2042年12月 雨宮に起こっていること
カウンセリング室に座る佐久間先生は、瞼を閉じて黙り込んでいた。もう数十秒ほどじっと動かずにいる。
僕と、僕の隣に座る雨宮は緊張した面持ちで佐久間先生の言葉を待っていた。
この日、僕らは全てを打ち明けた。
雨宮が真昼モデルのイミテイトを二年間欠かさず体験していたこと。
その影響で真昼の演奏技術をトレースしてしまったこと。
彼女の人格にも強い影響が出始めていること。
イミテイトによって自分の技能が盗まれていると考える人たちの存在を知り、カウンセリングの必要があると判断したこと。
矢継ぎ早に繰り出す僕らの話に佐久間先生は一切口を挟まなかった。説明し終えると先生は「事情はわかりました」と返事をしたきり、続きを言わない。
見たことのない姿に僕は焦る。あまりに荒唐無稽な話を出して逆に怒らせてしまったのかと、別の意味で不安になる。
でも今は先生だけが頼りだ。僕らでは専門知識がなさすぎて、これ以上この現象について調べることはできない。
「……僕はとんだ勘違いのアドバイスをしてしまったわけだね」
ようやく話し始めた佐久間先生は苦笑いして僕を見つめた。しかしすぐに雨宮へ向き直る。
「イミテイトの没入感は人間の認知を容易く歪めてしまうため、たとえば法に触れる内容や怒り、悲しみを無闇に煽る体験が国際条約で禁止されているのは知っているかと思います。裏を返せばスポーツなどの健全性が担保できる分野では心身への影響が少ない、というのが今までの定説でした。しかしここ数年、君たちが調べたような事例が偶発しているため、世界中の学者が研究を始めています」
佐久間先生はそこで一拍置き、僕らを見据える。
「結論から言えば、イミテイトを通じて他者に身体技能が移る現象は、認められていません」
「えっ……そう、なんですか」
何人もの訴えがあるのだから真実だろうと思っていた。雨宮も眉を上げている。
「イミテイト開発側も説明しているけど、試合やライブ体験程度で技能を取り込めることはない。身体能力も違えば経験値にも差がある他人が、イメージトレーニングだけでモデルのようになれたら、今頃世間は大騒ぎだ」
「でも世界各地で訴えがあるんですよ?」
佐久間先生の話は理屈が通っているが、それでは僕の気持ちが収まらなかった。
「僕が言っているのは、不特定多数への影響が否定されている、ということ。しかし今、別の論文が学会を騒がせていてね。個人の特徴や性質に類似が見られる者同士のイミテイトについては、そこに無視できない影響が見られる、というものだ」
佐久間先生はタブレット端末を僕らに見せてきた。映し出されたのは英語の論文で僕にはほとんど中身が読めない。一方で雨宮は幾らか読めるのか、柳眉を中央に寄せて眺めていた。
彼女はうわ言のような声で読み上げる。
「年齢、環境、同種の経験およびストレスを抱えるなど諸条件を満たした人物をモデルとした場合、被験者の身体や精神にモデル側との同調と呼べる変化が生じていることが観察された」
「それって……!」
僕が声を上げると、佐久間先生は難しい顔で顎をさする。
「この論文は追試の真っ最中で、今多くの学者が真偽を見定めている。正確なところはまだわからない。僕は疑わしく思ってたんだけど……」
佐久間先生は雨宮に視線を送る。その鋭さに、雨宮はビクリと肩を震わせた。
「雨宮さん。ここから語ることはあくまで僕の現時点の見解だ。それを前提とした上で、酷なことを告げるかもしれない。もし受け止める自信がなければ、また改めて場を設けても良い。どうかな」
雨宮は唇を引き結んだ。膝の上に置いた拳を握りしめ、迷子のような顔で僕を見る。
僕は無言で見返した。雨宮に任せるという意思を込めて。
雨宮は目を閉じて深呼吸した後に、告げる。
「――聞きます」
佐久間先生に向き直る彼女の瞳には、気丈な輝きがある。
僕は、その強さを羨ましく感じた。
「わかりました……ではまず、君が別人の指使いをトレースしてしまった件だけど。さっきはありえないと言いましたが、それはあくまで短期間の実施に基づいた考察です。二年間欠かさずイミテイトを体験したという君の事情は他に類を見ない。つまり特殊事例なんです。なんらかの影響があった可能性を否定できない」
「加えて」佐久間先生が続ける。ギィと椅子の揺れる音が響いた。
「君と真昼さんの年齢は同じで、幼少期からピアノレッスンを続けていたという経緯からも体格や肉付きのある程度の類似性が認められます。感覚、あるいは感性と呼べるものも近かったかもしれない。つまり論文の諸条件に当てはまっていた。加えてVR感覚が症状を加速させたことも考えられます」
「ファントムセンス、ですか?」
