2040年1月 真昼の最後
夜道を歩いているとあくびが漏れる。腕時計を確認すると夜の十時を回っていた。塾の自習室にこもっていたらもうこんな時間だ。
――今日は帰ってからの勉強は止めておくかな。
どうしても解いておきたい過去問があったのだけれど、こうも疲れているとうまくいく気がしない。思い返せば冬休みもずっと受験勉強を続けて部屋に閉じこもっていたから脳が疲れ切っている。さすがに休息を取った方がよさそうだ。
僕は白い息を吐いてカイロスギアを取り出し、仲の良い友人たちとのグループメッセージを眺める。ほとんど受験に対する愚痴とか弱音で、お互いにがんばろうと励まし合っている。僕もそのやり取りには結構勇気づけられていた。
気になるのは、そこに真昼の名前がないことだ。
――あいつ、なにしてんだろうな。
冬休みが明けてからほとんど真昼を見かけていない。留学が決まった真昼は受験勉強の必要がなく、加えて重要なコンクールがあるということで授業もほとんど受けていないらしい。
真昼の友人からは、もうすっかり元通りに振る舞っているから心配ないんじゃない、とは言われている。わざわざ僕に相談に来た女友達がそういうのだから杞憂に終わったかもしれない。
ただ、あいつがこぼしたイミテイトについての言葉は、少し引っかかっていた。
当の本人からはバツの悪い顔で「昨日はごめんね」と謝られたので、それ以上は追及できていない。
『でも、春ちゃんにだけは知られたくない……あんなこと』
もやもやしたものは残っている。どういうつもりで言ったのかちゃんと確認したい。けど、しつこく聞いて嫌がられるのも避けたい。
もしくは真昼のことだから、相談したいけれど僕の受験を邪魔しないように待っているなんてこともありうる。
――まぁ本当に大変なときは僕に相談に来るだろ。
それが幼馴染の関係なんだから。きっとタイミングを見計らって話してくれるに違いない。
思い直して暗い遊歩道を歩いていると、頼りない街灯の下に人影があることに気づいた。僕は少し警戒しつつ、しゃがみ込む誰かを凝視する。酔っぱらいかなにかだろうか。
数歩ほど近づくと、輪郭がはっきりしてきた。
心臓が跳ねる。見慣れた人間の姿に見えた。
「真昼……?」
呼ばれた少女は顔を上げ、こちらを見た。
まるで幽霊みたいに生気のない、青ざめた表情だった。
「な、なにしてんだよ!?」
急いで駆け寄る。見れば真昼は制服の上に薄いコート一枚というかなり薄着の姿だった。僕は慌ててマフラーを外し真昼の首に巻きつける。
「お前、いま何時だと思って――」
「春ちゃん……塾の帰り?」
真昼がニコリと笑う。その目は虚ろだ。
「そうだけど、お前はこんなところでなにしてたんだよ」
「ちょっと、気分転換にね」
真昼はぼんやりとしていて、まるで無警戒だった。
僕は真昼の手を引っ張って立ち上がらせ、そのまま一緒に歩き始める。
「とりあえず帰ろう。おばさんたちも心配してる」
「大丈夫だよ……コンビニに行くって言ってあるし」
適当に頷きながらギアを装着する。確かこいつ、寒い日に貧血で倒れたこともあったはずだ。真昼の家に連絡を入れて迎えに来てもらうべきだろうか。
「ねぇ春ちゃん」真昼が弱々しい声をかけてくる。
「ピアノ辞めていい?」
足を止める。ゆっくり振り返り、真昼をマジマジと見つめた。
「なに、言ってるんだ?」
「コンクールの入選、逃しちゃったんだ。順位も下の方」
驚愕が顔に出ないよう必死に努めた。まさかという感想しかない。
「そ、そっか……残念だったな」
ありきたりな言葉しか出てこなかった。
真昼は無反応だった。悔しさとか悲嘆が微塵もなくて、気が抜けたように緩い。ショックを受けた後の放心状態というやつだろうか。
なんとか慰めようと、僕は必死に言葉を探す。
「ま、まぁそういうときもあるよ。調子が悪かっただけだって。そう落ち込むことないさ」
「違うよ。自分のことは自分がよくわかってる」
真昼がギュッと手を握りしめてくる。芯まで凍えたように冷たい。
「あたしはもうこれ以上、ピアノを弾けない。弾く資格なんてない」
「おいおい、一度の落選でそう深刻になることもないだろ。次があるって」
「次? 次に繋げてどうするの? このまま皆を騙していけっていうの?」
真昼が、僕を小馬鹿にするように鼻で笑った。
「春ちゃん。ニセモノには価値がないんだよ」
十二月の帰り道と同じように、真昼のイメージと目の前の少女が乖離している。
真昼は地面を見つめて、足下の石を蹴飛ばした。
「……弾き方を変えてみようと思ったんだ。自分の、本当の演奏をしてみたくて。でも駄目だった。そんなもの通用しなかった。あたしは前の弾き方じゃないと、他人のものじゃないと誰にも認められない」
言っている意味がわからない。他人の? どういうことだ?
