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2042年12月 雨宮の過去

 喫茶店を後にした僕と雨宮は、住宅街の片隅にある小さな公園に移動した。寒さのきつい外で話すより店にでも入ろうと提案したが、周囲に誰もいないところがいいと雨宮が希望したのでこうなった。

 公園の沿道に設置された自販機で缶コーヒーと緑茶を買う。ふと空を見上げれば重苦しい灰色の雲に覆われていた。午前中は晴れ間だったのに。

 雨宮が座っているベンチに戻って、小さなペットボトルを差し出す。


「お茶でいいかな」

「あ、ありがとう。お金を――」

「いいよこれくらい」


 財布を出そうとする動きを牽制して、僕もベンチに座る。

 雨宮は遠慮がちにしていたが、ペットボトルの蓋を開けるとお茶を一気に喉に流し込んだ。白い喉がごくごく動くのを眺めていると、雨宮はふうと息を吐いてうつむく。


「驚かせて、ごめんなさい」


 か細い声は少し震えていたが、先程よりは普段に近い雰囲気だった。


「びっくりしすぎて、頭がこんがらがって、心の整理がつかなかったけれど……ちょっとだけ落ち着きました」


 胸を押さえてふうと息を吐く彼女に、僕は道すがら考えていたことを尋ねる。


「雨宮は、真昼と知り合いだったのか?」


 真昼が噂になっていた存在だとしても、接点がほぼなければ驚いて終わりだ。

 しかしさっきの雨宮の態度は、何かしら繋がりがある上でのリアクションのような気がした。

真昼からはそれらしいことを聞いていなかったし、あいつの葬式にも雨宮の姿はなかったように思うが、ちょっとした知人関係にあったのだろうか。

 だが、僕の予想に反して雨宮は首を振った。


「ううん。同じコンクールに出てはいたけど、喋ったことはなくて。真昼さんと違って私は入賞もできないくらいだから、接点すらなかった。私はともかく、真昼さんは私のことなんて知らなかったはず」


 ほぼ他人のようなもの、ということか。そうなると様子が変わったのが余計に気になる。


「順を追って話します」


 困惑が顔に出ていたのか、雨宮が諭すように言う。彼女は深く息を吸って自分を落ち着かせると、ゆっくり話し始めた。


「プロのピアニストを目指していたって、言ったよね? 私は朝から晩までずっと練習して、学校行事も出ず友達も作らずひたすらピアノに向き合う生活を送ってた。でも私は才能がなくて……大事なコンクールはいつもミスしたり演奏に気持ちが入らなくて、入賞を逃してきた。誰かを感動させることも、技量で褒められることもなかった。いつしか私にとってピアノは苦痛そのものになってた。でも、一つだけ良いことがあったんだ」


 雨宮が僕の方を向く。鬱屈とした色は鳴りを潜めて、瞳には輝きが戻っていた。


「その子は間藤真昼という同い年の女の子で、天才ピアニストと讃えられるほどの技術力を持っていた。彼女は、私とは次元が違った。嫉妬なんてできないくらい魅了されて、ライバルだとわかっていても聞き惚れるくらいだった。彼女は私の、憧れだったの」


 寒空の下で奪われていた熱が、身体の奥からじわりと滲んでいく。

 真昼と似ていると感じていた少女は、真昼に心底憧れている少女でもあった。


「プロを諦めた最後の方はもう参加者というより聴衆の一人として参加してた。同じ立場にいられることを誇りにすら思ってた。心の底でずっとずっと、彼女になりたいと願ってた」


 熱量が声にこめられる。真昼への羨望が、雨宮を饒舌にさせている。


「彼女が亡くなった後も、それは変わらない」


 雨宮はくしゃりと顔を歪める。笑っているようにも、泣き出す寸前のようにも見えた。


「竹田くんのことが初対面のように思えなかった理由も、これでわかった。真昼さんがコンクールの後に会っていた親しげな男の子、それがあなただったんだね」


 乾いた風が頬を撫でた。僕は、すぐには返事をできなかった。


「――僕を見ていた、のか」

「うん。遠巻きだけど、真昼さんがその男の子を春ちゃんって呼んでたのも覚えてる。清春だから連想できなかったのね。まさか転校した先でその人と会うなんて思わないし」


 早口にそう言った雨宮は、気が抜けたように息を吐いた。

 温くなった缶コーヒーを両手で挟みながら曇天の空を見上げる。僕も雨宮と同じ気持ちだ。こんなことが起こるなんて夢にも思わなかった。

 偶然にしては出来すぎている――そう、まるで何かの意思に動かされているかのよう。

 いつもの僕なら他人を拒絶して、雨宮に関わろうとはしなかった。自分でも驚くほど雨宮に関わってしまったのは、彼女に真昼の面影を感じていたから。嫌だけど、それは否定できない。

 雨宮になにも感じなければ、僕らは互いの関係性を知らないまま過ごしていた。

 だけど、僕らはこうして繋がってしまっている。

 神様の悪戯だとしたら――たちが悪すぎる。


「あのときの、仲の良さそうだった二人が離れ離れになったって思うと……凄く、やるせない」


 雨宮が眉を曇らせる。


「私は、平気じゃいられなかった。とても辛くて、苦しくて、虚しかった。自分がピアノを止めたときよりも、ずっと」


 雨宮も、真昼の死に絶望し、苦しんできた一人だった。

 ……だけど、なぜだろう。

 彼女を見ていると、僕ほど苦しんできたようには思えない。


「それは竹田君も同じだったはず……だからこそ、どうしてなんだろうって思う」


 言葉の意図を測りかねて首を傾げると、彼女は続ける。


「竹田くんはVRができないから。イミテイトに頼ることもなくどうやって立ち直ったんだろうって……竹田くんが強い人だから?」

「イミテイト? イミテイトがなんで関係するんだ?」

「だって私の、真昼さんを失った心の穴を埋めてくれたのは、真昼さんのイミテイトだったから。私は彼女の感覚を毎日体験して心の支えにしてきた。そうすれば辛いことも忘れられた」


