2039年11月 真実に気づく
「うそ。嘘だ、こんなの……」
ベットの上で正座しているのに、地震が起きたみたいに視界がぐらぐらしていた。カイロスギアを掴んだ手が小刻みに震えている。誰かの息遣いがうるさいくらいに耳元で聞こえた。
それが過呼吸気味の自分のものだと、あたしは遅れて気づく。
どんなコンクールでも、大勢の観衆を前にしても緊張をコントロールできていたのに、今は身体と脳が離れてしまったみたいに動揺が抑えられない。
「どうして、なの?」
答えてくれる人はいない。いるわけもない。この事実に気づいた初めての人は、他でもないあたし自身だから。自分自身でわからないことが他の誰かに答えられるはずがない。
始めは単なる勘違いかと思った。けれど頭に直接打ち込まれたような違和感が拭いきれなくて、間違いであることを確かめたくて、何度も何度もソレを体験した。
イミテイト。没入型一人称VRと呼ばれる、他人の感覚を追体験するソフト。
あたしが持っているのは、自分の演奏技術をVRを通して他人のように味わい、未熟さや課題点を見出すことを目的とした練習用プログラムだ。自分で自分の過去を体験するなんて凄い時代だなと感心しつつ、どうせ自分の感覚なんて新鮮みもないだろうとちょっと侮っていた。
それでもあたしの体だから、あたしにとってはしっくりくる――はずだった。
流れ込んできたイメージは、別人のものだった。
「あたしは、なに?」
声は震えていた。別の可能性に縋ろうと必死に考えても、疑念は確信に変わって動かない。
「あたしは、アリシアの、なに?」
もう一度自分に問う。今度ははっきりと、逃れようのない事実を絡ませて。
アリシア・ヴィーグリーズ。天才と謳われる北欧のピアニスト。十七歳の若さでジュネーブ国際音楽コンクールの第一位を獲得した才女。現在の彼女は三十五歳で、今も現役ピアニストとして活動しながら人々を魅了している。
彼女のピアノが大好きだった。彼女が十七歳と二十歳と二十三歳と二十八歳の頃に収録したピアノ演奏のイミテイトが大好きだった。イメージトレーニングになるからと両親が買い与えてくれたアリシアモデルのイミテイトは、あたしの宝物だった。
それが今、悪夢に変わった。
口を手で覆う。酸味が喉を痛めつける。でも吐き出すことができない。こんなにも辛くて苦しいのに、身体の中に留まり続ける。
まるで今のあたしみたいだ。捨てたいのに捨てることが叶わない。
――それはいつまで? 一生、このまま?
血の気が引いた。
ギアを使ってネット回線を開く。これが自分の思い込みであると誰かに証明して欲しかった。精神的な病気でもなんでもいい。あたしを安心させてくれる材料が欲しい。
すぐに、探してはいけなかったと後悔した。
「そ、んな……」
映し出されるのは新聞記事と、法廷闘争の結果。調べれば調べるほど似たような事例が検索結果として引っかかる。目の前が暗く染まっていく。
ネット回線を閉じてギアを外す。ハプティクスグローブをつけたまま、その両手で顔を覆う。
――どうしたらいい? あたしはどうすればいいの?
幸か不幸か、この現象はまだ何も証明されていない。でも似たような話が出てきているし、研究も進んでいくかもしれない。大きな話題になることだってあり得る。
そうなればいずれ、アリシアの耳にも届く。
「は、はは。あはは」
乾いた笑い声が漏れた。
周囲から天才だと持て囃され、特別な扱いを受け、なんの疑いも持たずその評価を受け入れていた自分が、あまりにも滑稽だった。
視界が歪む。膝を組んでその間に顔を埋めて、心が裂けそうな痛みに耐えた。
誰かに話す勇気なんてない。相談すれば、きっと全てが終わる。ママもパパもあたしに失望して、世間からは詐欺だと罵られるかもしれない。
大好きな幼馴染もきっと、あたしから離れていく。
――春ちゃん。
少し意地悪で口が悪いところもあるけど、根は優しくてひたむきでとても格好良い男の子。
あたしの、初恋の人。
彼にだけは、嫌われたくない。軽蔑されたくない。
じゃあ、誰に頼ればいい?
誰もいやしない。あたしは、自分の罪が暴かれないよう祈りながら過ごすしかない。
心の支えだったピアノですらもう、ただの罰でしかない。あたしには何も残っていなかった。
――死にたい。
生まれて初めて、心からそう思った。