「イミテイトにも応用されている現象で、学術的には錯触と呼ばれます。実際には起きていないことを体性感覚として体験するという話で、たとえばVRで海を見たら潮の香りを感じた、海風を感じたという風に、身体は起きてもいない事実を勝手に感じてしまう。それは脳の誤認から自分の記憶情報が引っ張り出されるということが原因だけど、君たちもある程度は理解できるんじゃないかな」
僕は思わず頷いていた。もう昔の経験だが、バスケットプレイヤーのイミテイトでは汗やコートの匂いを感じた。あれは現場の再現ではなく、僕の記憶を基にした体性感覚なのだろう。
「君は真昼さんと同じ場所にいた。つまり彼女の環境をより鮮明に脳内で補完することができる。その結果、君自身の体験と真昼さんの体験が脳内で混同してしまった。何度ものイミテイトによって真昼さんの体験を自分の過去として捉え始めた、と考えられる」
「そ、そんな! 私が、真昼さんと同じだなんて、とても……」
「うん、君は無意識だったと思う。言うなればこれは自己暗示の一種だから」
雨宮は眉根を寄せて俯いている。腑に落ちるかどうかはともかく、理解はできているようだ。
僕はといえば疑問を感じていた。先生の話は同一視による思い込みが原因ということだが、それで技量の再現は説明できたとしても雨宮の性格変貌に繋がらない。
「ときに君たちは、ミラーニューロンというものを知ってるかな」
急な話の転換についていけず、僕と雨宮は顔を見合わせた。彼女の方も知らないようだ。
「共感や同調といった感情に作用する運動神経細胞のことでね。他者の行動を理解したり、自分のことのように共感する機能に繋がっているんだ。それは人が模倣学習をするために培われたものだと言われている」
模倣、という言葉に僕は少しだけドキリとした。
「ミラーニューロンは特定の脳領域にも連動していて、刺激すると人の感情にも変化が現れる。創作されたキャラクターの悲劇に涙を流すという感情移入はこれで説明ができる。僕たち人間は作られたものからでもミラーニューロンを活性化させ、我が事のように置き換えられる。では、VRで他人の感覚を味わったとき、ミラーニューロンの活性化はどうなるだろうか」
「――まさか」
雨宮はなにかに気づいたように呟いた。顔は更に白くなっている。
僕はまだピンときておらず焦った。その様子を受けて佐久間先生がゆっくりと説明する。
「竹田くんも経験があると思うけど、VRで他人の感覚を体験することは、まるでその人になったかのような錯覚を抱かせる。その体験は人の心に影響を及ぼす。これは白人男性に、黒人になった体験をさせることでその後の行動に変化が現れたという実験からも証明されている。イミテイトはそれを更に強化している」
「それで、どうなるんですか」
「共感性が上がる。が、変化はそこまでだ。本当の意味でわかり合うにはその人物になりきることだが、イミテイトといえどそこまではできない。しかし身体と心は密接に繋がっている。もしも別の人間とまったく同じ体感覚を共有できたとしたら、心も引っ張られる可能性が高い」
息を呑む。核心に触れた気がした。
「雨宮さんは真昼さんの過去を追体験し続けた結果、VR感覚も相まって自分に自己暗示をかけた。後は心が引っ張られ、真昼さんならここでこうする、真昼さんならこんな風にする、という仮想の役割を演じ始めたと考えられる」
つまり雨宮は、イミテイトを通して真昼と自分の過去を混同しただけでなく、真昼のモノマネまで始めてしまったということだ。
僕は雨宮のほうを見ることができなかった。彼女は一体どんな表情をしているのだろうか。それを確かめる勇気が出ない。
佐久間先生は珍しく疲れたようにため息を吐いた。
「さきほど見せた論文の著者は僕の知り合いでね。彼もまた被験者の変調をミラーニューロンシステムの影響だと分析している。雨宮さんの症状については彼の意見も踏まえて考えようと思うけど……それよりも重要な点を確認させてほしい」
佐久間先生が雨宮に語りかける。そこでようやく、僕は彼女を視界に入れることができた。
雨宮は唇を噛めている。膝の上に置いた手が震えていた。
彼女の手を握ってあげたい。支えてやりたいと思う。
けれど僕は、寸前のところで踏みとどまった。
これ以上はダメだ。僕はもう雨宮を特別視してしまっている。
これ以上踏み込めば、僕は――。
「僕は患者さんの希望を優先したい。君は、君の変化を治したいと思うのかな」
「私は……」
雨宮は言いかけて眉根を寄せた。返事が出せないでいる。
「君が今の自分を望まぬ変化だと思うのなら、僕が最大限の力になることを約束する」
雨宮はうつむいた。唇を噛み締めた顔が、垂れた髪に隠される。
「……少しだけ、考えさせてください」
消え入りそうな声に、佐久間先生は頷くだけだった。