 僕はしばし呆気にとられた。聞き間違いかと思って、再度確認してみる。


「あいつの、追体験を、毎日?」

「そうだけど、なにかおかしい?」


 雨宮はキョトンとしながら小首を傾げる。何の疑いも持っていない。

 いくらなんでも頻度が異常だ。あえて誇張したのかと邪推してしまうが、雨宮に嘘をついた気配はない。


「あの演奏プログラムには、実は私の演奏記録も入ってて。反復練習のためにイミテイトに入って、ついでみたいに彼女の演奏を体感してみた。そしたらいつの間にか真昼さんの演奏ばかり繰り返し体験するようになってた。彼女の演奏が別格だったから。両親が喧嘩しているときも、ピアノが売り払われたときも、私は真昼さんのイミテイトを聞くことで耐ええきた。ずっと、彼女に助けられてきたの」


 雨宮の話は、はたから聞くと美談そのものではある。

 だけど毎日という部分がどうしても引っかかる。そこまでイミテイトが心の支えになるのだろうか。真昼の演奏体験は心を浄化するなんて、怪しげな商品じゃあるまいし。

 ――それともまさか、あの噂はほんとうなのだろうか。

 真昼の演奏を追体験すると心が安らぐ。救われる。

 そんなことが、本当にあるのか?


「だけどあなたは違う。悲しみを、どうやって乗り越えてきたの?」

「僕は……」


 雨宮の話が気になりつつ、問われたことで自分の過去を振り返る。

 特別なことは何もなかった。大きな空虚を抱えて、いつの間にかここまで来ていた。


「気づいたら時間が過ぎてた。病気を治さないとって焦りもあったし、なんだかんだ忙しくしてたから」

「そっか……やっぱり竹田くんは、凄いな」


 尊敬の念を含む言葉に、僕は喜びを感じなかった。

 嘘をついたような後ろめたさだけが残った。


「今まではイミテイトがあればそれでいいと思ってた。彼女の追体験ができれば満足だった。でも最近は、他にも良いことがあるってわかったんだ。現実は、自分が思ってるほど悪いものじゃない……それを教えてくれたのは、あなたです」


 僕を見つめる雨宮の瞳が揺れていた。


「私を救ってくれたのが尊敬している人と、その幼馴染の人なんて、なんだか運命みたい」


 上気したような雨宮が、リュックを前に抱えて何かを取り出す。


「ごめんなさい、勝手に興奮して。でも、だからこそ二人にはお礼がしたい」


 彼女が手に持っているのは小さな紙袋だった。


「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント」


 うつむき気味な雨宮の頬が赤く染まっているのを見て、心臓の鼓動が早まる。


「僕に……?」

「言葉だけじゃ足りないと思って、部長に教わりながら作ってみました」


 紙袋を受け取って中身を覗いてみる。そこには茶色のマフラーが収まっていた。

 驚きで顔を上げると、はにかむ雨宮がいた。

 その仕草に胸が騒ぐ。


「もちろん、お礼のためだけど、その」


 声は尻すぼみに小さくなっていった。雨宮の緊張が僕にまで伝染してくる。

 待て。この雰囲気は、まずくないか。


「私、たぶん、竹田君のことが――」


 背筋に電流が走った。汗が吹き出してくる。

 これ以上言わせてはいけない。踏み込まれてはいけない。

 拒否できたとしても、気持ちが満たされてしまう。幸せを噛み締めてしまう。

 それじゃ駄目だ。駄目なんだ。

 僕は――たくない。

 どうするべきか数秒の間に考えを巡らせた僕は、今しがた連絡があったかのようなフリをして携帯電話を取り出した。


「ごめん雨宮。用事があったの思い出した。帰らないと」

「えっ? そ、そう、なの?」


 明らかに戸惑っていたが無視して立ち上がる。僕はほとんど逃げ出すように駆けた。


「竹田くん!」


 呼び声に足が止められる。振り返ると、雨宮が立ち上がっていた。


「私は、真昼さんにもお礼がしたい。だから、真昼さんのためにもあなたの力になりたい」


 きっと、雨宮は精一杯の勇気と慈愛を込めていたのだろう。

 だけど僕は、壁際に追い詰められたような焦燥感を味わうだけだった。


「病気のこと一人で抱え込まないで。真昼さんの代わりになれるかはわからないけど……手助けしたいから。それだけ、言いたかったんです」


 僕は返事もせずに公園を出て走った。

 駅に向かう道中を走って走って、息が切れて立ち止まる。


 ――やめてくれ。


 雨宮の言葉が脳内で反響している。その度に胸の奥がズキズキと疼き、呼吸が苦しくなる。


 ――やめてくれ、雨宮。


 今更になって、彼女に手を差し伸べてしまったことを後悔していた。

 真昼の面影を重ねてしまう自分を激しく呪った。

 僕は支えなんて求めていない。真昼の代わりなんて求めていない。助けてほしいなんて言っていない。

 どうして誰も彼も僕に手を差し伸べようとする。そんなことしたって無駄だ。

 僕は今のままでいい。今のまま、独りでなんとかするから。

 真昼のことを想って、あいつの死を嘆いて、独りで生きるから。 

 自分のことなんて、救いたくない。

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