2043年1月 ≒の幼馴染
夜空には星々が瞬き、黒い空がどこまでも広がっている。河川を渡る大きな橋の真ん中に留まっていると、街の喧騒はあまり聞こえてこない。
静かだ。ときおり僕の後ろを通り過ぎる車の音が聞こえるだけで、誰の声も視線もない。
――真昼がここを選んだ理由も、わかる気がする。
吐いた白い息が消えていく。手足の先は凍えていてもうほとんど感覚がない。着の身着のまま出たので、身体を温める物はなにもない。
持っているのは右手に握りしめた真昼の日記だけ。携帯電話はいつの間にか落としてしまったので、僕の所持品はこれだけだ。
さすがに今夜は越せないだろう。
手すりに背を預けてずるずると座り込む。もうほとんど体力は残っていない。ここしばらく胃になにか入れた記憶もない。僕の中は空っぽで、虚ろな感覚に包まれている。
ここに来るまで、真昼との思い出を目に焼き付けておこうと色んな場所を巡った。おかげで辿り着いたのは家を出てから二日目の夜になってしまった。
到着の前に倒れてしまっては元も子もないと考えて歩き続けたが、結果的には丁度いいタイミングかもしれない。
ざらざらとした地面をなぞって、そういえばここに献花が置いてあったことを思い出した。二年も経てば撤去されてしまう。
もうほとんどの人が、ここで天才ピアニスト少女が死んだことを忘れている。
世界は残酷だ。時間は無情だ。全ては変わっていってしまう。
だから僕だけは、あいつのために変わらないままでいたかった。それが罪滅ぼしだった。
なのに時計の針は進んでしまう。いつか真昼との思い出が薄れ、真昼のことを忘れ、真昼以外の人間を好きになっていく。
抗えないのなら――全て終わらせるしかない。
目を閉じて呼吸を繰り返す。そのうち眠気が来ることを祈る。
でも、一向に眠くならない。
段々ともどかしくなって、瞼を上げる。そのとき橋の向こうから光が近づいてきた。ライトの光量からすると大型の車だろうか。
――丁度いいや。あいつと一緒のほうがいいよな。
軋む身体に鞭打って立ち上がり、前に進む。縁石の上に立ってタイミングを計った。
車が近づいてくる。貨物トラックだ。当たれば即死かもしれない。
僕は自分が笑っていることを自覚しながら、身体を前方に傾ける。そのまま車道に倒れ込めば、トラックは避けることができない。
目を閉じ、地面へと身を投げ出して――
「春ちゃん!」
真昼の声が、聞こえた。
横合いから強い力に襲われて衝撃がくる。頭が揺れる。車のクラクションがけたたましく響き、段々と遠ざかっていく。
目を開ける。頬をつけた地べたが白い。それは縁石近くの白線だった。
僕は車道の手前で倒れてしまっていた。地面に衝突したせいで痛みはあるけれど、激痛というほどじゃない。手足の感覚もちゃんとある。
なぜだ。ちゃんと前に倒れたはずなのに。そう考えながら、首を傾ける。
僕の身体にのし掛かるように、雨宮が倒れ込んでいた。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
胸元に垂れかかった長い髪の間から、荒い息遣いが聞こえてくる。
「……雨宮?」
パァンという小気味の良い音と共に視界が揺れた。
凍えきった頬に痛みと熱が生まれ、僕はぶたれたのだと気づく。
首を元に戻すと、僕を睨み付ける雨宮と目が合った。
彼女は怒りを携えながら、今にもこぼれおちそうなほど目に涙を溜めていた。
「竹田くん、いま、なにをしようとしたの」
初めて見る雨宮の激昂だった。僕の胸元に置かれた手がわなわなと震えている。
少し前なら驚いたかもしれないけれど、今はなんとも感じなかった。
「飛び出そうとした」
「なんで」
「死ぬために」
「どうして」
畳みかけるように問われる。子どもみたいだなと思った。
いいからどいてくれと言おうとしたとき、雨宮の口が先に動く。
「真昼さんを忘れて生きたくなかったから?」
ほんの一瞬だけ、息が止まる。
「VR恐怖症を治そうとしなかったみたいに、自分を傷つけたかったから?」
空っぽで虚ろだった胸の中に、何かが生まれる。
「それが真昼さんの望みだと思ったから?」
雨宮の声が鼓膜を揺らす度に、鬱陶しい胸騒ぎが生じる。
「どうしてあなたがそう思うのか、私にはわからない。あなたと真昼さんの間に何があったのか知らないから」
雨宮はゆっくりと息を吸って、僕を真っ直ぐに見据えてくる。