「だからさ、どうせ価値がないってバレるならいっそのこと、ピアノを辞めようと思って。今から普通科を受験して、皆と別の未来を探すのも素敵だよね。でも春ちゃんと同じ高校は無理かなぁ。あたしが桃井第三で春ちゃんが城南だと、一緒に帰ることもできないかなぁ」
妄想を垂れ流す真昼に理解が追いついていかない。
真昼の両肩を掴む。
「なぁ、冗談だよな? お前は留学でオーストリアに行くんだろ?」
「だからそれも辞めるってば」
「馬鹿言うなよ! こんなことで諦めるなんてどうかしてるぞ!?」
そのとき、覇気のなかった彼女の目に険しい光が宿る。
「こんなこと? あたしのことなにも知らないくせに……! 普通に生きてるだけの、注目される苦痛を知らない人に言われたくない!」
僕は気圧された。あの真昼に真っ向から反論されるなんて。
次の瞬間、カーッと頭に血が上る。
「そ、そんなこと言うなよ! 誰のために城南に行こうって決めたと思ってるんだ!」
「――え?」
真昼が呆けたように呟き、目を見開く。
「どういう、こと?」
「……お前の言う通り、僕は普通だよ。だからお前の隣に居ても、見劣りしない人間になりたかった。城南はその足がかりっていうか、真昼が見てる世界を理解したくてさ」
言いながら徐々に気恥ずかしさがこみ上げた。ここまで教えるつもりはなかったのに。でももう引っ込みがつかない。
「将来は音楽関係のエンジニアもいいかなって考えてる。イミテイトに携わるのもありかも。音楽業界に関われば一流の機材とか触れるし、真昼の悩みも理解してやれるから」
「どう……して」
「どうしてって、それは」
葛藤する。もういっそこのまま気持ちをぶつけてしまおうかと感情が先走る。
でも、僕は踏み止まった。
真昼の青ざめた顔が目に入ったから。
「――いや」
真昼が僕の両手を振りほどく。
「いやっ!」
真昼が後ろに下がり、首を振った。恐怖と絶望に染まる怯えた目だった。
「そんなのいやだ、春ちゃんの未来までなんて責任を取れない……!」
「ま、真昼?」
「私はそんな人間じゃない! 私は、私はきっと春ちゃんを……!」
続く言葉を飲み込んだ真昼は、急に走りだした。
「おい! 真昼っ!」
呼びかけても止まらない。あっという間に姿は消えてしまった。
僕は呆然と立ち尽くすしかなかった。弱々しい街灯の下で、震える自分の手だけが見えた。
拒絶された――事実はなにもわからないのに、その感触だけが明確に心の底に残った。
僕はその日、すぐに真昼にメッセージを送った。返信はなかった。
次の日から二日間、真昼は学校を休んだ。体調不良という理由だった。
僕は必死になってメッセージを送り続けた。返信はない。勉強は何一つ手が付かなかった。
三日目がきても真昼は学校に来なかった。だから僕は、直接真昼に会いに行こうと決めた。ただし行くのは翌日の土曜にした。単純にそのほうが時間が多く取れると思ったから。
そのせいで僕は、真昼に二度と会うことができなくなる。
幼馴染の少女は、深夜に出かけたきり、帰らぬ人となった。




