、彼の言葉に振り返らずにはいられなかった。
「だから僕達、もう一度出会い直さないか?」
振り返ると、彼は照れ笑いを浮かべながら私をまっすぐ見ていた。
「雨宮の中で真昼の影響が消えた頃。僕の中で真昼が思い出になった頃……次がどんな関係になるかわからないけど、僕はまた、雨宮に会いたい。話したいんだ」
涙が溢れて頬を伝う。彼の言葉が示す先を、未来を想像して声が詰まる。
だからせめて、精一杯に笑って、頷いた。