「でも、これだけは、はっきりと言える。真昼さんの死は、あなたのせいじゃない」
それがトドメだった。
「お前になにがわかる」
僕は胸に置かれた手を払いのける。
「雨宮になにがわかる……僕の気持ちのなにがわかるっていうんだ!」
雨宮は驚いたように身を引いたが、僕の上からどこうとしなかった。その態度が癪に障った。
「全部僕のせいなんだよ。僕がわかってやれなかったから、許してやらなかったから……!」
雨宮を剥がそうと彼女の肩を押す。だけど雨宮は僕の服を握りしめて離れない。空腹と疲労のせいで華奢な女の子すら動かせない。
「自分の才能が偽物とわかったあいつは全部諦めようとして……僕に助けを求めたのに」
ピクリと、雨宮が反応した。
「なのに僕は、弱気になっているだけと思って真剣に聞いてやらなかった……それだけじゃない。自分の覚悟とか努力が無駄になるのも嫌で、話を聞いてやろうとしなかったんだ」
口は塞がれていないから、溜めていたものが止めどなく勝手に溢れてくる。
「自分がアリシアのコピーだった事実に悩み苦しんでいたのに。なのに僕は、僕の決断の責任を押し付けた。僕が、あいつを死に追いやったんだ」
いつの間にか、抵抗する力が弱くなっていた。
雨宮は愕然とした顔で、目を見開いていた。
「真昼さんが、アリシアのコピー?」
「……そうだよ。雨宮と同じだ。あいつもイミテイトの影響で、アリシアの弾き方をコピーしてた。それがあいつの、天才ピアニストの正体なんだ」
真昼が死の三日前に語ったニセモノという単語は、自分の技術がアリシアの模倣だったと理解していたからこそ出てきた言葉だ。
あいつは自分の才能が人の模倣から来ていることに、気づいてしまった。
真昼の絶望は手に取るようにわかる。このままコピーした弾き方を続けても、いずれ誰かが気づく。世界中の音楽家の耳は誤魔化せない。なによりモデルになった本人がいるのだから時間の問題だ。
待ち受けるのは悲惨な末路。かといってそのピアノ人生は簡単に投げ出せるものじゃなくなっていた。あいつは周囲の期待を裏切れないほどに、優しかった。
だからこそ重圧に挟まれた真昼は誰にも相談できず、僕の前からいなくなった。
「そんな……そんなことって」
「疑うならアリシアモデルを体験してみればいいよ。雨宮なら一発で気づくから」
雨宮の顔が青ざめ、目の光が徐々に失われていく。その様子だとアリシアモデルは体験していないのだろう。僕と同じで、偶然が真実を隠していたわけだ。
真昼が自分の真実に気づいたのは、あいつがアリシアのイミテイトを幼い頃からずっと体験していたからだろう。自分の演奏を記録したイミテイトを体験したことで、アリシアとまったく同じ感覚を味わっていることにあいつ自身がいち早く感づいてしまった。
「これでわかったろ。気づいてやればあいつは死ななかったんだ。僕はあいつを救えなかった……そんな僕に、救われる資格はない」
雨宮の顔が歪む。僕を直視できないのか、跨がったまま目を伏せた。
「だから雨宮、どいてくれよ……頼むから」
優しく告げる。今なら振りほどけそうだけど、できるなら彼女自身から引いて欲しかった。その方が心残りがなくて済む。
彼女の長い睫毛が微かに震えていた。迷っているのだろうか。
いや、そうじゃない。彼女は別の方向に目を向けている。
視線を追うと、僕のすぐ横に落ちたノートを見ていた。それは真昼の日記だ。
日記はページが開いて風になびいている。
「いやだ」
あまりにも小さな声で、聞き間違えかと思った。
「嫌だ、どかない」
今度ははっきりと、拒否の声が聞こえた。
「竹田くんは、間違ってる」
胸元が温かい。雨宮が流す涙が僕の胸で当たって、染みこんでいく。
「真昼さんは、あなたのせいで死んだわけじゃない。絶対に」
雨宮がゆっくりと顔を上げる。涙で濡れる瞳は、力強い光が宿っていた。
「彼女は、たとえ傷ついていたとしても、あなたのせいにして死を選んだりしない」
「……なんで」
「あなたのことを見たらきっと、苦しむ必要はない、笑ってほしいって……そう言うよ」
「雨宮に、真昼のことがわかるわけない」
雨宮の両手が伸びた。柔らかい指は僕の頬を優しく挟む。
「わかるよ。だって、私は真昼さんだもの」
雨宮は息がかかるほどに顔を近づけ、微笑んだ。
