2042年12月 雨宮を拒絶する
クリニックを後にしてから、僕と雨宮は無言で歩いた。互いに喋りかけることもない。
チラリと盗み見た雨宮はうつむき気味で、痛々しいほどに憔悴している。
無理もない。イミテイトのせいで自分が尊敬している人物のモノマネを始めていると聞かされれば、彼女でなくてもこうなる。
僕は声をかけられずにいた。何と言うのが正解なのかわからない。思考だけが出口のない迷路をぐるぐると回る。
くいと袖を引っ張られた。振り返ると、雨宮が切実そうな目を向けていた。
「竹田くん。少しだけ、話せるかな」
「あ、ああ……わかった」
思いがけない提案だったが、僕としてもこのまますんなり帰る気にはなれない。
***
カラオケ店のVRルームは満室だったが、代わりに普通の部屋は空いていた。僕と雨宮は室内に通されたあと互いに距離を置いて座る。
壁越しに微かに聞こえる隣室の歌声を聞きながら、なんと切り出すか迷った。
「飲み物、頼みますか」
先手を打つように雨宮が話しかけてくる。「そ、そうだな」不甲斐なく頷いてしまう。雨宮と僕はメニューを覗き込んだ。
「……安心して、竹田くん」
顔を上げると、雨宮はメニューに視線を落としたまま話しかけていた。
「まだちゃんと決めてないけど、私がピアニストに復帰することはないと思う」
まるで今晩のおかずを決めるみたいに淡白な告白だった。
僕は思考の歯車が噛み合わなくなって、瞬きだけを繰り返す。
「頼むもの、決まった?」
「あ、え、コーラ……で」
反射的に答えてしまう。彼女は頷くとインターフォンの前に行って店員に注文した。
戻ってきた雨宮は僕の対面に座る。垂れた髪を耳にかけて足元を眺めていた。
「……まぁ、そう、か。たとえ尊敬している奴とはいえ、こんなの望んでないよな」
心情を推測して言ってみると、雨宮は控えめに頷く。
「それも、ある。けどそれ以上に、このままあなたを苦しませるのは嫌だから」
ゆっくりと、真摯な目が僕を見据える。
「私のことを避けてたのは、真昼さんと私が似てたから……よね?」
心臓がギュッと締め付けられた。
「なんで、そのこと」
「ごめんなさい。実は須賀くんとの会話を聞いてしまって」
あのときか。なにをやってるんだ僕は。不注意にも程がある。
「そこで初めて知ったの。あなたが私と真昼さんを重ねていたことも、そのことに自己嫌悪を抱いてることも。おかげで自分の異変に気づけたんだけど」
見つめてくる彼女の目に、いつぞやの熱が過ぎった。
「だから、私が真昼さんに似たままで近づけば、ずっと避けられてしまうと思って。それは嫌だったから。あなたに、遠くに行ってほしくない」
雨宮が切実そうに、なにかを期待するように、見つめてくる。
僕の感情がぐらぐらと揺れた。
「私は、本当の私を見てほしい……真昼さんに似ていない、私という人間を」
発生した苛立ちの芽が急成長していく。
「ピアノに未練がないわけじゃないけど、これは真昼さんの技術であって、私のじゃない。それに竹田君と離れてまでピアニストになろうとは――」
「――めろ」
「え?」
「やめろっ!」
震える声が室内に反響した。
雨宮が凍り付いたように目を見開いていた。僕は苦々しさを覚えたが、一度せり上がった衝動は止められない。
「なんで僕なんかに構うんだ。他人だろ」
「違うよっ。私にとってあなたは」
前のめりになった雨宮が言葉を切る。目を逸らし「……友達だから」と小声で続けた。
遠慮がちな姿は、それ以外の感情をほのめかしている。
苛立ちが悪化していく。僕は心の中で舌打ちした。
「ちょっと優しくして助けたからって誤解されても困る。別に雨宮と親しくなりたいと思ってたわけじゃない。これまでのことも仕方なく付き合ってただけだから。近づかないでほしいんだよ、ほんと。今更、本当の雨宮とか関係ない」
彼女の顔色を確かめなくても、その言葉は確実に雨宮を傷つけていることがわかった。
もちろん、僕自身をも。
「むしろさ、その気持ちだって本当に自分のものだって言えるのか?」
ピクリと、雨宮が反応していた。
「僕に対する態度も真昼の真似事なんじゃないのか。あいつが幼馴染を大事にしてたから、それをトレースしてるだけなんじゃないのか」
僕は強く強く拳を握り締めた。爪が食い込み鈍い痛みが走る。
その痛みで、心の激痛を誤魔化した。
「そんな感情、偽物だ」
視界には、膝の上に置いた雨宮の拳が映っている。微かに震えていた。
「――私の」
隣室からの音に掻き消されてしまいそうなほど、か細い声が耳朶を打つ。
僕は顔を上げて、罪悪感に押し潰されそうになる。
雨宮の頬を、涙が流れていた。
「私のこの気持ちは、偽物なの?」
「……そうだよ」
大粒の涙がこぼれていくのを直視できず、目をそらす。
「治療するなら勝手にどうぞ。そのときはきっと、僕のことなんてどうだってよくなってる」
雨宮が立ち上がる。彼女はリュックを掴んで出口へと走った。
ちょうど飲み物を運んできた女性店員とすれ違って店員がギョッとする。雨宮は振り返ることもなくそのまま駆けていった。
ドアの前で立ち尽くしていた店員に僕は「そこに置いといてください」と笑いかける。二人分のグラスを置く女性店員の目は冷えきっていたけど、僕は気づいていないふりをした。
ドアが閉まって一人になる。
ソファーにもたれて天井を見上げた。
「あー……死にてぇ」
呟いてから、自嘲の笑みが漏れる。
いま死にたいほど悲しいのは雨宮のほうだ。傷つけた僕が被害者ぶるのは間違っている。
僕は目を閉じた。考えることは止めた。もう解決はしたのだから。
これで元通り。また僕は一人になった。迷う必要はなくなった。
元通り――救われずに、済んだ。




