2042年12月 核心に触れる
部屋の照明を付ける。目に飛び込んできたのは大きくて黒いグランドピアノ。
乾燥した空気を吸い込むと、懐かしさと苦々しさがこみ上げる。
――どれくらい練習してなかったかな。二年、ううんもっとかも。
椅子に座って鍵盤を眺める。苦笑いが浮かんだ。
こんなにも久しぶりなのにあのときはよく弾けたなと、自分に呆れてしまう。
あのときの私はピアノに没頭して花崎さんとのことを忘れようとしただけ。ほとんど癖というかヤケクソ気味だった。そんな風に衝動に身を任せたおかげで竹田君と話すようになったのは奇妙な縁を感じてしまうけれど、いま気にするべきところはそこじゃない。
――そうよ。大事なのは、真昼さんの演奏に似ていたということ
変だなとは思っていた。二年ぶりの演奏なのになぜここまで人が集まっているのだろうと。目立つ場所でそこそこ上手な演奏をしていた物珍しさが人々の足を止めていたのだと、後から自分を納得させていたけれど、それだけでは説明がつかない注目度があった。
『……演奏まで似てるし』
それは、竹田くんが発した一言。
つい先日、私は竹田くんと須賀くんが話している場面を盗み聞きしてしまった。いけないことだとわかっていても、ここ最近の彼は私を明らかに避けていたし、気に触ることをしてしまったのかと不安で立ち去れなかった。
そのときに聞いた話は私に衝撃をもたらした。
私は彼の初恋相手に似ているという。瞬時に浮かんだのは彼の幼馴染だった。
でも、おかしな話だ。私は真昼さんの人柄を知っている。私とは似ても似つかない。だから初恋相手は違う人なのだろうと思ったけど、演奏まで似てるとなれば、彼女が一番あり得る。
余計に困惑した。真昼さんは明るくて優しくて屈託がない素敵な女の子で、私は正反対だ。演奏も似てると言うが、どちらかというと私は正確さに重きを置く弾き方だったから、彼女の感情豊かな弾き方とは対極にある。
勘違いなんじゃないか――そう断じることは、できなかった。
この高校に来てから、私はまるで私じゃないみたいだった。
昔の私だったら花崎さんを無視したことを後悔しなかっただろうし、クラスの一員なんて意識もなかっただろう。騙されていることに気づいたら真っ先に投げ出していたはず。
だけどそうはならなかった。私は、いつもの私じゃないからうまくやってこれた。
もしかすると、私の体に何かが起こっているのだろうか。
突飛な考えじゃない。だって、レッスンを二年も止めてしまったこんな状態で、現役時代みたいに指が動くはずもない。練習なしになんとかなるほどピアノは甘い楽器じゃない。
それでも私の指は羽のように動いた。レッスンに明け暮れていた頃と同じくらいに。
――……いいえ。もしかすると、現役時代よりも更に。
この奇妙な変化。そして竹田くんが言った、演奏が似てる、という感想。それらは密接に関係している気がする。
だから今日、私は自分の異変を確かめに来た。バックからカイロスギアを取り出し、録画状態にして鍵盤が映る位置に固定する。
今から弾くのはショパンの幻想即興曲。真昼さんのイミテイトを通して何度も何度も聞いた曲。難易度が高く、当時の私では何とか演奏をこなすだけで精一杯だった曲。
劣等感が蘇る。その苦さを抱えて、私は鍵盤に指を叩きつける。
指は、驚くほど滑らかに動いた。
***
撮影した動画が終わる。バイザーを上げて目を擦り、深く息を吐く。
両手を眺める。これは私の手だ。でも別人のものにしか思えなかった。
二年間もレッスンしていなかった人間の動きじゃない。しかも私自身の弾き方でもなかった。
映像を見てはっきりした。この見覚えある弾き方は、真昼さんのものだ。
私はなにもしていない。ピアノに触れてすらいない。なのにどうして。
――……違う。私はずっと触れてきた。
イミテイト。尊敬する女の子の過去を、ずっと追体験してきた。
そのせいなのかと考えて、すぐさま否定する。イミテイトはスポーツや楽器の基本的な動きを習得させる手助けにはなるけれど、達人級の技能をそのまま習得することはできない。なぜならその人物の経験、身体機能、思考は同一ではないから。まったく同じようにトレースすることは不可能のはず。
背筋を冷たいものが流れていく。だめだ。今の私には断言する自信がない。
確かに私は彼女みたいになりたかった。でも、こんな風に無意識に変化しているなんて恐ろしいだけだ。
何より、自分の性格の変化。これもイミテイトと無関係には思えない。
もし影響があるのだとしたら、誰か専門家に診てもらうほかない。
――専門家……確か竹田くん、VR専門の精神科に通ってたはず。
彼の助言を得ようと考えて、逡巡する。避けられている今、頼っていいのだろうか。
――……ううん。このことは竹田くんも無関係じゃない。
むしろ竹田くんの悩みに繋がっているなら、彼に黙っているわけにはいかない。
何よりこの状況を放置すれば竹田くんに避けられる一方だ。私が真昼さんに似ていると気づいたからこそ、彼は私を真昼さんの代わりにしているんじゃないかと罪悪感を抱いている。その誠実さは嬉しいし、私だって、初恋相手と似ているから気にかけてもらうというのは素直に喜べない。
たとえ尊敬する女の子でも、代わりに支えてあげたいと思っても、本当の私を見てほしい。
「……よし」
考えがまとまった。帰り支度をしながら今後の行動を考える。
そのときふと、グランドピアノが目に留まる。もう二度と触れることはないと思っていたものは、昔と変わらず私を迎え入れてくれた。
白状しよう。本音では、後ろ髪を引かれている。
真昼さんの演奏技術があれば私はまたステージに立てる。華やかな場所で万雷の拍手を受けるイメージが浮かぶ。それは夢にまで見た情景だった。
でも、所詮は人の持ち物だ。
私は二人に救われた。二人の笑顔を汚すことはできない。
それが私の、ささやかな矜持のつもりだった。