「もし私が無意識に真昼さんの人格を真似て、彼女の思考をトレースしてるなら……竹田くんを一人ぼっちにさせたくないって私の気持ちを、彼女も持っていたはず。あなたを悲しませたり、苦しませたくないもの」
奥歯を噛み締める。「あんなものは、雨宮を遠ざけたかっただけの嘘だ」
雨宮がくすりと笑う。全てわかっているよ、とでも言いたげに。
彼女の顔は、どうしても真昼と重なってしまう。
だけど、遅れて実感が湧いてくる。
雨宮は真昼とは違う人間だ。造形も仕草もなにもかも違う。目を逸らさず向き合えば、こんなにも雨宮らしい部分を見つけられたのに、僕はなにを見ていたんだろう。
「その証拠は、ここにもある」
静かに告げた雨宮は、ゆっくりと僕の上から離れる。そして落ちている日記を拾った。
雨宮が開いたページは、最後の日記が書かれた部分から更に十数ページほど後のものだった。ほとんど最後のページに差し掛かっている。そこにはなにも書かれていない、はずだった。
だけど僕の目に映るのは、見慣れた真昼の文字。
『大丈夫。きっと1からでもやり直せる。あたしには春ちゃんて頼もしい味方がいるもの』
僕は上半身を起こして、雨宮から日記を受けとる。
見落としてしまうほどにノートの隅の方で、小さい文字だった。
シャツの胸元を握りしめる。苦しい。胸が張り裂けそうなほど、苦しい。
「真昼さんは全て打ち明け、やり直すつもりだったと思う。きっと、あなたという支えが居たから、そう考えられたんだよ」
日記に染みがつく。ぼたぼたと、頬から落ちる涙が日記を湿らせていく。
「だから自分を責めないで、竹田くん。罪滅ぼしのために、幸せになることを拒否しないで」
「……無理だよ、僕は」
怖かった。のうのうと生きてあいつに恨まれることが、怖かった。
仮想現実適応障害という罰を受けている間は安心できた。これなら真昼の気も済むだろうと思った。幸せにならないよう、ずっと一人でいることを選んだ。
何より、イミテイトを使えなければ、事の真相を知らないで済む。
僕のせいだということを、自分自身が気づかずに済む。
結局僕は逃げていただけだ。自分の気持ちから、病気から、真昼から。
「許される人間じゃ、ない」
でも、雨宮深月と出会ったことで、僕は少しずつ変わってしまった。
楽しくて、穏やかで、未来への希望を抱いてしまいそうになった。
それは恐怖だった。真昼を忘れていくことも、真昼に恨まれることも、耐え難いのに、時間とともに変わってしまう。
だったら、なにもかも終わらせるしかない。
そう思っていたのに、僕を止めたのもまた、真昼だという。
僕は一体、どうすればいい。
「じゃあ、私が許します」
細い指が僕の髪を撫でる。雨宮は、目尻を和らげていた。
「私が許せるなら、真昼さんも同じだよ。私と真昼さんは重なっているから」
その言葉に呆然としたとき――ふわりと柔らかい感触が頭を包む。
雨宮の胸元に引き寄せられ、抱きしめられている。
溢れ出た感情が堰を切ったように流れ出す。
嗚咽を、止めることができない。
「大丈夫だよ、春ちゃん……今まで、ありがとう」
僕は彼女の腕を掴み、泣いた。
自分の声が枯れるまでずっと泣き続けた。
彼女はただ、僕の頭を優しくなで続けてくれた。
***
黒い空で星たちが瞬いている。橋に座り込み眺める景色はとてもゆっくり動いていて、穏やかな時間が流れていた。
冬の夜は寒いけれど、抱きしめた人肌が暖かくて耐えられる。私は横たわる彼の体にかけたコートの位置を直し、聞こえてくる寝息に耳を傾ける。
そのとき、遠くから光が近づいてきた。光は私達のすぐ手前で停まった。
車から誰かが降りてくる。ライトに照らされた人影は二つあった。
「おいおいボロボロじゃねーか!? はやくタクシーに運ばないと!」
「待ってこれ救急車呼ぶべきじゃない!?」
駆けつけた花崎さんと須賀くんは慌てながらも彼を介抱しようとした。
そんな様子につい笑ってしまいながら、私は彼の髪を撫でる。
そして、夜空を見上げて、彼方に想う。
――真昼さん。きっとあなたが、私を選んでくれたのね。
なぜ私の体が真昼さんそっくりに変化していったのか、ようやくわかった気がする。
罪の意識に苛まれ絶望の中を彷徨う竹田くんを救うために。
自分を信じきれず殻に閉じこもった私をすくい上げるために。
あなたの輝きが、私たちを導いてくれた。
――ありがとう、真昼さん。そして、さようなら。
涙が一筋だけ、頬を流れた。




